炎の各省調整(上)いざ真剣勝負-経済白書ができるまで(6)
2018/03/19
前回まで、私が白書をどう書き上げて行ったかを見てきた。この白書の執筆が終わると、作業は一件落着と思われがちだがそうは行かない。各省調整という大きなヤマ場があるからだ。
経済白書は最終的には閣議配布資料である。閣議に配布される資料であるからには、その内容について政府全体が合意している必要がある。そこで、事前に関係省庁にドラフトを配布して意見(コメント)を求める。すると各省からコメントが寄せられるのだが、その数は千に近い数となる。これを1週間程度で全て合意させる。この調整の間、内国調査課全体は沸き立つようなエネルギーに包まれることになる。
各省調整武勇伝
各省調整は相手のあることであり、お互いに自分の言い分を通そうとして真剣勝負で頑張る。そこで、白書の折衝にはいろいろ武勇伝が生まれる。私が新入生として内国調査課に配属された時、語り草になっていた話がある。それは宮崎勇氏が課長だった時の1969年白書の折衝の時の話である。
当時日本経済で大きな話題になっていたのが、富士製鉄と八幡製鉄の合併問題であった。産業界は競争力強化の観点からこれに賛成し、経済学者たちは、寡占体質を防止するという立場からこれに反対した。ジャーナリズムでも盛んに取り上げられて、いわば国論を二分する大問題となった。
この問題は公正取引委員会の判断に委ねられていたので、経済白書がこの2社の合併の是非を直接論じることはしなかったが、間接的にこの問題を取り上げた。すなわち、過去の合併企業の決算状況を調べ、合併の後と前で収益力が向上したかどうかを分析したのである。すると、合併しても、それほど収益力は高まらないという結果が出た。白書では客観的にその分析結果を示しただけなのだが、誰が見ても、これが合併の効果を否定する議論であることは明らかだった。
当然ながら、合併推進派の通産省(現在の経済産業省)は猛烈にクレームを付けてきた。そこで、当時、産業班で分析を担当していた加藤雅氏(故人、その後、日経センター主任研究員、内国調査課長というエコノミストコースを歩んだ)ら数人が通産省に説明に行った。通産省側は、加藤氏達を会議室に閉じこめ、各部局の担当者が次々にやってきて、延々と議論をふっかけ、物量作戦で加藤氏らを根負けさせようという作戦に出た。加藤氏を派遣した内国調査課サイドでは、いつまでたっても加藤氏達が帰ってこないので大いに心配し、電話で問い合わせるのだが、通産省サイドからは「現在交渉中である」としか返事がない。
ここで、企画庁サイドの豪傑が登場する。当時日本銀行から出向してきていたK氏である。K氏は、あまりにも通産省の仕打ちがひどいので怒り心頭に達し、ついに自ら通産省の会議室に乗り込んで行った。会議室の扉を開いたK氏は、加藤氏を大勢で取り囲む通産省の担当者達に向かって「こんなに大勢で取り囲んで、何時間も脅迫のように議論をするとは君たちは卑怯だ。直ちに加藤氏を解放しろ」と、大音声を上げた(K氏は地声もやたらと大きかった)。これが効いたか、加藤氏らはやがて解放され、結局のところ、若干の修文をした上で、分析も生き残ったのだった。
各省調整の現場から
私は何度も経済白書の作成に携わってきたから、当然、各省調整も何度も経験してきた。その豊富な経験を踏まえて改めて考えてみると、人や組織によって違いが大きいものだとつくづく思ってしまう。例えば、次のような点である。
第1は、人による違いである。人には向き、不向きがある。白書の分析面ではあまり目立たなかった人が、各省調整の折衝になると、とたんに生き生きと行動し始めて、見事な交渉能力を発揮することがある。要するに、折衝に「比較優位」があるということだ。
典型的な例は、私が課長時代に、某民間建設会社から出向して来ていたU氏である。彼は、各省調整で大変な能力を発揮した。とにかく相手を説得するのがうまい。課長席から観察していると、彼は、相手によって説得方法を臨機応変に変えていた。
相手が経済に素人だったり、役人になりたてで経験が乏しい(すなわち自分より実力が下)だと分かると、かなり威圧的に振舞う。「こんなことも分からないで、コメントなんか出すな」という調子である。そうやっておいて、相手がすっかりげんなりしたところを見計らって、「あんたの顔も立ててやって、少しだけ文章を修正してやるから、これで手を打とう」と持ちかける。相手は、「全然聞き入れてもらえそうにない」と思っているところに、思いがけず妥協してくれたので、すっかり喜んで同意してしまう。
逆に、相手が結構手強いという時には、泣き落としに出る。「なるほどおっしゃることはごもっともです。でも、ちょっと考えてくださいよ。私はこのグラフを書くために何週間もかけて資料を集めたんですよ。この分析が私の唯一の成果なんです。それを削除されては、私は何をやってきたのかということになってしまうんですよ。」などと述べ立てて、相手の同情を誘っておいて、適当なところで「ここを少し直すということで、何とか手を打ってもらえませんかねえ」と頼み込んだりする。相手も人間で、「この人もかわいそうな人だ」などと思っているから、「そのくらいまけてやるか」という気になり、同意してしまう。
第2は、組織による違いである。経済白書の大口コメンテーターは、通産省と大蔵省(現財務省)だが、この二つの実力官庁はかなり性格的に差がある。
大蔵省は、組織的に仕事をするから、交渉も組織的である。与えられたマンデートがはっきりしており、マンデートを与えられていないところは絶対に妥協しない。また、どの地位の人が出した意見かによって、折衝の熱意が違うことが目に見えて分かる。補佐クラスの意見は軽いが、課長クラスになるとかなり重くなり、局長が言い始めたコメントは「絶対に譲らない」という雰囲気になる。
