本を書く
2020/01/17
昨年の暮れも押し詰まり、大学も正月休みに入ったある日、朝起きてみると、日本経済新聞出版社のH氏からメールが来ている。読んでみると、日経の読書欄の「エコノミストが選ぶ経済図書ベストテン」で、私の「平成の経済」が第1位になったという知らせだった。H氏は、この本の担当編集者である。半信半疑で早速日経新聞を繰ってみると、確かに私の本が第1位としてリストアップされているではないか。
これには心底驚いたが、同時に大変嬉しかった。この本は、これまでの私のエコノミスト人生の集大成のような本だったから、私のエコノミストとしての歩みが評価されたような気がしたのだ。今回は、これを機会に、私がどんな経緯で本を書くようになったのか、そしてそれが私のエコノミスト人生にとってどんな意味を持っているのかを書いてみたい。
突然の電話
役所に入って10年近くが過ぎようとしていたある日、一本の電話がかかってきた。振り返ってみると、この電話が私のその後のエコノミスト人生に決定的な影響を及ぼすことになる。
電話は、東洋経済新報社のW氏からであった。面識はない。W氏は名乗った後、突然「小峰さん、本を書きませんか」と「単刀直入」を絵に描いたように私に言った。(何ということだ)と私は驚いた。それまで漠然と「一生の間に1冊は本を書いてみたいものだ」と思っていたのだが、突然そのチャンスが転がり込んできたのだ。私はほとんど即決で「是非やってみたいです」と答えた。
W氏は、「では1週間くらい考えて、レジュメを書いてください。編集会議にかけますから」と言った。電話を切って、私は(よーし、よーし、やってやろうじゃないの)と大いに張り切った。
当時私は、経済研究所の副主任研究官として、計量モデルを担当していた。私が属していたチームでは、SP-18という新しいモデルを作るため、連日、消費関数、設備投資関数、物価関数、輸出入関数などを推計していた。本をまとめるとしたら、やはり現在進行中の仕事を元にするのが良いだろう。そこで私は「日本経済の変動メカニズム」という本を企画した。モデルの作業を生かして、家計の消費と貯蓄、企業の収益と投資、為替レートと輸出入の関係などがどんなメカニズムで変動しているのかをまとめようと思ったのである。本の企画をW氏に提出すると、しばらくして「これで結構ですから、1年くらいの間に書き上げて下さい」と言われた。
こうして本を出すという作業は、意外なほどあっさり始まった。それにしても、まだ無名の私に、なぜ出版社が声をかけてきたのだろうか。
三人の恩人
その後分かってきたのだが、W氏という人は、名うての積極人間で、次々に「本を書きませんか」と声をかける人なのであった。企画庁では、同時期に同じW氏の誘いで、私の他に、新保生二、八代尚宏両氏も本を出すことになった。その後、この3人の本はほぼ同時期に出版されている。
この積極人間のW氏がこの少し前に手がけたのが、吉冨勝氏の「現代日本経済論」であった。既に経済論壇で論客として知られ始めていた吉冨氏は、この本で日経・経済図書文化賞を取り、日本経済論の第1人者としての道を歩み始めることになる。W氏は吉冨氏の成功ですっかり気を良くし、「経済企画庁の若手で他に本をかけそうな人はいないか」と探し始めたらしい。
二匹目のドジョウを狙ったわけだが、この時出版された新保生二氏の「現代日本経済の解明」と八代尚宏氏の「現代日本の病理解明」は1980年度の日経・経済図書文化賞を同時受賞している。2匹目と3匹目のドジョウがいたのである。こうしてみると、私の本の出版のきっかけを与えてくれたのは吉富さんだったことになる。W氏が第1の、吉富さんが第2の恩人だ。
もう一人恩人がいる。この時、W氏はいろいろな人に「本を書けそうな人はいないか」と聞いて回ったようなのだが、その中に当時、日本銀行から企画庁の内国調査課に補佐として出向してきていたO氏がいた。O氏は、私がESP(企画庁が編集していた雑誌)に書いていた論文を読んでいて、全く面識がなかったにもかかわらず、W氏に私を推薦してくれたらしい。
その後、私とO氏はお互いに会うこともないまま、20年もの歳月が流れた。O氏は日本銀行を退職し、大学で教鞭をとっていた。私が調査局長となったある日、O氏から電話があった。用件は「自分のゼミで日本経済の話をして欲しい」というものであった。私は喜んで大学に赴き、O先生のゼミ生に話をした。ゼミが終わる頃、キャンパスは既に夕闇に包まれていた。O氏は、お礼にといって夕食をご馳走してくれた。20年もの時が流れてから初めて、この時私は、出版社に私を推薦してくれたことに対して、直接お礼を述べる機会を得たのだった。O氏は「はあ、そういうこともありましたねえ」と笑った。
W氏という積極人間の存在、吉冨さんという先輩の業績、O氏の好意という三つの要素が重なって、私に本を出すチャンスが巡ってきたわけである。
ひたすら書いた頃
こうして私の最初の著書プロジェクトはスタートした。私はまず、計量モデルの作業を続けながら、本の材料を集め始めた。
