Jカーブ物語(その2)-経済白書ができるまで(13)
2018/12/17
Jカーブの続きである。前回、経済研究所時代に吉冨さんにJカーブの考え方を教えてもらい、計量モデルを使ってそれを実際に描いてみたこと、そして、それが78年の経済白書の目玉となったことを述べた。このJカーブ分析が93年、94年白書で再び登場するのである。
93、94年白書のJカーブ分析
私はこの時まで、Jカーブについては完全に理解し、もうこれに関しては残された分析はないとさえ思っていた。しかし、それは全くの間違いだったことが分かってくる。Jカーブには、その奥にもっと深い意味合いが隠されていたのである。以下、正確には93年白書と94年白書の分析を区別して説明する必要があるのだが、大変煩わしいし、私自身も詳しい経緯を忘れてしまったので、以下では、この2年間の白書のJカーブ分析を一体化して説明することにする。
93年、94年白書で大きな問題になったのが、「円高の日本経済への影響をどう考えるか」ということであった。この点について、私は、これまでのJカーブの分析などを踏まえて、次のように考えていた。
① 円高は短期的には黒字を増やすが、長期的には黒字を減らす。
② 円高は輸入価格を引き下げるというプラス面もあるが、輸出数量を減らして、景気に悪影響を及ぼすというマイナス面もある。
③ 当初Jカーブによって、黒字が増える局面では、マイナスの影響はまだ小さいが、黒字が減る局面ではマイナスの影響が大きくなってくる。
しかし、白書を準備する中で、どうもしっくりしない点が出てきた。それは企業収益との関係であった。円高は、輸出産業にはマイナスだが、輸入産業にはプラスである。そこで、業種別に円高の影響を計算し、これを合計してみると、産業全体ではマイナス効果の方が大きいという結論が出た。これは「円高は困ったことだ」という当時の一般的な雰囲気と整合的である。しかし、ここで分からなくなった。
第1は、交易条件との関係である。円高は交易条件(輸出価格と輸入価格の比)を「改善」させる。ドルで見た場合は、円高になるとドル建てでは、輸出価格は上昇するが、輸入価格はほぼ不変となるから、交易条件は改善する。円で見た場合は、輸出価格も輸入価格も下落するのだが、輸入価格の下落率の方が大きいので、やはり交易条件は改善するのである。これは、「改善」という言葉が示すように、「経済にとって歓迎すべきこと」だとされる。しかし、世の中では、「円高は困ったことだ」という人が多く、企業収益にもマイナスという分析が出ている。なぜだろうか。
第2は、Jカーブとの関係である。経常収支は、国民経済の「所得」である。すると、Jカーブによって短期的に黒字が増えている時には、経済全体で所得が増えていなければならない。ところが、企業収益の分析では、円高になると、当初からマイナスだという結論が得られている。なぜだろうか。
この時、国際経済の分野を担当していたのは、齋藤潤参事官(現在、日経センターで隣の部屋にいます)と国際経済班長の清水谷氏(現在内閣府)であった。この検討の過程で、これまでのJカーブにはまだ検討していない面があることが分かってきた。一つは「円ベースのJカーブ」である。
私が78年の経済白書で描いたJカーブはドル・ベースであった。これは、当時は国際収支はドルベース表示するのが基本だったことが関係しているのだと思う。日本の通貨は円であり、GDP統計など他のほとんどすべての経済統計は金額は円表示となっているのだから、国際収支についても円表示で考えるのが当然なのだが、かつてはそうではなかった。日本の国際収支統計が円表示を公式統計とすることになったのは比較的最近のことであり、93年にIMFが国際収支マニュアルを大幅改定したのに合わせて、日本の国際収支統計を見直した時に、96年から円表示を公式統計としたのである。
もう一つは、「初期条件を考慮したJカーブ」である。当初私が描いたJカーブは、暗黙のうちに「出発点の輸出入金額は等しい」という前提があった。実際には、輸出金額の方が輸入金額より大きいのだから、この初期条件を加味した方が良いのではないか。
その結果、清水谷氏は、都合4種類のJカーブを描き出してくれた。「初期条件を輸出入同額とした場合と現実の初期条件を加味した場合」「円ベースとドルベース」という二通りの組み合わせで、都合4種類のJカーブを描いたのである。
新しいJカーブで分かったこと
