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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

大来佐武郎さんのこと

 

2019/03/15

前回、堺屋太一さんのことを書いた。書きながら、経済白書の仕事をする中で、この仕事をしていなければ親しく接することなどありえないような大人物との交流があったことを思い浮かべていた。今回は、その大人物の中でも飛びぬけて大人物の大来佐武郎さんの思い出を書いておきたい。

大来さんの原稿を書く
経済企画庁の大先輩で外務大臣もつとめた大来佐武郎さんは、親分肌の大人物で、企画庁人脈の大ボスであった。64年から約10年間、当日本経済研究センターの理事長を務めた。大来さんは、1948~1951年に内国調査課長を務めており、経済白書という点でも私にとっての大先輩になる。

超多忙の大来さんは、効率的に仕事を進めるのが上手であった。私も、何度か大来さんの名前で原稿を書いた。私が大来さんのために原稿を代理執筆したのは多分4回くらいだと思う。それは、例えば次のように進む。

私が、総合計画局の課長補佐だったある日、大来さんから電話があり、アメリカのシンポジウムで「日本の経済計画」というタイトルでスピーチをすることになったので、原稿を書いて欲しいという依頼があった。

「分かりました」と答えて、私は早速、スピーチの骨子を箇条書きにして、大来さんの事務所に持参した。こうした時、私の考えが大来さんにそのまま採用されることはありえない。とにかく他人のスピーチなのだし、私と大来さんでは経験も全然違うのだから、二人の考えが違うのは当然だ。しかし、何はともあれ、とにかく早目に大来さんのところに行って、考えを詳しく聞いておく必要がある。ぐずぐず考えていて、締め切りの間際に原稿を書き上げて持って行ってから、大幅に直されたりしたら悲劇的な事態になる。

しかしだからといって、手ぶらで「さて何を書くんですか」と聞きに行くのは余りにも芸がない。そこでとにかく何でもいいから、与えられたテーマで自分がスピーチするとすればどんなことを話すかを考えて、それを持っていくのである。

大来さんは、私の説明を聞いた後、30分くらい自分の考えをしゃべる。半分はもともとの自分の考えであり、半分は私の考えに触発されて出てきた考えである。私は時々質問しながら、メモを取る。とにかくこの時の話だけが原稿の材料になるのだから、こちらも必死である。後は、自分の考えと大来さんの発言をミックスしながら原稿を仕上げるのである。

出来上がった原稿を事務所に届けると、しばらくして大来さんから電話が来る。この電話は、夜の11時前後であることが多い。1日の仕事を終えて、自宅の書斎で私の原稿に目を通している大来さんの姿が目に浮かぶ。大来さんは、原稿について、電話でいくつか気がついた点を指摘してくる。内容についていろいろ質問されることもある。電話が一段落し、ほっとしていると、翌朝7時頃、もう一度かかってきたりする。大来さんは「あの後、聞きたいことが出てきたんだけどね、君はもう寝てるんじゃないかと思ってね」と言ったりする。夜中の2~3時頃まで原稿をチェックしている大来さんの姿が目に浮かぶ。こうして最終チェックを経た後、最終稿が完成し、事務所がそれを英訳するという手順を経て、原稿は完成するのである。この時の原稿は、アメリカでレスター・サローらが出席したシンポジウムで披露され、後に単行本(「エフェクティブ・マネジメント 日本から何を学ぶか」)にも収録されている。

大来さんの海外出張
話はわき道に逸れるが、このシンポジウムが近づいたある晩、再び大来さんから我が家に電話があった。「君もアメリカに連れて行こうと思うのだが、どうかね」というのだ。私の苦労に報いるため、旅費は先方持ちで、私も同行させてやろうというのだ。大変ありがたい話で、いわゆる「おいしい出張」である。しかし、なにしろ私は計画局の総括補佐で、局の仕事全体の進行を管理していたので、たとえ1週間といえども、役所が認めてくれるかは疑問であった。その旨お話すると、大来さんは「よし、では、明日の朝、私がT君(当時の計画局長)に電話しておこう」と言った。自ら局長に電話して、私のアメリカ行きを認めさせようというのである。なにしろ大来さんは企画庁の大ボスだ。私が自分で言ったら、局長は駄目だと言うかもしれないが、大来さんに言われれば了承するに違いない。「よしよしこれで楽勝」と私は思った。

