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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第56回)

炎の各省調整(中)勝利の予感 -経済白書ができるまで(7)

 

2018/04/18

 自分で言うのも何だが、本コラムは結構読者が多く、評価も高い。特に、経済白書シリーズに入ってからその度合いが一段と増したという印象である。「読んでますよ」「面白いです」「いつ本になるのですか」といった反応に頻繁に接するようになった。「よくこれだけ書くことが続きますね」という人も多い。本人も「我ながらよく書くことがあるものだ」と思っているのだから、他人がそう思うのは当然だ。

 先日、ある会合で旧知のO氏と隣り合わせになったのだが、O氏もこのシリーズを読んでいて、しきりに「面白い」を繰り返した後、「よく書くことが続きますね」という話になり、「前回の、炎の各省調整は、(上)となっていましたが、ということは(下)もあるということですね」と問うてきたので、私が「いや、その前に(中)があります」と答えると、O氏は「えっ、(中)があるんですか」と言ってしばし絶句した。今回はその(中)である。

白書と政策評価

 さて、93年経済白書の一つの目玉は、バブルの総決算であった。私は、バブルを扱った第2章の冒頭で「現時点で、バブルの発生と崩壊のプロセスやその経済的諸影響を明らかにすることは、歴史的なバブルを身近に経験してきた我々に課せられた大きな責務だ」と書いた。この言葉が示すように、私はこの白書を、バブルを総括する歴史的文書にしようと意気込んでいたのである。

 その時大きな問題があった。それは、政策的な失敗をどう扱うかということであった。これだけのバブルが起きてしまったのだから、当時の経済政策に問題があったことは間違いない。特に金融政策の責任は重い。これは誰もが認めるところであった。しかし、政府の一部門である企画庁が、公的文書の中で政策的責任を認めることは簡単ではない。

 まず、「白書は政策評価の文書ではない」という建前論がある。これにはかなり強固な基盤がある。当時は、次官会議の申し合わせで「白書は過去に起きたこと、現在行われている政策について記述し、将来の見通し、政策評価、政策提言などを行うものではない」ということが定められていたからだ。これは建前としてはその通りだ。私もそれまでの間何度も経済白書の作成に携わってきたが、白書が出ると決まって「将来展望がない」「政策提言がない」という批判が出る。これは基本的には「ないものねだり」なのである。

 さらに、「他の役所の責任を追及するのは暗黙のルールに反する」という仁義上の問題もある。「そんなことをしたら別の機会に報復されるかもしれない」という実利的判断もある(「そんな馬鹿な」と思われるかもしれないが、似たような話は実際に聞いたことがある)。「経済政策を批判するということは、経済企画庁そのものの責任を追及する(企画庁は経済政策の舵取り役なのだから)ことになる」という組織防衛上の配慮もあるし、「当時の幹部だった自分自身の先輩を批判することになる」という儒教的問題もある。

 しかし、この点を素通りしたら、白書の評価が大きく下がることは間違いない。難しいが避けて通れない関門だったのである。

 さらに、事態を複雑化させる出来事があった。同じ年に、白書に先駆けて、同じ政府内から先行研究が出たのである。すなわち、大蔵省の財政金融研究所が専門家の委員会を組織し、バブルの研究を行ったのだが、その報告書の中で、当時の金融政策に問題があったことが指摘されているのである。これは当時結構大きな話題になり、好意的な評価を受けていた(ちなみに高杉良「金融腐食列島」の中にも、この報告書についての記述がある)。これは、有り難いようでもあるが、困ったことでもあった。同じ政府内で既に責任を認めた文書が出たということは、経済白書でも同様の指摘をしやすい環境ができたということである。そういう意味では有り難い。しかし、それは「先を越された」ということでもある。白書で同じことを言っても新味に欠けるから、どうしても売り物としての価値は下がってしまう。これは困ったことである。

金融政策批判をめぐる議論

 さて問題の政策批判だが、白書の原案で我々は次のように書いた。「バブル発生の過程では、一般物価が落ち着いていたこともあって89年5月まで公定歩合は史上最低の2.5%のまま据え置かれていた。バブル発生の責任の一端が金融政策にもあることは否定できない」

 ごく常識的な文章だ。しかし、これを各省調整のプロセスにかけたところ、大蔵省はこの部分の全面削除を求めてきた。政府自らが、バブル発生の政策的責任を公式に認めることはできないというのである。

 私は大蔵省との折衝を担当していた土田浩氏(日銀からの出向、現在、ぶぎん地域経済研究所専務取締役)に、

 「そんなこと言ったって、自分の研究所の報告で、金融政策の責任を認めてるじゃないか。自分で言っておいて、他人が同じことを言うのに文句をつけるわけ?」と、当然の疑問を呈した。

 すると土田氏は、

 「もちろん大蔵省にはそう言ったんですけどね、彼らは、研究所の報告は、外部の研究者からなる委員会が行ったものであって、政府の公式の文章ではない。研究所の報告と経済白書の文書では、重みに雲泥の差があるので、同じ指摘だからといって容認することは出来ないと言うのですよ」と言った。

 確かに、財政金融研究所の報告は政府の報告ではないという理屈は、形式論理的にはその通りである。しかし感覚的には、外部研究会と公式見解を適当に使い分けており、知的誠実さに欠けるという後味の悪さが残る議論である。

 私は「この点は白書の基本的な評価にかかわる問題だから、譲れないね。どうしても話がつかなければ課長折衝をやるし、それでも駄目なら、次官、大臣まで説明しておいて、不退転の決意で臨むしかないね」と言って、更に折衝を続けるよう指示した。

 しかしその後も折衝は難航した。大蔵省も、うっかり政策責任を認めると、国会で追及されたりするから神経質になるのも無理はない。私もどうなることかと気をもんでいたのだが、この折衝は急転直下決着した。

 折衝が何回か繰り返された後のある晩、土田氏が半分嬉しそうな、半分腑に落ちないような顔で私のところにやってきた。大蔵省が修文案を示してきたのだという。それは次のようなものだった。

 「政府は86年9月に総合経済対策を、87年5月に緊急経済対策を決定するなど財政刺激策を実行した。また、日本銀行は、86年から87年にかけて5次にわたり公定歩合の引き下げを実施し、89年5月まで金融緩和策を継続した。こうした経済運営が、バブル発生の一つの素地となったことは否定できない。」

 私は、この修文案を見た時、瞬時に大蔵省の意図を察知し、この修文案で決着させようと決心した。そして、同時に「この部分を白書の目玉として宣伝すれば、今回の白書は高い評価を受けるに違いない」と思った。この時初めて、私は今回の白書の成功を予感したのである。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。