一方、通産省は、個人の力がかなり前面に出る。交渉担当者が比較的緩めのマンデートをもらっているので、その人を説得すると、そのまま通産省を説得したことになる場合が多い。交渉担当者が、我々と議論していて、我々の議論が正しいことが分かると、今度はその人が通産省の内部を説得してくれたりする。
なお、経済官庁以外からのコメントも案外苦労することがある。私は、新人時代に科学技術庁の担当になったことがある。その時、科学技術庁からは、一つしかコメントがなかった。先端技術の例示をしてある部分に、原子力技術という例示を追加して欲しいという、ある意味では議論しても仕方のないようなコメントであった。補佐に対処方針を聞くと「例示に加えてくれという要求を一つ受け入れると、他の省庁からも似たような要求が出てきて収拾がつかなくなる。原案で行くしかない」ということだった。そこで「例示を増やすと、他の省庁からも同じ話が出てくる。そもそも何を例示するかは、判断の問題なのだから、我々に任せて欲しい」と回答した。ところが相手は全然納得しない。「○×政策大綱には例示がある」とか、「○月×日の総理の国会答弁でこう言った」などと次々に材料を持ち出してきて、断固戦う構えである。
私はすっかり驚いてしまったのだが、よく考えてみると、我々と彼らでは、コメントの重要性が違うのだった。つまり、我々から見ると、科学技術庁のコメントは千分の1のコメント(0.1%)でしかない。しかし、科学技術庁の担当者から見ると、それが唯一のコメントなのだから、それが全て(100%)なのである。だから、企画庁サイドは私のような新人に軽く処理させようとするのに対して、相手は、補佐クラスまで動員して、材料を集めて全力投球してきたのだった。結局このコメントは、私では処理しきれず、こちらも補佐まで上げて何とか話をつけてもらわざるを得なかったのである。
私と各省調整
このコラムには「炎の各省調整」というサブタイトルが付いているのだが、実は私自身は、火が出るほど激しい調整をした覚えはあまりない。なぜ私は、他の人より激しい調整をしてこなかったのだろうか。これには二つの理由が考えられる。
一つ目の理由は、私が各省調整について、それほどネガティブなものと考えていなかったからかもしれない。例えば、ジャーナリストは概して各省調整に批判的である。「せっかく原案で重要な指摘をしても、各省が文句を付けて骨抜きにしてしまう」と考えるからである。しかし、私はそうは思わないのだ。
第1に、各省調整を経ることによって「良くなる」こともある。統計的な事実の誤りを修正したり、議論の結果、より適切な表現に改められることも多いからである。
第2に、各省を説得できないのは執筆者の側にも責任がある。本当に主張したいことがあれば、各省を説得できるだけの論理と実証を準備しておく必要があるからだ。
第3に、各省調整というハードルを越えたからこそ白書の値打ちが出るということもある。「内国調査課の勝手な主張です」ということでは、経済白書の値打ちは下がるだろう。
各省調整を力と力の対立だと考えると、「勝つか負けるか」という問題となり、議論も白熱するし、相手を説得できないと悔しい思いが残る。しかし私は、「各省調整は、自分達の分析が試される場であり、それを経ることによって良い白書になるのだ」と考える傾向があった。それであまり力み返ることがなかったのかもしれない。
二つ目の理由は、私が、議論を紛糾させないためのノウハウを駆使したことである。
例えば、あらかじめ「削りしろ」を準備しておくという手がある。原案執筆者は、「やや自信がない」という点や、「完全には実証されていない」という点については、断定を避け、末尾をぼやかす傾向がある。すると、「…と思われる」「…とみられる」「…であることは否定できない」といったあいまいな表現がしばしば登場する。私は、手元に集まってきた原案を書き直すとき、これら「あいまい末尾」を全て「…である」と「断定末尾」に修正した。
これには二つのねらいがある。一つは言うまでもなく、「主張を明確にする」ということなのだが、もう一つは、各省調整でもめた時、調整財源として使えるということである。つまり、こうしておけば、他の省庁からクレームがついた時、「では、末尾を、…とみられる、にトーンダウンしましょう」と言える。この程度の修正でも、相手は結構満足することがあるのだ。
早めに「おみやげ」を渡すということも一種のノウハウである。折衝担当者の話を聞いてみると、長々と論争してすっかり頭に血が上り、「相手の主張は絶対におかしいです。私は一字一句直したくありませんから、もう少し頑張ります」などと力み返っていることがある。しかし、こちらが頑張れば、あちらも頑張らざるを得ない。相手の立場に立って考えると、「全く修正しない」という線で「はい分かりました」と言う人は少ない。そんなことをすれば、上司から「何も成果なしで引き下がってきたのか」と怒られるのが目に見えているからだ。これではいつまでたっても議論は平行線のままである。
こんな時は、ほんのちょっと「おみやげ」をあげるのが効果的である。つまり、こちらが困らない範囲で、少しだけ文章を修正するのである。すると相手も上司に「こう修文させました」と報告できるから、多少なりとも面目が立つ。もちろん、文章を直すことによって、こちらが言いたかったことが曲げられたり、結論が不明確になったりするのは避けなければならない。こちらの言い分は守りながら、相手の顔も立てる。これはちょっとしたテクニックだとも言えるが、私はそういう微妙なバランスの文章を考え出すのが結構うまい方であった。全面対立で当事者が熱くなっているような部分も、私が書いた修文案で嘘のように一件落着するということも多かったのである。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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