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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第66回)

堺屋大臣と月例経済報告

 

2019/02/18

 堺屋太一さんが亡くなられた。堺屋さんは、民間人大臣として98年7月から2000年12月まで経済企画庁長官を務めた。私は、この時前半は物価局長、後半は調査局長として堺屋大臣にお仕えした。

 今回は、前回までの課長時代から、時空をワープして局長時代に飛び、堺屋大臣との思い出を記してみたい。

月例経済報告に盛り込んだ読みやすさと先見性

調査局が毎月必ずこなさなければならない仕事に「月例経済報告」の作成がある。政府は毎月1回、総理以下の主要閣僚と与党幹部が集まって経済情勢を検討する「月例経済報告閣僚会議」を開いている。この会議に提出する資料が月例経済報告である。大事な会議だから資料の準備もエネルギーを使う。最新の経済データを盛り込んだ資料を作成し、政府の現状認識を述べる文章を各省と相談しながらまとめていく。

 堺屋大臣は文筆家だけあって、この月例経済報告の文章にこだわりを見せた。ここでは有名な例を二つ紹介しよう。

 一つは、堅苦しい政府の文章を、できるだけ分かりやすくしたものだ。大臣就任直前の1998年7月の月例経済報告では、消費をめぐる記述はこうなっている「個人消費は、消費性向には持ち直しの動きもみられるものの、雇用者所得の低迷もあって、低調に推移している」。堺屋さんは、翌8月の月例報告で、これを次のように変えている。「個人消費は低調である。これは、実質賃金が減少しており、消費者の財布のひもが依然として固いからである」。分かりやすくなっていることは一目瞭然だ。この「財布のひも」という表現は当時随分感心されたものだ。

 もう一つは景気の先見性だ。当時は、97年秋の金融危機後の経済の低迷が続いていた時期だったが、堺屋さんは98年12月の月例報告に「景気は極めて厳しい状況にあるものの、一層の悪化を示す動きと幾分かの改善を示す動きとが入り混じり、変化の胎動も感じられる」という表現を盛り込んだ。事後的に見ると、この時の景気の谷は99年1月だったのだから、堺屋さんの「変化の胎動」は、まさに慧眼だったと言える。

 さて、こうした堺屋さんの優れた点に、私が付け加えたいことがある。やや長くなるが、私が局長時代の経験でとてもよく覚えていることに次のようなことがあった。

スクープの朝

2000年の3月12日(日曜日)のことである 。朝の7時半頃突然我が家の電話が鳴った。まだ寝ていた私が寝ぼけ眼で出てみると、A紙のK記者であった。

 「局長(私のこと)、朝早くからすみませんが、今朝のN紙をご覧になりましたか」

 「見ていませんが何か出ているのですか」

 「3月の月例経済報告で企画庁が景気回復宣言をする、という見出しですよ」

 「本当ですか。ちょっと待ってください。」と言って私は玄関に行き、ドアから放り込まれていたN紙を見た。なるほど「景気自律回復 政府宣言へ」という見出しが踊っている。あまりのことに血の気が失せる思いであった。

 「確かに出ていますね。」

 「そういう話になっているんですか?」

 「月例の表現はこれから各省と打ち合わることになるので、何ともお答えしかねますが、回復宣言をするなどということはありません。」

 私は電話を切ると、すぐに大守内国調査第一課長の自宅に電話した。大守課長は既に新聞を見ていて、「N紙の記事の基になったのは、大臣に説明した時の案ですね」と言った。我々はちょうど前々日の金曜日に、月例報告の案文を堺屋大臣に説明したばかりだった。この時大臣からの注文がついて文章を修正したのだが、N紙に出た案文は、その修正が入る前のものなのだ。おそらく、相談のために各省に配布したものから漏れたのだろう。

 「資料管理については、明日一番で再確認することにして、僕はこれから次官に電話して謝っておこう。」

調査局の情報のリークは、「調査局の資料管理の不徹底」ということになり、局長である私が責任を取らなければならない。まずは、次官に謝る必要があるのだ。次官も既に新聞を見ていて、電話に出るなり「出ているね」と言った。「大臣に説明する前の文章です。我々の資料管理が不充分だったわけで、まことに申し訳ありません。」と私が言うと、次官は「まあ。せめて大臣に説明した後で良かったな」と言った。同じスクープされるにしても、大臣に説明していないものを抜かれると、大臣は「自分の聞いていない内容が新聞に出た」と感じて不快感を持つ場合があるからだ。

