汚名をそそぐ―バブルを分析する(2)
2017/06/23
内国調査課長就任の頃の話を続けたい。読者の中には「さっさとバブルの分析の話をしろ」と言いたくなる人もいるだろうが、このあたりの時期は私の人生の最充実期であり、溢れるほどの思い出があるので、多少話が長くなるのもやむを得ないと考えていただいて、気長に読み進めて欲しい。
私は1993年1月の初めに内国調査課長に就任したのだが、これを受けて、1月25日の日本経済新聞(朝刊)の人事案件を扱う「ヒトこま」というコラムで私が取り上げられた。その冒頭の文章は次の通りである。
「官庁エコノミストの花形ポストである経済企画庁内国調査第一課長に小峰隆夫氏(45)が就任した。(中略)今回の景気後退局面では政府の『景気判断の遅れ』が厳しい批判を浴びたが、汚名をそそぐべく、どこまで手腕を発揮できるか注目を集めている」その「汚名」とはいったい何だったのか。
経済企画庁の経済認識への批判
ここで触れているように、私が内国調査課長になった頃、経済企画庁の経済認識についてはかなり強い批判があった。主に批判されたのは次のような点だった。
第1は、景気後退期入りの判断が遅れたことだ。事後的には、バブル崩壊後の景気後退が始まったのは91年2月だった。しかし、当時は景気拡大が過去最長となるかどうかの瀬戸際であり、91年8月まで拡大が続くと、いざなぎ景気(1965年10月~1970年7月の57カ月)の記録に並ぶというタイミングだった。これが、景気後退期入りの判断を惑わせた可能性もある。
第2は、景気判断そのものが甘かったことだ。例えば、政府の公式の景気判断である月例経済報告では、その頃「減速しながら拡大」という極めて分かりにくい表現を使い、「景気は減速しているが、これは高すぎる経済水準から巡航速度に戻る過程で起きていることであり、不況だといって騒いだり、景気対策を講じたりするような状況ではない」と説明していた。このあたりの事情は、本連載の「減速しながらも拡大―月例経済報告(2)」(2015年11月25日)で詳しく述べたので、ここでは繰り返さない。
もう1つ、91年の経済白書が、在庫循環がなくなったかのような記述をしたことも、後から厳しい批判を浴びた。原文に当たってみると、さすがに「在庫循環が消えた」とまでは言っていないのだが、「かつての在庫循環のメカニズムが弱まっている」と述べた上で「在庫の動きから、景気の転換点がもたらされる危険性は少なくなっている」と書いているから、確かに「在庫の動きを心配する必要はない」と言っているように読める。この点が、バブル景気の中で在庫循環が埋没したという一時的な現象を、景気循環の変質ととらえてしまったという批判を浴びたのである。
第3は、バブル崩壊の経済的影響を過小評価していたという点だ。事後的に見れば、バブルの崩壊は、不良債権問題などを通じて経済の大きなマイナス圧力として作用し続け、さらにはデフレ経済、失われた20年へと進んでいくわけだが、経済企画庁のエコノミストはこうしたバブル崩壊の深刻さを十分認識していなかった。それが政策的な遅れにもつながり、バブル崩壊後の経済停滞を長期化させたと批判されたわけだ。
先輩達の苦労
幸いにして私は、当時、内閣の外政審議室に出向していたため、こうした経済企画庁への批判とは無縁であった。しかし、当時、企画庁の中にあって経済認識を実際に担当していた人々の気持ちは複雑だったはずだ。
一エコノミストとしては「景気は悪くなっているのではないか」と思ったとしても、組織として「減速しつつ拡大」で説明せよという方針が決まれば、それに従わざるを得ない。かなりのストレスがあっただろう。この辺の事情については、当時の担当課長が、退官後、本を出して回顧している。手元にそのうちの2冊がある。1冊は、小島祥一氏(私の前任の内国調査課長)の「日本経済改革白書」(岩波書店、1996年)であり、もう1冊が、白川一郎氏(1991年当時の統計調査課長)の「景気循環の演出者」(1995年、丸善)である。
小島氏はこの著書の中で、現場は早い段階から景気が悪いことを認識していたが、経済企画庁の上層部が、「不況とは認められない、まだ景気は拡大しているというニュアンスを残すため、月例経済報告の文言で何かしら『拡大』という言葉を残しておかなければならないと思い込んでいた」とし、この「拡大」を削るのに大変な努力をしたと述懐している。
また、白川氏は、1991年9月の日曜日に大臣邸に呼び出されて、景気動向指数の説明をした時の事情をかなり詳細に記述している。この時、事務的には景気動向指数で景気後退期入りもあり得ることを説明しておいたにもかかわらず、大臣は、10月の記者会見で、「平成景気の拡大期間が8月時点でいざなぎ景気の拡大期間である57カ月に並んだ」と発言してしまう。
私の前任者たちは、このような苦労を重ねてきた。しかし、担当課長が苦労をしていたからといって景気判断の誤りが許されるはずもなく、経済企画庁は厳しい批判にさらされていたわけである。
しかし、私が内国調査課長に就任した時には、こうした面倒な判断は全て勝負がついていた。誰もが景気は悪いことを認めており、在庫循環は生きていることを知っており、バブル崩壊の影響は根が深いのではないかということを感づき始めていた。私が内国調査課長になった時、ある先輩は「君は絶好のタイミングで内国調査課長になったね」と言った。全くその通りだった。私は、周囲に気兼ねすることなく、ストレートに経済を分析し、その結果を発表できる環境で経済白書に取り掛かり始めたのである。
経済白書のスケルトン
私の手元に、当時私が書いた文書がある。日付は1993年1月20日、タイトルは「平成5年度白書に向けてのディスカッション・メモ」。内国調査課長になった直後に、課内でのディスカッション用に私が書いたメモである。
この中で私は、「政府の景気判断に対しては、①景気後退の認識が遅れた、②資産デフレについての認識が甘かった、③それが政策発動を遅らせたという批判がある」と述べた上で、90~91年の景気判断からの教訓として、
①景気指標を素直に読むこと
②景気の自律的変動の力、特に在庫循環の力は依然として強いこと
③資産デフレの影響を適切に評価すること
という3つをあげている。
そして、景気判断が混乱したのは「『持続可能な成長経路への移行過程であり景気が後退局面にあるわけではない』という認識が強かったからである。この議論は、91年前半までは正しかったが、その後は妥当性を失っていく。このことは『経済には巡航速度で推移する自然のメカニズムがあるわけではない』つまり、景気が失速し始めると、いくつかの景気循環メカニズムが作用し始め、巡航航路を下に突き抜けていくことが十分あり得ることを示している」と書いている。
このメモを読み返してみると、私が、当時の経済企画庁に対する批判をそのまま取り入れ、「減速しつつ拡大説は誤りで、景気は累積的に悪くなっている」「在庫循環は生きている」「バブル崩壊の影響は深刻だ」と主張していることが分かる。私の内国調査課長就任がもう少し早ければ、これほど明快に、企画庁批判を受け入れることはできなかったであろう。やはり私は絶好のタイミングで内国調査課長に就任したと言えそうである。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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