整理してみよう。この時描いたJカーブは、A「出発点の輸出入を同額とした場合のドルベース」、B「その円ベース」、C「出発点の輸出入額を最近時点のものとした場合のドルベース」、D「その円ベース」の四つであった。
まずAとBを比べてみたところ、全く同じ形をしていた。「なんだ、全然差がないじゃないか」とがっかりしたが、よく考えてみたら、同じレートでドルを円に換算しているわけだから、全く同じ形状になるのは当然なのだった。なんて私は馬鹿なんだろうとあきれた。
次に、CとDを見て驚愕した。今度はA、Bと、全く違う形であっただけでなく、CとDも全く異なるものだったのである。詳しく説明し始めると、本を一冊書くようなことになってしまうので、簡単に述べよう。
図は、この時の経済白書の分析を元に、97年に私が書いた「日本経済・国際経済の常識と誤解」(中央経済社)で使った図である。図中の①がここでいうCであり、②がDである。
①(C)は、出発点からしばらくの間、プラスの領域を推移しており、短期的に経常収支が黒字化するという、それまでの議論から考えられる通りの動きとなっている。一方、②(D)は、出発点からいきなり負の領域を推移している。つまり、初期条件を考慮すると、ドルベースでは円高になってしばらくの間は黒字は増え、円ベースでは最初から大きく黒字は減るのである。なぜか。その理由がわかった時、「なるほどそうだったのか」と、目の前がぽっかりと開けたような気持ちであった。これで全ての疑問は解けた。
その理由は、出発点の輸出金額が輸入金額を大幅に上回っているからだったのだ。前述のように、円ベースで考えた時、Jカーブが生じるのは、輸入価格の下落率が輸出価格より大きいからである。すると、輸出金額が輸入金額より大きい場合には(程度によるが)、輸入価格の下落率が輸出価格より大きくても、輸出金額の「減少額」は輸入金額の減少額より大きくなり、黒字は最初から減ってしまうのである。
「交易条件が改善しても、企業収益が悪化する」のも、「ドルベースで黒字が増えても企業収益が悪化する」のも、全ては、出発点の輸出金額が輸入金額を大きく上回っていたからなのであった。
これは分かると簡単なのだが、結構分かりにくい。私は、大学の授業でこの部分を教えるときは「皆さんのお父さんの収入が10%減った時、皆さんがアルバイトの収入を20%増やしても、家計全体の収入は減ってしまうでしょう。これは、お父さんの収入の額が皆さんの収入の額よりずっと大きいからです。同じように、円高で輸出金額が8%減少し、輸入金額が10%減少しても、減少額は輸出の方が大きくなり、黒字は減るのです」と説明する。
さて、私はこの発見を白書で書き、さらに自分の著書でも詳しく書いた。すると、これを見た多くの人は「なるほど」と納得はするものの、明らかに私がこの事実に気がついた時ほどは感激しない。それどころか全く関心を示さない人も多かった。白書が公表された時も、マスコミでは全然取り上げられなかった。
こうした点をあれこれ考えた末の私の答えは、二つである。一つは、「自分の感覚は他人と相当違っているらしい」ということであった。私が疑問に思うことを多くの人は何とも思わない。私がその発見に感激することも、多くの人はたいした問題だとは思わない。もちろん私は、「自分が優秀だ」とか「他人が優秀でない」とか言いたいのではない。単に、他人と随分違うらしいということを言いたいだけである。
もう一つは、「世の中の人は単純明快な説明を好み、少しでも複雑な仕組みについては苦労して理解しようとはしない」ということである。このときの発見は、確かにやや込み入っていて、普通の人には30分ほど時間をもらわないと説明するのは難しい。30分頭を使えば、それまでとは全く違う世界に入れるのに、多くの人はそれをしようとしないのである。
「まあ、自分は自分なのだから、要は自分が感激すればそれでいいのだ」と割り切っていたのだが、その後ある時、日経センター出身の某学者が私に、「この時の小峰さんのJカーブの発見は、私もよく覚えている。当時私も、同じような疑問を持っていたが、小峰さんの本を読んで、目からウロコが落ちる思いをした。」と言ったのだ。そんな反応を聞くのは初めてだったので、「そうかそうか、私だけではなかったんだ。そんな風に受け取ってくれた人がいたんだ」と私はとても嬉しかった。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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