一覧へ戻る
小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第62回)

混迷する経常収支黒字をめぐるコメント-経済白書ができるまで(11)

 

2018/10/15

 前回は、巨人エコノミスト吉冨勝氏が、私の書いた93年版経済白書のバブルの分析についてどう批判的にコメントしたかを見た。今回は、経常収支黒字をめぐる議論について紹介しよう。

白書へのコメントの評価

 吉冨さんが、93年の白書が発表された後、経済白書についての各方面からのコメントを批判的に検討するという論考を発表したことは前回述べた(週刊東洋経済93年9月18日号)。前回は、「白書を批判するならこう批判すべきだ」という部分を紹介したのだが、今回は「白書の批判はピントはずれだ」(つまり、「白書の指摘は正しい」)という部分を紹介する。

 前回に引き続き、まず吉冨さんの文章を引用しよう。それは次のようなものだ。

 「もう一つ白書批評を読んで不思議だったことは、日本の対外黒字についての白書の分析を、『理論的には正しい面もあるが、世界的にはとても通用しない」と、その理由も言わないで白書を批判している論評が多いことだ。 多くの批評家は、黒字すなわち悪と思い込んでいた時、『なぜ悪い?』と白書に指摘されて有効に反論できず、そのため世界が許さないという通俗的政治論議(米国議会の水準と同じ)に堕した論評になっている」。

 さすがに吉冨さんは良く見ている。この経常収支黒字の分析の部分は、私がかなり力を入れた部分であり、確かに一般常識的な議論に挑戦している部分だったのである。私は、80年代半ばに企画庁で経済摩擦を担当する部局に勤めたことがあり、随分「日本はなぜ経常収支黒字が大きいのか」「それは是正すべきことなのか」について考えた。考えに考えた末、自分の考えを「経済摩擦」(日本経済新聞出版社、1986年)という本にまとめたりした。その結果、私は「世間一般の経常収支黒字についての理解には多くの誤りがある」という結論に達した。そこで、私は、この自分の考えを経済白書でも主張しようと考えたのである。

93年経済白書の経常収支黒字分析

 93年経済白書の議論を紹介しよう。同白書では、第3章「拡大する経常収支黒字と我が国の課題」で、経常収支黒字に関連する諸問題を多面的に取り上げているのだが、ここでは、同章第5節「世界経済における日本の役割と今後の課題」で述べたことを紹介する。

 白書はまず、なぜ当時経常収支の黒字が拡大したのかという点について、四つの原因を指摘している。それは、①短期的な特殊要因が影響したこと(湾岸危機に伴う原油価格の一時的な高騰など)、②円高により輸出価格が上昇したこと(これがいわゆるJカーブだが、これについてはいずれ回を改めて詳述する予定)、③バブル崩壊の影響で高額品の輸入が減少したこと、④日本が景気調整過程にあったこと(輸入数量の伸びの鈍化をもたらした)という四つである。白書はこれら要因を計量的に分析した結果、黒字拡大の98%はこれら四つで説明できるとしている。。

 ここまではだれもが「なるほど」と納得する部分である。ここから白書の筆致はやや挑戦的になる。このあたりを約25年ぶりに読み返していると、当時「さて、ここから通説を批判するぞ」という私自身の意気込みが蘇り、我ながらワクワクする。白書は、通説を取り上げてはこれを否定するということを繰り返していく。

 その第1は、「経常収支黒字拡大の原因は、市場の閉鎖性にある」という通説である。これについて白書は「経常収支の動きを市場の閉鎖性によって説明することは不可能である」と断じる。その理由も提示している。タイムシリーズという視点からは、日本の経常収支は80年代に増減を繰り返してきたが、この間市場は一貫して開放的なものに向かっている。クロスセクションという視点から国際比較をしてみても、経常収支の黒字(または赤字)と市場の閉鎖性は無関係であるという具合だ。

 第2は、「黒字は悪い」という通説で、白書は「黒字の何が悪いの?」という議論を展開している。白書は次のように言う。「財の取引が、それぞれ自由な市場における合理的な取引の結果として決まっているのであれば、貿易を通して輸出者、輸入者双方が望ましい成果を得ていることになる。経済的に望ましいと思うからこそ取引が成立しているからである。このような状況の下においては、日本は、輸出・輸入の両面において世界貿易の拡大に貢献しており、貿易利益を通じて世界全体の経済厚生を高めていると評価できるし、輸出入の差額そのものにも問題はないことになる。」まったく、経済学の教科書をそのまま引き写したかのような正論である。

 第3は、貯蓄投資のバランス論からみて、日本の貯蓄超過が大きすぎ、それが経常収支黒字となって現われているという通説である。これについても白書は次のように片づけている。「(確かに日本の貯蓄超過は拡大しているが)このような貯蓄と投資の推移は、基本的には、各経済主体が経済環境の変化に応じて行動した結果であり、それ自体として問題だとはいえない。特に、マクロ的にみると、日本は、来るべき高齢化社会において貯蓄率の低下が予想されており、現在はそのために資産を蓄積すべき段階にあると位置付けられる。」さらに、「(貯蓄超過の半面で)80年代後半以降急増した日本の対外直接投資は、相手国の雇用機会の増大、技術移転の促進などを通じて、経済発展の基盤の強化に寄与している」と指摘する。

