スケルトン-経済白書ができるまで(1)
2017/10/16
前回までは、経済白書でバブルをいかに取り上げてきたかを説明してきた。今回からやや視点を変えて、そのバブルを分析した経済白書は、どんな手順で、いかにして出来上がっていったのかを述べてみたい。
今にして思えば、私が担当した頃の経済白書は、「作り方」という点でも、多くの先輩たちが受け継いできた経済白書の伝統を色濃く残していた。おそらく現在の経済財政白書の作り方は、当時とはかなり違っているのだろう。その意味で、かつての経済白書の作り方のプロセスを実際にあったそのままの姿で記録しておくことも、「日本経済史」の一部として位置づけられるのではないかと思う。
白書ができるまでの手順については、既に、本連載の「内国調査課長へ」(2017年5月22日)で簡単に整理したが、念のためもう一度書いておこう。それは以下のようになる。
第1段階‥スケルトンをまとめる第2段階‥課内で分析作業を進める
第3段階‥原案の執筆
第4段階‥庁内、各省との調整
第5段階‥マスコミへのレクチャー
以下、この順番で説明していくのだが、かなりマニアックで詳細な内容になることを予めお断りしておく。いわば私の職業人生のハイライトとなる出来事を対象とするのでどうしても力が入り、どんどん長くなってしまうことが今から確実に予測できるのである。今回はスケルトンについて述べよう
スケルトンを賢人会議にかける
93年1月に内国調査課長となった私は、即座に問題意識と課題をリストアップしたメモを課内に配布し、経済白書に向けての議論をスタートさせた。
これを受けて、課長補佐クラスの4人の執筆担当者は、更に詳細なストーリーと作業計画を考える。各担当者は、この作業計画に従って、具体的な分析、資料集めなどを行う。執筆担当者は、その作業計画を指導しながら、実際にドラフトを書いて私に提出するのである。このドラフトが私の手元に集まってくるのが、5月の連休明け頃であり、それからいよいよ私の執筆が始まることになる。
こうして作業が進む中で、私は93年経済白書の狙いとおおよその骨組みをまとめた「スケルトン」を執筆した。このスケルトンには主に2つの用途がある。1つは、外部の有識者に説明するための資料として使うということであり、もう1つは、庁内の課長クラスの会議にかけてコメントをもらうことである。
ここで言う有識者の集まりというのは、「賢人会」という、歴代の内国調査課長経験者の集まりのことである。この集まりで、その年の白書のスケルトンを説明し、ご意見を拝聴するのである。
4月に開かれた賢人会議に出席したのは、古い順に、矢野智雄氏、宍戸寿雄氏、金森久雄氏、内野達郎氏、赤羽隆夫氏、横溝雅夫氏、守屋友一氏、勝村坦郎氏の8人であった。
さて、私はこの賢人会をかなり重視していた。経済白書が出たときの評価に関係すると思ったからである。白書が発表されると、ジャーナリストは各方面の有識者に感想を聞いて回る。白書を報じた新聞には、そうした有識者の短いコメントが掲載され、その内容が世間一般の評価の相場となることも多い。賢人会に集まるOBの方々は、そうした有識者達でもある。したがって、賢人会で「今年の白書は良く出来ている」という印象を与えておけば、白書が発表された時の評価にも良い影響があるはずだ。
ところが聞くところによると、前年の賢人会議は、あまり雰囲気が良くなかったというのだ。そして、その理由の一つが、メンバーの一人の某氏が「ビールは出ないのか」と言い出したのだが、なにせ役所の会議室であったので、アルコールの準備は出来なかったというのだ。
そこで私は、93年の賢人会では、まず場所を役所内ではなく、霞ヶ関ビルのフランス料理レストランに変更し、最初からおいしいワインを出すことにした。
賢人会議で好評を博す
会議は、まず私が簡単にスケルトンを説明し、出席者が1人ずつ意見を述べていった。全般的に、スケルトンへの評価は非常に高かった。
例えば、金森久雄氏は、「スケルトンはとてもよく出来ている。このまま白書にすれば良い」と言った。よく聞いてみると、「このままでいい」という意味は、「スケルトンはこのままで、これに基づいて白書を書けばいい」という意味ではなく、このスケルトンを白書にすればいいというのだった。「これでいいじゃないか。これに図表をつければ、白書は完成だ。短くて読みやすいいい白書になる」というのだった。本当にその通りにすれば、第1回の都留白書のように、30分位で読めてしまう、画期的な白書が出来たはずだが、さすがにそうは行かない。
守屋さんのコメントも良く覚えている。守屋さんは、開口一番、「私は、まず、このスケルトンをまとめた小峰さんに感謝したいのです」と言った。そして守屋さんは次のように話した。
「私の研究所に、若い女性の研究者がいます(当時守屋さんは、日立の経済研究所の所長であった)。なかなか見所のある人で、経済誌の懸賞論文で佳作に入選したこともあります。先日、彼女がある研究計画を出してきたのですが、これを見て私は物足りなかった。どんな研究を、どんな目的でやろうとしているのかが、素直に読み手に伝わってこない。おそらく問題意識の絞り方が不十分なのと、文章がもう一つうまくないというのが原因だと思いました。しかし、これは口で説明してもなかなか分からない。文章をめちゃめちゃに直すと、本人の気分を害する恐れがある。ここは、何かお手本が欲しい。そこで、無断で申し訳なかったが、今回事前に送ってもらった小峰さんの経済白書のスケルトンを使わせてもらいました。『これは、政府のトップクラスのエコノミストが、練りに練って書いたスケルトンです。参考になるから読んでごらんなさい』と言って、彼女に渡しました。
