一覧へ戻る
小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

白書の講演会-経済白書ができるまで(14)

 

2019/01/15

 経済白書が出来上がり、発表が済むと、今度はPRという仕事が待っている。いろいろなところで白書の内容を講演して回るのである。経済白書の講演はニーズが多く、経済団体、労働組合、企業、大学などから多くのお招きを受ける。基本的にはすべて引き受け、局長、課長、課長補佐などが分担して講演に赴く。経済白書の内容をPRすることは、役所にとっても重要な意味を持っているので、勤務時間中であってもほぼフリーに席を外してもいいことになっている(現在は違うかもしれない)。

若かりし日の思い出
 思い出すままに若かった時のことを一つだけ書いておこう。

 課長補佐時代には、課長のお供で地方に行くということもあった。ある時、課長の守屋友一さん(日経センター主任研究員経験者、故人)が、私を連れて大阪に出かけて行ったことがある。守屋さんは大阪大学の出身だったので、ついでに大阪大学に寄った。大学側では、経済白書の担当者が来るというので、助教授クラスの若手を集めて、フリーディスカッションの場を設けてくれた。

 この大阪訪問の直前に私は、石油価格の上昇をめぐって、「分配率に中立的な賃金上昇率」という考え方を基に、個人名で日経の経済教室に論文を書いていた。この会議に出た先生方の大半は、私の論文を読んでおり、「ははあ、こいつがあの論文を書いたのか」という眼で見ていたようだ。

 議論が進み、私の経済教室の論文が話題になったとき、ある若手の先生が「小峰さんの議論には疑問がある。石油危機を経ると、生産要素の相対価格が変化して、生産関数がシフトしているはずだから、単純に分配率が変化しなければ中立的だとは言えないのではないか」と言い始め、隣の別の先生が「そうそう、確かにそうですよ」などと同調した。当時の私は生意気で、自分の議論に相当の自信を持っていたので、この発言にいたく憤慨し、「では、どんな状態であれば中立的な賃金上昇だと評価できるというのですか」と逆襲した。私の提案したメルクマールがおかしいというのであれば、代案を出せというわけである。

 二人の先生は、私の逆襲を受けてややひるんだようで、「いや別に他に名案があるというわけではないのですがね」と答えるにとどまり、議論はそれで終りとなった。後にして思うと、最初におかしいと言い出したのが本間正明先生であり、それに同調したのが猪木武徳先生なのだった。二人ともその後エコノミストのビッグネームになる。

 この話には続きがある。その後何年もが経過して、ある会合で、猪木先生とお会いする機会があった。私はてっきり初対面だと思って、挨拶すると、「私は小峰さんにお会いしています」と言う。「はあ、そうでしたか」と私が怪訝そうな顔をすると、「ほら大阪大学に守屋さんと一緒にお見えになったでしょう。あの時、私は、小峰さんに、文句があるなら代案を出せといって怒られました」と言うのだった。こういうことは、怒った方よりも、怒られた方が良く覚えているらしい。「汗顔の至り」とはまさにこのことだ。

最初の講演
 話は93年白書に戻る。経済白書の執筆責任者として説明の舞台に立つのは、私にとっていわば「晴れ舞台」である。

 何度も経済白書を経験してきた私は、それまで何となく「白書講演の第1声は日経センターで」というのが慣例だと思い込んでいた。白書が発表された日に東京のセンターで講演し、翌日は大阪のセンターで講演するというのが当然だと思っていたのだ。日経センターと経済企画庁は関係が深く、歴代の主任研究員は、その後企画庁に戻って内国調査課長となることが多かったからだ。私もそうだ。

 私が主任研究員としてセンターにいた時にも、経済白書の担当課長が、満場の拍手に迎えられて、堂々とセンターの講演会場に登場するのを実見し、「私もいずれこの舞台に立ちたいものだ」という思いを強くしていた。

 センターの側でもこれが歓迎すべきことなのは言うまでもない。もともとセンターが主催する講演会の中でも経済白書の講演会には特に多くの人が集まる。センターの某事務局長は、「経済白書の講演会は別格官幣大社です」と何だかよく意味の分からない表現をしていた(別格に人が集まると言うことらしい)。「センターに行けば日本で最初に白書の内容を担当課長から直接聞ける」ということになれば、センターの評価も上がるというものだ。

 93年白書を書いた時、私は「ついに晴れ舞台の日がやってきた」と張り切ったのだが、事務方が立てたスケジュールを聞いてみると、発表日の講演はセンターではなく、経済企画協会で行うことになっている。事情を聴いてみると、過去数年のどこかの段階で「日経センターで第一声というルールは単なる慣例だから守る必要はない。むしろ、企画庁の関連団体である経済企画協会で第1声を上げるべきだ」ということになったらしい。

 私は「それは残念」と思ったが、建前としては間違っていないのでこの日程をひっくり返すことは難しい。しばし考慮の末、私は妥協案をひねり出した。それは、発表日の午前中に企画協会で、午後にセンターで講演するというものだ。これなら「第1声は企画協会で」と「発表日にセンターで」という二つの要請を満たすことができる。我ながら名案である。私の案はそのまま実現し、1日目は企画協会とセンター、2日目は大阪のセンターという日程が決まった。

 ついに経済白書を世に出す日が来た。私は朝早く家を出て、企画協会の講演会が行われる会場に向かった。この時点ではまだ白書は発表されていない。閣議が終わっていないからだ。閣議が終わって、無事経済白書が報告されると、その旨の連絡が内国調査課に届く。私は、役所に電話して、白書が無事閣議を通過したことを確かめた。これで安心してPR活動に専心できる。

 午後はそのままセンターに向かった。センターの会場には多くの人々が詰めかけていた。定刻になり、司会者に促されて壇上に向かう。会場には、企画庁の先輩や、かつてセンターで同じチームを組んでいた研修生OBも何人か混じっているのが分かった。

 「とうとうこの日が来たのか」と私は感無量だった。「皆さん、本日は経済白書の説明の場にお集まりいただき、ありがとうございます。」私は説明を始めた。私の一生の間でもめったにないほど晴れがましい時だった。


※2018年1月以前のバックナンバーはこちら(旧サイト)をご覧ください。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。