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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第58回)

香西さんと経済白書

 

2018/06/15

 香西泰さんが亡くなられた。6月1日の日本経済新聞朝刊に私と前日銀総裁白川方明氏の追悼インタビュー記事が掲載された。香西さんを尊敬する人、共に政策論議を交わした人、教えを受けた人も多い中で、新聞紙上で追悼の気持ちを表す機会を得たことは、私にとって生涯忘れることのない名誉である。

 香西さんの思い出は尽きないが、ここでは、経済白書との関係に絞って、私と香西さんの思い出を記しておきたい。

香西さんとの出会い(私の新人時代)

 私は、1969年に大学を卒業して経済企画庁に入り、内国調査課に配属された。この時は、この課に2年在籍し、2回の経済白書づくりに参加した。1年目の課長は宮崎勇氏、課長補佐は守屋友一氏、2年目の課長は内野達郎氏だった。内野氏が課長に就任してしばらくして、補佐が交代することになったのだが、まだこの人事が正式に発表される前に、内野課長が私に、力を込めて「今度、非常に優秀な課長補佐が来ます」と言った。それが香西さんだったのだ。

 私はまだよく知らなかったのだが、香西さんの令名は企画庁中に知れ渡っており、誰もが将来の企画庁を背負って立つ人材だと認めているようだった。香西さんは、補佐として総括班を率いることになるのだが、その時、私の1年後の新人として総括班に配属されたのが八代尚宏氏だ。私は、1年目は総括班だったが、2年目は財政金融班に回った。

 この財政金融班で、私は金融政策の効果を分析するという仕事を割り当てられた。具体的には、当時、日本銀行は景気の過熱を防ぐことを目的として69年9月に、公定歩合の引き上げ、預金準備率の引上げ等を行ったのだが、その金融政策の効果を計量モデルを使って分析するというのが私に与えられたミッションだった。

 計量モデルのことなど全然わからなかった私は、経済研究所のモデル開発部門に日参し、分析手法を伝授してもらった。当時計量モデルを担当していたのは、その後国際大学学長などになる著名なエコノミスト宍戸駿太郎氏だった。宍戸さんは私に丁寧にモデルの仕組みと動かし方を教え、さらには私の指定する条件で実際にモデルを動かして計算までしてくれた。

 70年白書を読み返してみると、私の担当部分は次のような文章となって残っていた。「(昭和)44年度下期の実体経済活動がどの程度公定歩合引上げの影響を受けたかを、当庁短期経済予測マスターモデルをもちいて試算してみると、設備投資、在庫投資に若干の影響があらわれている以外はほとんど目だつた変化はみられない(第70図)。」となっている。

 文章は短いが、一応私の分析は採用され、白書の1図となったので、私は大いに気を良くした。白書の作業が終わった後、周りの人たちから「せっかくこれだけの分析をしたのだから、論文の形でまとめておくといいよ」と勧められ、私は「それでは」と一本の論文を書いた。これが出来上がると今度は、「せっかくまとめたのだから、課の中で議論しようではないか」ということになり、課のメンバーを集めて研究会が開かれた。私は、2年目にして白書に採用されるような分析を行い、それを課の研究会で発表できるというので、鼻高々であった。

 ところがこの研究会で、私の論文は、香西さんから散々批判されてしまった。いろいろ総合すると、どうやら香西さんの批判は、「これは単に計量モデルに、異なる組み合わせの外生変数を与えて計算した結果を書いただけのものであり、典型的な『理論なき計測』だ」ということだった。私はすっかり意気消沈し「私のエコノミスト人生は終わりだ」とさえ思ったほどだ。

 こうして私の香西さんに対する最初の印象は「理論にうるさく、理論的基礎付けのない分析に価値を認めない厳しい人」というものだった。

香西さんのアドバイス(私の課長補佐時代)

 時は流れ、それから約10年後、私は再び内国調査課に配属された。今度は課長補佐として白書の原案を分担執筆することになったのだ。

 この時私は物価の分析を担当することになった。あれこれ考えた私は、分析の素案をメモにし、当時物価調整課長だった香西さんのところにアドバイスを求めに行った。香西さんは快く時間を作ってくれて、私の説明を聞いたうえで、「ここは説明がおかしい」「この点についてはこんな分析がある」「ここは面白そうですね」という具合にあれこれ意見を聞かせてくれた。