次の日の朝、彼女は目を輝かせて、私のところにやってきました。『経済白書のスケルトンを読んで、自分の研究計画書が、いかに不十分であるか、また、いかにまだまだ改善の余地があるかがよく分りました』と言うのです。
私は、小峰さんが経済白書の伝統を引き継いで、こうして立派なスケルトンを書いてくれたことに、心からお礼を言いたい気持ちです。白書が出来上がるまで、このスケルトンの出来の良さを保っていただきたいと思います」
内野さんや横溝さんは言うまでもなく、日頃口うるさい赤羽さんも「スケルトンのテーマは良く選ばれている。大変期待が持てます」といって誉めてくれた。
私は、出席者の多くの方々は、このところ評判が落ちていた経済白書を憂えており、いわば私を自分達の正統的な後継者と見て、期待を寄せていたのではないかと思う。私は、何度も内国調査課に在籍しただけに、賢人会の出席者とはほとんど旧知であった。矢野智雄氏と宍戸寿雄氏は、私が新人時代の調査局長であり、私はいろいろ局長の雑用係を勤めた。「あの新入生が、内国調査課長になったのか」と感慨深かったであろう。金森久雄氏は、私が日本経済研究センターに出向していたときの会長である。金森さんは、私が書いた「ワープロ党宣言」というエッセイを読んで、自らもワープロ派に転じた。本人の言によると「60を過ぎてから、自分にこんな隠れた才能(ワープロを使いこなす力)があったとは思わなかった」そうだから、よほどワープロの導入で生産性が上がったに違いない。私にはかなり恩義を感じているはずだ(忘れているかもしれないが)。
内野達郎氏は、私が新人時代の内国調査課長であり、赤羽隆夫氏は同じく新人時代の調査官だった。横溝雅夫氏と守屋友一氏は、私が課長補佐時代の内国調査課長である。課長と課長補佐は、一心同体で白書を作る、いわば戦友のようなものである。おまけに、守屋氏は、私の新人時代の課長補佐でもあった。守屋氏は「自分が小峰君を育てたのだ」という気持ちが強かっただろうと思う。
出席者の中で、唯一、私が経済白書の作業を共有していなかったのは、勝村坦郎氏だけであった。そして、その勝村氏だけが、スケルトンに異を唱えたのである。
勝村さんは、事前に送られていたスケルトンを丁寧に読んでいて、細かい部分も含めていろいろコメントした。他の人に比べてあまりにも詳しくコメントするので、長老格の矢野さんが、「勝村君は退官したばかりだから、まだ現役のつもりなんだ」と冷やかしたので、みんながどっと笑った。事実、勝村さんは、次官を務めた後、92年の春に、退官したばかりだったから、白書のスケルトンを見ると、つい自分が上司であるかのような気になったのであろう。
しかし、勝村さんがコメントした理由はそれだけではない。勝村さんはコメントの冒頭で、「このスケルトンを読むと、何だか自分が批判されているような気がする」と言った。そう言いたくなるのももっともであった。私のスケルトンは、私が内国調査課長になる前の経済分析、経済政策を率直に批判したものであり、当時、次官として最高責任者の地位にいたのが勝村さんだったからだ。
91~92年にかけて、バブル後の景気低迷が長引く中で、経済企画庁の景気認識が強く批判されていたことは、本連載でも既に述べた(「汚名をそそぐ」2017年6月23日)。この点をとらえて、スケルトンの中で私は、「バブルを引き起こすような政策運営を放置したこと」「バブル崩壊後の景気後退を過小評価したこと」という2点で、企画庁エコノミスト達の間違いを明確に指摘していた。だから、勝村さんは、自分が批判されたように思ったのであろう。勝村さんは、「銀行があんなにひどい状態になっているとは思わなかった。そんな実態を大蔵省は明らかにしなかった。実態がもっと早く分かっていれば、我々も黙っていなかったはずだ」などとしきりに弁明した。
しかし、勝村さん以外の出席者は、スケルトンの方を支持し、勝村さんを口々にたしなめさえした。例えば矢野さんは「勝村さんは、情報不足が景気判断の誤りの理由だと言ったが、情報があっても景気の悪化を防ぐことはできなかっただろう」と言い、赤羽さんは「情報の問題ではなく、分析力の問題だ」と言った。つまり、当時、企画庁の外にいたOBの方々は、企画庁のエコノミストに不満だったのである。スケルトンはそうした不満を代弁していたわけだ。スケルトンを読んだ勝村さんは「何ということを言うんだ」と思い、勝村さん以外の人は「よく言ってくれた」と思ったのであろう。
しかしこの時、私は、こうしたスケルトンの記述が持っている重要な意味をまだ十分認識していなかった。それは、このスケルトンがそのまま経済白書になると、「政府が自らの経済認識、政策運営の失敗を認めることになる」という点である。そして、この点こそが、93年白書の最大の争点となり、その評価を大きく左右することになるのである。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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