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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第69回)

不良債権問題への取組(上) 2通のファックス

 

2019/05/16

 91年以降のバブル崩壊の過程での最大の問題の一つは、金融機関の不良債権問題であった。この不良債権問題への視点は、「不良債権がどの程度なのか」という実態認識の問題、「不良債権の存在が経済活動をどの程度制約しているか」という経済的影響の問題、そして「不良債権をどう処理するか」という対応策の問題に分かれる。まずは実態認識がしっかりしていないと話にならないのだが、正直なところ、93年1月に内国調査課長に就任してしばらくの間、私は、不良債権問題の深刻さをあまり認識していなかった。その深刻さに気が付いたのは、内国調査課でこの問題についての分析を試みた時に、大蔵省銀行局から、やや常軌を逸する激しい抗議を受けた時である。「所管部局がこれほど神経を使うということは、随分と深刻な問題なんだな」と思ったのである。

大蔵省からの抗議で知った不良債権問題の深刻さ

 内国調査課では、93年の白書が一段落した後、年末にかけて、ミニ白書とも呼ばれる「年間回顧」という報告書の作成に取り組んだ。これは、いわば白書の予行演習のようなもので、課長補佐が中心となって、いくつかの課題を取り上げて分析・公表するものだ。

 93年の年間回顧では、いくつかの課題の一つとして、バブル崩壊後、不良債権問題などによって経営基盤が揺らいでいる銀行部門を取り上げることにした。その問題意識は、バランスシートが傷んでいるため、金融機関の「リスク対応力」が低下しているのではないかということであった。

 さて、この年間回顧は、白書とは異なり、閣議に配布されるわけではなく、経済企画庁調査局の責任において発表されるものなのだから、他の省庁に相談する必要はない。しかし、同じ政府でもあり、経済企画庁には大蔵省からの出向者も来ているから、「内国調査課が銀行部門の分析を行っている」ということは、大蔵省の銀行局にも知られるところとなった。その内容を知った銀行局は、猛烈な勢いで、調査結果の公表を取りやめるよう求めてきたのである。

 この時の銀行局とのやり取りは、私の役人生活の中でも最も不愉快な思い出の一つである。あまりにも不愉快なので、思い出したくないから、あまり思い出さないことにしてきた。さらに、私には、「嫌な思い出はどんどん忘れる」という特技があるようで、当時の具体的なやり取りは断片的にしか覚えていない。

 ところが、手元に2通のファックスが残っていた。このファックスは、当時何となく「記念に取っておこう」という気になって保存しておいたものである。この奇跡的に保存されていたファックスを今回改めて見直してみると、当時の思い出がどんどん蘇ってきた。以下、かなり細かい話になるが、記憶をたどってみることにしよう。

銀行局からの猛烈な抗議 深夜のファックス

 手元にある2枚のファックスの1枚目の日付は、93年12月末のある日なのだが、すさまじいのはその着信時間で、25時となっている。つまり深夜の1時である。

 この時の状況を説明しておこう。大蔵省銀行局からの「公表するな」という抗議をめぐって、調査局は銀行局と折衝を行っていた。当日は、私は早々と帰宅しており、実際に折衝に当たったのは課長補佐のS氏であった。折衝相手も銀行局の課長補佐である。調査局では、S氏の上席の補佐(総括補佐と呼ばれる)であるN氏も残って折衝の行方を見守っていた。

 1枚目のファックスは、S氏からのものであり、その内容は次のようなものだった。

 1. 問題となっている「リスク許容力の低下」の記述全般に関して、銀行局の総括補佐と折衝したところ、先方はマーケット(株価)にマイナスの影響が及ぶとして抵抗したが、当方も譲らず、12時半に物別れとなった。

 2. 先方からは、どうしても企画庁の責任で出すというのであれば、(企画庁の)調査局長から、(大蔵省の)銀行局長、証券局長宛に「この分析が原因で株価が下がった場合、その責任は企画庁にある」という内容の文書を出すよう要求してきた。これについては、そもそもこの文書は調査局の責任の下に出すものであり、本来であれば大蔵省と相談する必要さえないのだから、文書を出せというのはお門違いだとして取り合わなかった。

 3. 先方は、このままでは自分が持たない(これがどうも本音らしい)から、小峰課長から当方の〇課長に「これで行きます」と一言電話を入れてもらいたいと要望してきたので、月曜の朝、当方から電話すると伝えてある。当方の対応が理解されなくて残念ですが、よろしくお願いします。

 このファックスを見て私は、「やれやれ、では月曜の朝、電話するか」と思ったのだが、それからさらに1時間ほどして、もう1通ファックスが送られてきた。今度は、総括補佐のN氏からだ。内容は次の通りであった。

