貿易収支のとらえ方 ― トランプ大統領の貿易政策を考える(1)
2017/01/24
前回までの本連載は、バブルの生成と崩壊を取り上げてきた。この話はまだまだ続くのだが、トランプ米新大統領の登場という大ショックが世界を襲っているので、一時的にわき道にそれて、この問題を取り上げてみたい。特に私が気になるのは、新大統領の貿易観だ。新大統領が米国の貿易赤字について語っているのを見ていると、かつての日米経済摩擦華やかなりし頃の議論を思い出す。
この問題については、本連載の「経済摩擦と経常収支不均衡(1)今に生きる小宮理論」(2014年5月21日)で一度論じたことがある。若干重複するが、トランプ新大統領の発言などを踏まえて、もう一度この問題を考えてみたい。
記者会見における驚きの発言
トランプ新大統領は、就任直前の1月11日に記者会見を行った。既に詳しく報道されているが、原文に即して再確認してみよう。この日の発言では、貿易に関して次のように述べている(一部略)。
“We don’t make good deals anymore. We make bad deals. Our trade deals are disaster. We have hundreds of billions of dollars of losses on a yearly basis. Hundreds billions with China on trade and trade imbalance, with Japan, with Mexico, with just about everybody.”
ここで注目される言葉使いが二つある。一つはディール(取引)という言葉だ。どうやらトランプ氏は、2国間の貿易を交渉次第で結果が変わるディールと捉えているようだ。あたかも企業同士が商売をする感覚で、2国間の貿易をとらえ、輸出は収入だからプラス、輸入は支出だからマイナスと考えているようだ。そのディールの結果、米中、米日の貿易収支は赤字、つまり米国の輸入超過になっている。だからbad dealなのだ。
このように考えてくると、トランプ氏が大統領に就任するや、環太平洋経済連携協定(TPP)の合意を破棄し、北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉を言い出したことも理解できる。トランプ氏の目からすると、多国間の交渉は米国の交渉力を十分発揮できないので、不利なディールになりやすい。そこで、多国間の自由貿易協定(FTA)であるTPPやNAFTAはやめて、二国間のFTA交渉に切り替える。そうすれば米国の交渉力を十分発揮できるという考えになるのだと思う。
もう一つは、ロス(損失)という言葉だ。トランプ氏は、貿易赤字のことを不均衡(インバランス)とも赤字(デフィシット)とも言わずに、損失(ロス)と呼んでいる。ここでもトランプ氏は、貿易を商売と同じように考えている。貿易赤字という状態は、支出が収入を上回っている状態なのだから、損失(ロス)となるのだ。
トランプ氏の考えの背景をさらに考えるため、もう一つの材料を吟味しよう。それは、トランプ氏の経済政策分野でのブレーンと言われるカリフォルニア大学アーバイン校のピーター・ナヴァロ教授が、トランプ氏の経済政策を解説した“Scoring the Trump Economic Plan”というペーパーだ。ナヴァロ教授は、トランプ新政権において国家通商会議の議長という通商政策の要職に任命されることになっているので、なかなか重要なペーパーである。
このナヴァロ・ペーパーは議論し始めると切りがないほどの多くの問題点を含んでいるのだが、ここでは貿易収支に関係する1点だけを紹介しておこう。このペーパーの中でナヴァロ氏は、次にように言う(一部省略)。
“The growth in any nation’s gross domestic product (GDP) ?and therefore the ability to create jobs and create additional income and tax revenues -is driven by four factors, consumption growth, the growth in government spending , investment growth and net exports. ”
これは日本でもおなじみの、GDPは消費支出、投資支出、政府支出、純輸出の合計であるという定義的な関係を言ったものである。ここで注意すべき点は「純輸出」である。これは「輸出マイナス輸入」を指しているから、貿易収支と類似の概念である。すると、「貿易収支の黒字はGDPのプラス要因、赤字はマイナス要因」という結論になるのは自然である。このペーパーでも次のような結論になっている。
“Reducing this trade deficit drag would increase GDP growth.”
