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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

バブルの生成と崩壊(1)-資産価格の経済分析(上)

 

2016/10/21

 日本経済は80年代後半に歴史的大バブルを経験し、その後はバブルの崩壊とともに今度は歴史的低迷期を迎えることになる。私は、その大バブルの生成と崩壊の過程を一エコノミストとして観察してきた。私がそのバブルを「仕事の一環」として分析することになる舞台は、他でもない当日本経済研究センターであった。

分からないことは知っている人に聞け

 私は、78年から80年にかけて、内国調査課で課長補佐として経済白書に携わった後は、計画課の補佐、大臣の秘書官など行政的な仕事を続けていた。それでも、経済分析の仕事は好きだったので、暇を見ては『日本経済適応力の探求』(80年)、『石油と日本経済』(82年)、『経済摩擦』(86年)といった本を書いていた。役所の本業の片手間に本を書いていたわけで、今で言えば「副業」「パラレル・キャリア」を実践していたことになる。

 そして85年8月に公正取引委員会事務局に出向し、調査課長となった。この公正取引委員会には「経済調査会」という審議会のような組織があり、香西泰さん(元日経センター理事長、会長、現在名誉顧問)がこれに参加していた。私は時々この会議が終わった後の香西さんを捕まえて、喫茶室に行き、いろいろ相談に乗ってもらった。

 例えば、就任した調査課ではあまり面白そうな仕事はなかったので、「自分で面白い仕事を作ろう」と考え、「産業組織白書」のようなものをまとめてはどうかと考えた。香西さんに相談してみると、賛成・反対の意見ではなく、「与えられた時間は意外と少ないのだから、やりたいことがあればなるべく早く始めたほうがいいですね」という意見をいただいた。結局、私のアイディアは、経済調査会の報告書という形で結実することになった。

 さて、当時の私にはかねてから疑問の点があった。それは、株や地価が上昇した場合に得られる所得は、GDP統計のどこに現われるのかということだ。バブルは85~86年頃から始まっており、当時既に株価・地価の上昇が目立ち始めていた。例えば、持っていた株の価格が上がったのでこれを売却すると所得が得られる。しかし、GDP統計の分配所得は、賃金、企業収益、利子所得などだから、株の値上がり益はこの中に含まれない。しかし、それが好きなように使うことのできる所得であることは間違いない。個人がそれを使うと消費支出となって、この段階でGDPに入る。この「所得の形成はGDPに入らないが、使うと入る」というのが、私から見ると極めて中途半端ですっきりしない気がしたのだ。

 そこである時香西さんにこの点を聞いてみた。するとさすがに香西さんだ。何でも知っている。「それは、GDP統計の『調整勘定』に現われるのです」とたちどころに明快な答えを教えてくれた。しかしそれにしても、世の中は「何か分からないことがあったら、自分だけで悩まずに、よく知っている人に聞いてしまえばいい」ということが黄金律だということが分かる。私が一人であれこれ悩んでいたら、10年たっても正解は得られなかったに違いない。

公正取引委員会から日経センターへ

 さて、公正取引委員会勤務も2年が経ち、そろそろ次に仕事を言い渡される頃だなと思っていると、秘書課長の西藤さんから電話があり「香西さんが日経センターの主任研究員に小峰さんを欲しいと言ってきた。君に受ける気があればそうしてもいいが」と言ってきた。私は瞬時に「はい。喜んでお受けします」と答えたのだが、このやり取りには若干説明が必要である。

 まず、普通は、次に行くポストについて、事前に本人の了解を得ることはない。いきなり「君の次のポストはこれ」と言うだけの話である。では、秘書課長はなぜ事前に私の了解を求めたのか。これには二つの理由が考えられる。

 一つは、私が提示されたポストには、私の同期生が就任していたということだ。つまり、同期生の後任として赴任するということになる。役所はピラミッド組織だから、年次の順に上のポストに上がっていく。したがって、自分より下の年次の人間の下のポストに着くことはない。同様に、同期生の後に同期生が行くこともない(同じ同期生で、後から赴任するほうが格下ということになってしまう)。したがって、私がこの人事異動を嫌がってもおかしくない。事実、香西さんの介入がなければ、こういう人事は誰も思いつかなかっただろう。

 もう一つは、「出向から出向」になってしまうことだ。有名な半沢直樹のドラマでは、最後は、主人公は銀行から関連会社に出向することになって終わっている。これは暗黙のうちに「出向は左遷である」という前提を置いているように見える。しかし、役人の世界では、出向は当たり前であり、平均するとキャリア期間の3分の1は所属先以外の機関への出向となる。だから出向そのものが不利と言うわけではないのだが、それでも「出向した後再び出向」というのは異例であるし、さすがにそうした扱いを受けた本人はあまり愉快ではないだろう。まるで、「所属先は君を必要としていないよ」と言われたように感じられてしまうからだ。だから秘書課長は「それでもいいか?」と念を押してきたのだ。事実、この話を伝え聞いた公正取引委員会の上司は、「出向から出向というのはひどいではないか。私が掛け合ってひっくり返してやってもいいぞ」と言ってきたほどだ。

 にもかかわらず全く迷うことなく私がこの話を受けたのはなぜか。それは、「白書の執筆担当課長になる確率が上がる」ということだった。本連載を読んでいる人は分かるだろうが、当時の私の唯一最大の夢は、内国調査課長になって経済白書を書くことであった。すると、「どんなポストを経験した人が内国調査課長になりやすいか」と考えるのは当然だ。そこで過去の内国調査課長経験者が、どんなポストを経験したかを分析(というほどでもないが)してみると、圧倒的に二つのポストが浮かび上がってくる。一つは、内国調査課の課長補佐であり、もう一つが日経センターの主任研究員である。

 私は既に課長補佐のポストは経験した。これで、内国調査課長になる確率は50%くらいになった。次は日経センターだが、こちらは2年前に同期の徳永君が就任してしまった。だから、センターに徳永君が行くことが分かったときは、私はかなりがっかりしたのだ。それが意外な展開で、チャンスがもう一度めぐってきたのだ。ここでセンターに行けば、内国調査課長になる確率は80%くらいに高まる。だから私は瞬時に秘書課長の打診を受け入れたのであった。

 その後香西さんからも電話があった。香西さんは私に「秘書課長から話は聞きましたか」と聞いてきた。私は「はい、聞きました。喜んで行かせていただきます」と答えた。香西さんは「そうですか。それは良かった」と言ってくれた。この香西さんの反応を聞いて私は、「自分が進んでこのポストを受けたのは、白書を書きたいということもあるが、尊敬する香西さんに望まれて一緒に仕事をするということが嬉しかったのだな」と改めて感じたのだった。

 こうして私は、87年の夏に日経センターに出向し、四半期ごとの経済予測を担当することになった。まだほとんど誰も気が付いていないが、日本経済がバブルへの道をまっしぐらに歩んでいたときであり、私は、そのバブルをセンターで分析することになる。そしてその際に、前述の「調整勘定」が大活躍することになるのだから世の中は面白い。  (続く)

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。