 1時40分に、銀行局の〇課長から、自分に電話があった。〇課長は、以下の3点を主張してきた。

 1. 経企庁調査局の名の下に、金融業について分析し、それを公表する法的根拠はないはず。あるなら示せ。

 2. 仮に1があったとしても、公表する際には、「これは経企庁調査局独自の見解である」旨明記すべきである。明記しないのであれば、しなくてよいという法的根拠を示せ。

 3. 仮に、このような内容の分析が公表された結果、マーケットに影響が及んだ場合の経企庁調査局の責任の取り方を文書で示せ。

 これに対して、以下のように回答した。

 1.については、設置法上の根拠がある旨主張。先方はそうは読めないと言ってきたが、当方は、これが設置法の企画庁としての有権解釈と主張。

 2.については、しなければならないという法的根拠がない上、しないという慣行が成立していると主張。

 3.については、この文書は調査局名で公表されるのだから、当局の責任は明白であり、特段それ以上のものを示す必要はないと主張。

 これに対して先方は、それでは納得がいかないし、それはN補佐の見解に過ぎないのだから、月曜日に小峰課長に改めて上記3点を厳しく追及すると述べて電話を切った。

 やれやれ「厳しく追及してくるのか」と、私は暗澹となったものだ。

2通のファックスを読み解いてみると

 ではここで、上記2通のファックスを読み解いてみよう。次のようなことが分かる。

 まず、2通のファックスが届いた経緯だが、これは、「S補佐は、これで自分の段階での折衝は終わったと考え、私にその結果をファックスで伝えてきた」⇒「先方の補佐も折衝結果を、〇課長に伝えた」⇒「ところが、〇課長は(多分)『そんな手ぬるい折衝ではだめだ。自分が電話する』といって、(私が不在なので)N補佐に電話してきた」⇒「N補佐は〇課長からの電話を受けて一連のやり取りを行い、私にその結果をファックスで伝えてきた」ということであろう。ここまでは誰でもわかる。

 さらに2通のファックスを比較してみると、やや不思議なことに気が付く。それは、補佐から課長に上がっていったとき、先方の主張がより過激になっていることだ。普通の折衝は逆である。普通はまず、先頭に立つ補佐は、折衝では強硬な立場を述べ、相互に激しいやり取りを行った後、次第に問題が絞られてくる。これを課長に上げて、双方が納得するような現実的な妥協点を見出すという流れになる。つまり、上に上がるほど、対立点はマイルドになるものだ。

 ところがこの場合は、補佐レベルでは「経企庁独自の見解である」といったような注意書きを加えれば、文書の公表は認めようという方向に進んでいたのに、課長に上がったら「そもそも企画庁がこの問題を分析する法的根拠があるのか」という、より過激で原理主義的な主張になってしまっているのだ。

 これは次のように考えれば納得が行く。まず、銀行局では、〇課長が「銀行問題は銀行局の所管であり、企画庁が銀行問題を分析する根拠はないのだから、全面的に削除させるべきだ」と主張していた(らしい)。N補佐への電話でも、最初にこの点を指摘している。

 しかしこの主張は明らかに乱暴である。そんな主張が通ってしまったら、「労働問題は労働省の所管である」「第2次産業は通産省の所管である」「環境問題は環境省の所管である」ということになるから、経済白書では何も分析できないことになってしまう。交渉に当たった銀行局の補佐は、それは十分分かっているので、なんとか注意書き程度で収めようとしたのだ。「このままでは自分が持たない」という補佐の言葉は、「自分より自分の上司が厳しい意見を主張しているのだ」ということが滲み出たものだ。

 先方が気にしているのが、分析の中身ではなく、「分析が発表された場合のマーケットの反応」だという点も興味深い。分析そのものには何も言って来ないということは、我々の分析そのものは正しいということであり、心配なのは、金融機関の実態が知られることで、株価が暴落するのではないかということだけなのである。

筋違いの要求もあった

 さらに、この2枚のファックスとともに、1枚のメモが保存されていた。これは、このファックス騒動の前後に、私から主計局のK主計官にあてた報告メモで、そこには「先日ご仲介いただきました、調査局作成のレポートにつきましては、銀行局ともご相談の上、若干の修文を行った上で公表することで調整がつきましたので、ご報告いたします。」と書かれている。これを見て今さらながら「そうだ、そういうこともあったな」と思い出した。それは次のようなことであった。

 銀行局との間で分析の扱いをめぐっての議論が暗礁に乗り上げていたある日、企画庁担当のK主計官から私に、「ご相談したいことがあるのでご足労願いたい」という電話があった。予算を握っている主計官からの呼び出しとあって早速駆けつけてみると、主計官は「銀行経営の分析を巡って銀行局と揉めているそうだが、何とか工夫して、銀行局も納得するような形に収めてもらえないだろうか。もちろん、銀行局の問題に私が口を出すのは筋違いであるということはよく分かっているのだが、銀行局から頼まれてしまったのでお伝えする次第だ」というのであった。

 何ということだ。銀行局は、自分たちが議論で勝てそうにないものだから、筋違いではあるが影響力の大きい主計局に仲介を頼んだのである。これは明らかに卑怯な行動であり、「そこまでやるのか」とあきれたものだが、これも今にして思えば、銀行局がいかに必死だったのかを示すものだとも言えそうだ。

 結局のところ、そうした主計局からの要請もあったので、前述のファックスの後、私は先方の課長と話をし、若干の修文を行うことで何とか分析は公表されたのだった。

 結局次のようなことが言えそうだ。当時の銀行局は、多くの金融機関が不良債権によって相当苦しい状況に陥っていたことを知っていた。その実態が明らかになると、金融機関の株価は暴落し(これはその後現実のものとなる)、金融機関のみならず、経済全体に大きな悪影響が及ぶ。これを防ぐために、できるだけ実態が知られないようにし、知られないままに何とか問題を解決してしまおうと考えていたのではないか。我々調査局は、そうとは気が付かずに、銀行局が最も神経をとがらせていた部分に踏み込んでしまったのだ。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。