そうしているうちに、私は、補佐として内国調査課に異動になり、経済白書の執筆担当者となった。これは本を出すという意味では、私にとって絶好のタイミングでの異動であった。言うまでもなく、経済白書を書く過程で、私には次々に問題意識が生まれ、それを解決するために考え、議論し、データを集め、そして分析をまとめた。本の材料がどしどし集まっていったのである。
この時、私の前に提示され、最初の著書にその答えが示されることになる問題群としては、例えば、次のようなものがあった。
① 当時新たに公表された新SNA体系では石油危機後の経済はどう描写されるのか ② 石油危機後、消費性向はなぜ急低下したのか ③ 在庫の変動が景気対策の効果を消してしまうという「赤羽理論」はGDPの概念でどう説明されるか ④ 公共投資の景気刺激効果は薄れたという議論にどう答えるか ⑤ 円高のJカーブは日本経済にどんな意味を持っていたのか
2回目の白書が完成してから、いよいよ執筆に取りかかった。当時はワープロなどなかったから、全て手書きである。書くことはたくさんあったので、夜を日に継いでどんどん書いていった。
本を書いている時にこんなことがあった。白書の仕事が終わった後、私は、何人かの人々と北海道に出張に行った。地域の企業の方に集まっていただいて、地方の実状を聞いてこようというわけである。その出張の時、たまたま翌日の午前中が空き時間になった。私以外の人々は、喜んで、どこに観光に行こうかと相談している。しかし私は、観光に行くよりは本を書いている方がいいと思った。そこで宿の人に聞いてみると、翌日の午前中は部屋を自由に使って良いということだった。私は喜んで、「私は部屋にこもって原稿を書きますから、みなさん適当に出かけてください」と宣言し、驚き呆れる同僚を送り出して宿に残ったのだった。
私はこの時、誰もいなくなった北海道の静かな旅館で、最初の著書のどの部分を執筆していたかということさえよく覚えている。ちょっとした「缶詰になった作家」の気分であった。
こうして200字詰め原稿用紙600枚の処女作が完成した。タイトルは、当初は「日本経済の変動メカニズム」だったのだが、出版直前になって営業担当から「タイトルが堅すぎる」というクレームが付き、さんざん議論の挙句「日本経済 適応力の探求」となった。
この最初の記念すべき著書は、経済白書との関係が深い。この本のあとがきで、私は次のように書いている。「内国調査課での日本経済をめぐる延べ何百時間にもおよぶディスカッションは、多くの仮説とその検証の機会を与えてくれた。毎年発表される「経済白書」の陰には、表面に現れる何倍もの検討の過程がある。その中では、白書という性格のものにはなじまないが、世の中の人に紹介しておきたいと思うような議論がたくさんあった。そういったものをまとめておきたいということも、本書を書く一つの動機であった。」
そう、経済白書の中にいたからこそこの本は出来たのだ。ローマーの内生的成長理論は、所得水準の高い国がなおも成長し続けるのは(所得が収斂しきらないのは)、経済全体の豊富なストック(多分に知識)の存在が一種の外部性を持ち、経済にプラスに作用するからだとしている。つまり、これまでの良好なパフォーマンスが知的ストックとして蓄積するため、パフォーマンスの良い国が更にパフォーマンスが良くなる可能性があるというわけだ。内国調査課には、まさにこれまでの成長の成果が知的ストックとして蓄積されていた。私はその外部性を十分に生かすことによって、自分自身のパフォーマンスを高めることが出来たのである。また、この本は、私自身のエコノミストとしての飛躍のきっかけにもなり、それがひいては十数年後に内国調査課長への道を開くことにもなったのである。
本を書くことで開けたエコノミスト人生
この著書を通じて、私は「思い切ってやれば案外と道は開けるものだ」ということを学んだ。多くの人は「本を出す」ということを「とんでもなく大変なことだ」と考えているようだ。しかし、私の経験では、書き始める前に50~60の内容があれば、100の内容の本は書けると思う。「本を書く」というプレッシャーが作用すると、日頃から経済を見る目が違ってきて、書くだけの材料が自然にたまってくるからである。
1冊出してしまうと、後は簡単だった。私はその後、ほぼ2年に1冊というペースで次々に本を出していった。しばしば「これまでに何冊本を出したのですか」という質問を受けるのだが、私自身も10冊あたりまではしっかりカウントしていたのだが、20冊を超えてしまうと自分でも正確な冊数は分からなくなった。
私は本を書くことによって成長してきたようだ。本を書いていると必ず行き詰まる。これは苦しい。しかし、それを抜けると新しい世界が開ける。その世界は本を書くことによって得られた世界だ。本に書いて初めて、それまでのおぼろげな認識がしっかりした考えとなって私の中に根付くような気がした。本を書くことは、ほとんど私の趣味となり、強力な勉強のプロセスとして組み込まれ、私自身をPRする有力な手段となったのである。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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