 第4は、「外国の輸出は『失業の輸出』だ」という通説である。これについても白書は「そもそも輸入の増加と失業との間に直接的な関係があるわけではない。」と断じ、念を押すように、アメリカの産業別雇用者数をみても、日本に対して輸入特化している産業の雇用が一般の雇用動向に比べて特に悪化しているわけではないことを示している。

 通説を取り上げては、絵にかいたような正論で、ぐいぐいとこれを否定して行く。読み返していても全く気持ちがいい部分だが、これを書いている時はもっと気持ちが良かったはずだ。

困惑のコメント

 さてこうした白書の通説批判を見た人々はかなり困惑したはずだ。つまり、新聞の論調を含め一般の議論は、「日本が黒字を溜め込むことは、他方で赤字が溜まる国を生むことになるから、世界経済の安定のためにも黒字を減らすべきだ」「そのためには、日本の経済構造を輸入促進型のものに変えていく必要があるのだが、既得権益の壁に阻まれて構造改革が進んでいない」というものだった。これに対して白書は「黒字は悪くないし、赤字国も困っているわけではない」「日本の経済構造が閉鎖的で、そのために輸入が阻害され黒字が増えているという事実はない」と主張したのである。

 しかし、これまで白書が批判したような通説を述べていた人たちは、白書の批判に有効に反論できない。当然だ。白書の指摘は正しく、通説の側には最初から説得的なロジックは存在しなかったからだ。しかしだからといって、「私たちが間違っていました」とも認めたくない。こうした困惑が白書のコメントに現われたわけだ。吉冨さんが指摘するように、この部分に関する白書批判は不明確で非論理的である。

 具体的にどんなコメントが出たのかを紹介しよう。まず、白書公表時夕刊の解説記事を見ると、日本経済新聞は「論争を呼びそうなのが黒字問題をめぐる四つの指摘だ。‥いずれもマクロ経済理論を前面に押し出した主張で、日本に黒字削減を求める米国の主張を退ける内容となっており、政治的な反発も予想される」と書いている。朝日新聞は「白書は日本の巨額の貿易黒字について、欧米の主張に真っ向から反論を加えた。しかし、現実には、経済の政治化は『正論』を無力にもする。白書は分析だけでいいのか、もっと現実に答えるべきではないのか」と書いている。

 次に翌日の各紙の社説を見よう。朝日新聞は「経常黒字の存在は必ずしも悪ではないという趣旨が書かれている。経済理論ではそうだとしても、この論理を諸外国に向かって言い立てるだけでは、かえって対日批判を強めるばかりだ」と書いた。読売新聞は「日本の『黒字有用論』は海外では説得力を持たない。日本一国で千二百億ドルを超える経常収支の黒字は、白書が説く『持続可能で他人の所得を減らさない』道からは、どう見てもほど遠いといえよう」と書いた。東京新聞は「国際的な問題になっている経常収支黒字の増大でも、興味ある分析は示されている。‥しかし、世界的に失業者が増え、保護貿易主義が広まりやすい現実の中で、とにかく、日本は輸入を増やさねばならない」と書いた。

 こうして並べてみると、吉冨さんの言う通りであることが分かる。誰も、白書のロジックそのものを否定していない。しかし「そうだその通りだ」とも言わない。言っているのは「理論的には正しいが、国際的な論議の場でそれが通用するのか」ということだけだ。。

 当時の私自身は、こうしたコメントを苦笑交じりに眺めていたものだ。私は、理論的に正しいと考えるのであれば、外国に納得してもらえるかにはかかわりなく、それが正しい議論だときちんと評価すればいいではないか。これでは、外国が納得しない場合には、正しい議論を引っ込めて、間違った議論を採用せよと言っているようなものだと思ったものだ。。

 この点で興味深いのは、白書の議論は、政府が熱心に進めていた摩擦回避のための努力を否定するようなものだったにもかかわらず、当の政府内からはどこからも「そんな議論をしたら米国の反発を招いて、日米交渉がこじれるから白書でそんな議論を展開するのは止めてほしい」というコメントは出てこなかったことだ。ということは、各省とも「白書の指摘は正しいし、それを主張するのは当然のことだ」と考えていたことになる。私の眼からは、白書にコメントした人たちの姿勢は、外国からどう思われるかを気にするあまり正論に目をつぶった対外妥協的なものであり、政府の方がよほど正論を正論として受け入れる度量があったように思われたのである。

 さて、ここまで来ると、政府とその批評家の関係が逆転していることが分かるだろう。普通は、政府は実際に政策を運営する立場から、関係方面に配慮し、現実に妥協しながら政策を進めていくものだ。これに対して経済学者やジャーナリストは「正論はこうだ」と国民に訴え、少しでも政府の現実妥協的な姿勢を正そうとする。ところがこれまで述べてきたような白書の議論とそのコメントを見ると、政府の文書である白書が正論を述べ、それをコメントする人々が「いや、正論はそうかもしれないが現実にはそうも行かないのだ」と現実妥協的な発言をしたわけである。吉冨さんが「通俗的政治論議に堕した論評になっている」と批判したのは、こうした白書批判者の逆転した考え方を批判したのだとも考えられるのである。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。