 私は「大臣にはどうしましょう。私から電話しておきましょうか」とたずねた。情報を自分の直属の上司にどの程度伝えるかは、自分の責任で判断しなければならない。だから私は、自分の判断で、直属の上司である次官に情報を伝えたのだ。大臣にどの程度の情報を伝えるかは、今度は次官が判断すべきなのだ。次官は「君から大臣に電話しておいてくれるかい」と言った。

 そこで私は堺屋大臣の私邸に電話した。ところが何回ダイアル音がしても、電話に誰も出ない。「さてどうしよう」と私は頭をひねった。

大臣への電話

大臣邸に電話がつながらないであせっているうちに、時刻は9時に近くなってきた。私は、「大臣はどこかに出かけて、留守なのかもしれない」と思い始めた。そこで、秘書官のT氏の自宅に電話することにした。大臣が外出しているとしても、秘書官であれば行き先を知っているはずだ。

 手短に事情を説明すると、秘書官は、「それは、やはり局長から電話していただいた方がいいですね。休みの日は、大臣は明け方まで原稿書きの仕事をしていますから 、多分今ごろはまだ寝ているはずです」と言った。(寝ているとは思わなかった。秘書官に電話して良かった。)

 秘書官はさらに、「ではこうしましょう。11時にもう一度大臣邸に電話してください。その頃には起きているでしょうから、つながるはずです。それでもだめだったら、もう一度私に連絡してください。非常用の大臣の寝室の電話番号をお教えしましょう。」

 まずは完璧な対応だが、(11時では遅くないか?)という気もした。マスコミから電話が殺到する前で、かつ大臣もある程度は睡眠を取った状態が理想的なのだが、その判断は、秘書官に委ねるしかない。そこで私は11時まで待って、もう一度大臣邸に電話した。今度は、まず奥様が出られ、すぐに大臣が出た。大臣は、電話に出るなり「小峰さん、新聞に出ていますね。さきほどNHKからも私に電話がありましたよ。」と言った。

 (残念、少し遅かったか。)私は、まず、我々の資料管理の不行き届きで、新聞に漏れたことをお詫びし、さらに、マスコミへの対応は、「月例の案文は各省と調整中であるが、いずれにせよ回復宣言を出すということはない」というラインで進めたいと説明した。大臣も「そんなところでしょうね」と言った。

 「政府が回復宣言を出すべきか」という点については、我々調査局と大臣との間では、既に何度か相談を重ねており、「回復宣言のようなものは出さない」ということで意見が一致していた。当時マスコミは、「いつ政府が回復宣言を出すのか」ということをしつこく取材していたのだが、大臣は「そもそも政府が宣言のようなものを出す必要はない」という考えを持っており、この点は私も全く同意見だったのだ。

 大臣としばらく「回復宣言」についての話しをした後、私はもう一度「お休みのところを、我々の不手際のためにご迷惑をおかけしました」とお詫びしてから電話を切ろうとした。すると大臣は「あのね、小峰さん」とさらに何か言う構えを見せた。

 「はい何でしょうか」と私が身構えると、大臣は、

 「今回のことはあまり気にしないでいいですよ」と言ってくれた。私は、「ありがとうございます」とだけ答えたのだが、実を言うと、この大臣の一言で、朝からの心理的な負担がかなり軽くなった気がした。

 翌月曜日の朝一番で、大臣は、次官と官房長それに私を呼んで「今回のような資料漏れがあると、企画庁の信頼を失うことにもなるので、十分注意してください」と伝えた。私も、火曜日の局議(調査局幹部の定例会合)で、以後こうしたことのないよう注意するように厳しく伝えた。誰もが個人的には、「資料を各方面にばら撒いている以上は、完全な資料管理は不可能だ」と思っている。しかし、それとは別に、組織としてのけじめはきちんとしておかなければならないのだ。

 大臣は組織の最高意思決定者として、資料漏れがあった場合は、厳しくその責任者をとがめる必要がある。電話で堺屋さんが「気にしないでもいいですよ」と私に言ってくれたのは、「明日は、君を厳しくとがめるのだが、それは立場上言うのであって、額面通り受け取らないでいいですよ」ということを間接的に伝えてくれたのだと私は思っている。

 堺屋さんの文章の分かりやすさや先見性については多くの人が指摘している。しかし、こんなこともあったので、私が真っ先に思い浮べるのは、堺屋さんの「部下への思いやり(優しさ)」なのである。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。