 課に戻った私は、課長にこのことを話した。すると課長は「では、物価だけではなく、経済全般について香西さんの話を聞き、白書の参考にしようではないか」と言い出した。具体的には、講演会のような場を設け、香西さんの話を課の全員が聞き、今後の各分野の分析の参考にしようというのである。そこで、私が窓口になって香西さんに依頼することになった。

 私は早速、香西さんのところに行って趣旨を説明し、是非おいでいただいて全般的な話をして欲しいとお願いした。私は、当然引き受けてくれるものと考えていたのだが、香西さんの反応は意外なものであり「お受けできない」というものだった。

 香西さんは私にその理由も説明してくれた。それは次のようなものだった。先日、自分は、小峰さんにアドバイスする機会を作った。これは、小峰さんが自分で考えた分析案を提示し、それにアドバイスするというものだったから引き受けたのだ。しかし今度は、特にそちらに分析の案があるわけではなく、日本経済全般について話をせよというものだ。これは白書を作るに際してのアイディアを教えろというのに等しい。もちろん自分には、日本経済を分析するアイディアがいろいろある。しかし、そのアイディアを他人の白書のために開示するつもりはない。白書で展開すべきアイディアは、白書を執筆する人が自分で考えるべきものだ。だから今回の話はお受けできない、というのがその理由であった。

 一も二もなく引き下がった私は、香西さんは筋を通せば優しく親切な人だが、筋を違えるとえらく厳しい人なのだなと改めて感じたのだった。

白書へのコメント(私の課長時代)

 時は再び流れ、それからさらに約10年後、私はいよいよ内国調査課長となり、白書の責任者となった。香西さんは日本経済研究センターの理事長になっていた。

 ここでようやく前回までのストーリーとつながるのだが、経済白書が発表されると、その白書を報じる新聞記事の中で、有識者のコメントが紹介される。前回、新聞の社説が白書の評判を左右するから重要だということを書いたが、この有識者のコメントも白書の一般的な評価に大きく影響する。

 私がまとめた2回目の白書(94年白書)が発表された時、香西さんが日経新聞でコメント役になった。今回、本稿を書くにあたり、日経テレコンで検索したら、簡単に出てきた。約25年ぶりに読み返してみると、約千字程度で結構長い。香西さんの写真も載っている。思い出がどっと押し寄せてきて、胸が熱くなる。

 香西さんはこのコメントの原稿を、当時日経センターで秘書だったUさんに渡した。Uさんの話によると、香西さんは「小峰さんの白書だからねえ」と言って原稿を渡したという。私が書いた白書をけなすわけにはいかないから、手加減したという意味だ。

 確かに褒めてくれている。次のような具合だ(一部省略)「今年の白書は多くの人が抱いている疑問を多く取り上げ、これに答えようとしている。特徴的なことは、問題を明確に設定し、逃げずにきちんと答えようとしており、とことんまで読者の納得を得る努力をしたことだ。こうした仕事は地味だが必要だ。分析も緻密で、エコノミスト復権の地ならし作業として高く評価したい」もちろんいくつかの注文もついているのだが、基本的には極めて好意的なコメントである。

 このコメントが掲載されて数日後、香西さんからメモが届いた。このメモには、今回の白書を読んで気が付いた問題点、疑問点などがたくさん記されていた。白書を読みながら気が付いた点をメモしたものらしい。つまり、香西さんは白書に手放しで満足していたのではなかった。むしろ相当多くの問題点があると感じたのだった。しかしそれをそのまま新聞のコメントに使うと、白書の評価が大きく下がってしまう。そこで、公表されたコメントでは好意的な意見を中心に述べ、別途、私にだけ問題点を指摘してくれたのだ。

 香西さんは、コアの部分では厳しい人だったかもしれない。しかしそれを大きく包み込む優しさを兼ね備えていた。私も含めて多くの人が、香西さんのことを思い浮かべるたびに、しみじみと温かい心持になるのはそのためなのだと思う。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。