この議論はまさにトランプ氏の商売感覚の貿易観を、経済学のオブラートにくるんで示したものだ。トランプ氏が貿易赤字をロスだと言っているように、このペーパーは、貿易赤字はGDPを引き下げるマイナス要因だと断じているのだ。
過去の経済白書の議論からトランプ大統領の貿易観を考える
以上のようなトランプ氏の貿易観、ナヴァロ氏の貿易収支についての議論には多くの問題点がある。私は、1980年代から90年代前半にかけて、政府内で嫌というほどこうした議論の問題点を指摘してきた。その内容は私自身が課長だった時の93年経済白書や私の個人的な著作に残されている。要するに、私に言わせれば、30年以上前からさんざん批判してきた「トンデモ貿易論」が、よりによって世界最大の経済大国の新たなリーダーによって復活したという感じである。詳しく議論すると一冊の本になってしまうので、このうち今回は貿易収支について考え、次回においていわゆる空洞化論を考えることにする。
トランプ氏(ナヴァロ氏のペーパーも含む)の貿易観の問題点を思いつくままに挙げていくと次のようになる。
第1に、名目と実質の議論が不明である。トランプ氏が議論している貿易赤字は名目値だが、GDPは通常は実質値で考えるはずだ。
第2に、なぜ貿易収支だけを取り上げるのかが不明である。貿易収支は財の輸出入の差額を見たものだが、サービスと財を区別する経済的理由はないので、「財・サービス収支」を見るべきであろう。GDPと対応しているのもこちらである。ちなみに、2015年の米国の財の輸出入差額は7626億ドルの赤字だが、財・サービス収支は5004億ドルの赤字となっている。
第3に、2国間の貿易収支を議論することにどれだけ意味があるのかという問題がある。実態を見ると、2015年の米国の財の貿易収支差7626億ドルのうち、最大の赤字を記録しているのは中国(3674億ドル)、2番目がドイツ(754億ドル)、3番目が日本(703億ドル)である。99年までは日本が最大の赤字国だったから日本が経済摩擦の対象になったのだが、現在はその役割を中国が担っていることになる。この2国間貿易収支を議論することが無意味であるということについては93年経済白書で次のように明言されている(本連載の「経済摩擦と経常収支不均衡(1)今に生きる小宮理論」(2014年5月21日)ですでに紹介したものの再掲)。
「現実の国際的な議論の場では、しばしば2国間での貿易収支をバランスさせるべきだとする議論がみられる。しかし、国際分業という観点からみて、地域別の収支の均衡を目指すことは全く意味がない。それぞれの国の比較優位に基づいて国際貿易が行われれば、地域別にみてインバランスが生じるのはむしろ自然である。もし、各国が地域別の収支を均衡化させようとすれば、一種の物々交換が行われるのと同じこととなり、世界経済は縮小均衡に陥ってしまうだろう。」
第4に、純輸出をGDPの増減と直接結びつけることは問題である。ナヴァロ氏が書いた「GDPは4つの項目で決まり、そのうちの1つが純輸出だ」という議論は、定義式としては正しいが、これをそのまま因果関係をあらわす式とみなすことはできない。これを因果関係とすると「輸入の増加はGDPにマイナス」ということになるが、例えば日本は石油の輸入が途絶えてしまったら経済は大混乱になる。この場合は、「輸入が増えるからGDPが減る」のではなく「GDPが増えるから石油の輸入が増える」のである。
第5に、貿易収支が赤字でも何の問題もないとも言える。93年白書では、この点を逆に「日本の貿易収支が黒字でも何の問題もない」として、次のように書いている。
「財の取引が、それぞれ自由な市場における合理的な取引の結果として決まっているのであれば、貿易を通して輸出者、輸入者双方が望ましい成果を得ていることになる。経済的に望ましいと思うからこそ取引が成立しているからである。このような状況の下においては、日本は、輸出・輸入の両面において世界貿易の拡大に貢献しており、貿易利益を通じて世界全体の経済厚生を高めていると評価できるし、輸出入の差額そのものにも問題はないことになる。」
第6に、誰もが指摘することだが、トランプ氏のように輸入をブロックして輸出を増やそうとする政策は保護主義であり、世界中の経済学者が反対する政策だ。この点についても93年白書は次のように言う。
「保護貿易主義の高まりは、管理貿易につながりやすいが、管理貿易には様々な弊害があり、結果的に世界経済全体の経済厚生を大きく低下させることになる。まず、管理貿易が何らかの輸入制限という形態をとる場合には、輸入制限を行った国の消費者は競争力があり価格が安い製品の購入機会を奪われる。輸入制限によって保護される当該産業は、競争から隔離されてしまうため、長期的には競争力がさらに低下する可能性がある。さらに、輸出国の側でも、管理貿易の制約下にある企業は、管理貿易を回避するために、それがない場合に比べて非効率的な資源配分を強いられることになる。」
以上のように、トランプ氏の貿易観は、少なくとも30年以上前から批判されてきたものだ。こうした議論をもう一度繰り返すような時代が来るとは、私は夢にも思っていなかった。夢であれば、この悪夢から一刻も早く覚めて欲しいものだ。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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