私は次の朝一番で局長のところに行き、事の次第を話した。突然大来さんから電話がきたら局長も驚くだろうから、予告しておいたのである。局長は、話を聞いて非常に驚き、「それは大変だ」と叫んだ。しかしその後の局長の言葉は、全く予想外のものであった。私は、てっきり「大来さんに言われたんじゃあ、君のアメリカ行きを認めないわけにはいかないなあ」というせりふが出てくるとばかり思っていた。ところが局長は「それは何としても断らねば」ときっぱり言った。そしてその言葉通り、その後かかってきた大来さんからの電話で、はっきり私のアメリカ行きを断ってしまったのだった。

この予想外の事態の推移は、評価が難しい。一方では、おいしい出張に行けないで残念という気もするが、他方では、自分が局の仕事の進行上欠かせない役割を担っているということがはっきりしたわけだから、喜ぶべきなのかもしれない。

大来さんは、当時、年に数十日は海外に出ていて、まさに東奔西走の日々であったが、超多忙の日々を元気に過ごす秘訣は、私の見るところ、「寝ること」と「食べること」だとお見受けした。よく寝て、良く食べるのである。とにかく、ちょっと時間ができると、飛行機の中でも車の中でもすぐに寝てしまう。また、とにかく目の前に食べ物が出てくると、みんな食べてしまう。

アメリカで、飛行機を乗り継いだ時のことだ。日本からアメリカへの機内で、食事が何回も出たので、私はお腹が一杯であった。そのまま国内便に乗り換えて、私の席は大来さんの隣であった。飛び立って、私はうとうと寝てしまったのだが、起きてみると、大来さんが何か食べている。私が目を覚ましたのを見て大来さんは「食い物が来てるよ」と言った。テーブルが下りていて、食事が置いてある。私はとても食べられなかったのだが、大来さんはこれを全部食べてしまった。全く信じられない胃袋の持ち主であった。

大来さんからの電話
その後何年かが経過し、時は本連載の時点(つまり私が内国調査課長であった時)に移る。その頃大来さんは、企画庁の参与であった。参与というのは社外取締役のようなもので、月1回、参与会の場で、企画庁幹部の説明を聞いて、いろいろコメントするのが役割である。当時は、大来さんの他、篠原三代平氏、宮崎勇氏、三重野康氏らの超大物がメンバーであった。ある時、大来さんから私に電話があった。「自分がこれまで手元に置いていた書籍を整理したいので、企画庁の図書館で引き取ってくれないか」というのだ。企画庁の図書館は、内国調査課に所属しているので、私は図書館運営の責任者でもあったのだ。私は、図書館と相談して、これを受け入れることにした。

次の参与会が近づいたので、私は、土志田調査局長とH次官に事情を話しておいた。次官は「では参与会で私から大来さんにお礼を言おう」と言った。そして参与会の日が来た。ところが出席の返事が来ていたのに、大来さんが現れない。隣の土志田局長は「おかしいねえ。来ないねえ。せっかくお礼を言おうと思ったのにねえ」と言う。やがて、「大来さんは体調が悪くて欠席されます」という連絡が入った。「タフな大来さんにしては珍しいですね」と私は局長に言った。

大来さんが亡くなったという知らせがきたのは、その数日後であった。結果的にこの時の電話が私と大来さんとの最後の会話となった。最後の電話が、自分の蔵書の始末をつけるという内容だったのには、やや運命的なものを感じる。

大来さんは、自宅で国際経済学者として有名な、フレッド・バーグステン氏と電話をしている最中に意識を失い、その後数日して亡くなられたという。世界を股に活動しつづけた大来さんらしい幕切れだった。死の直前まで、現役のエコノミストとして、日本と世界の経済問題を考え続ける。それは、誰にでもできることではないが、エコノミストとしての一つの理想的な生き方だったと思える。

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