新飯田宏先生のこと
2020/02/17
今日(2月15日)は土曜日。私は自宅の部屋でこの原稿を書いている。午後は、大崎にある早稲田塾に行って、高校生に経済の話をしに行く予定になっている。この話を依頼してきたのは、NPO法人経済知力フォーラムの理事長をしている堀岡治男さんだ。堀岡さんは、出版・編集を手掛ける企業を運営するかたわらで、中等・高校生への経済・金融教育に力を尽くしている方である。今回の話には、この堀岡さんが登場することになる。
経済白書の論評をめぐって
話は経済白書に戻る。私が経済白書に従事していた頃は、経済白書が発表されると、経済各誌が白書特集号を出すのが常であった。東洋経済、エコノミストは、白書の全文を掲載していたほどだ。これらの特集号では、第一線の経済学者が白書を読んでこれを論評するのだが、場合によっては執筆責任者である内国調査課長が赴いて経済学者と対談することも多かった。白書を執筆した時には、自分の分析がどう評価されるのかが当然気になり、こうした経済誌の特集記事は熱心に目を通したものである。
これに関連して、私が課長補佐の頃、こんなことがあった。私が最初に執筆担当となった78年の経済白書が出た後、当時横浜国立大学におられた新飯田宏先生が、経済セミナーに白書についてのコメントを書いた。その中で、先生は「白書では、輸入が増えることがGDPの減少要因だとしているが、単純にそう決めつけるのは間違いだ」と述べていた。これは私が執筆した部分である。
このコメントを見て、私はいたく気を悪くした。私は、輸入とGDPの関係については、それまでにも随分考えてきたことがあり、私も「GDP計算上、輸入は控除されるので、多くの人は『輸入が増えるとGDPが減る』と考えがちだが、それは間違いだ」と考えていたからである。つまり、私に言わせれば、先生が述べたような点は十分注意して書いたつもりだったので、「何を言ってるんだ」という気になったのである。
当時私はまだおよそ30歳。血気盛んだった。話はややわき道に逸れるが、その後15年くらいたってからのことだが、私は経済企画庁幹部の一員として、先輩OBを宴席で接待したことがある。その時、私はビールを注ぎながら先輩の間をめぐっていたのだが、あるOBの方が私を見て「おお、小峰君か。久しぶりだね。しかし君も随分人間が丸くなったね。君が課長補佐だった頃は、抜身の刀みたいで、近寄ると切られそうな気がしたものだが」と言ったのだ。なるほど、当時の私は自信満々で、誰かが何か私の考えと違うことを言ったら、すぐに説き伏せてやるぞという雰囲気だったのかもしれない。
さて、血気盛んな私は、経済セミナー編集部気付で新飯田先生宛に手紙を書き、真意を説明した上で、よせばいいのに、最後の部分で「白書を書いている我々は、この仕事に大変な情熱をかけて取り組んでいるのだから、読み違えて間違いを指摘するようなコメントを書いてもらっては困る」と書いたのだった。新飯田先生は当時理論経済学の大家である。その先生に向かって「以後気を付けろ」という手紙を書いたのだから、全く今考えると、冷や汗が出て、穴があったら入りたい気分である。
この時、経済セミナーの編集長をしていて、この私の手紙を新飯田先生に仲介してくれたのが、冒頭に登場した堀岡氏だったのだ。この手紙は、その後思いもかけない大展開をもたらすことになる。
新飯田先生との交流
私が、経済セミナー編集部経由で新飯田先生宛てに出した手紙は、二つのルートでその後の私の人生に影響を与えた。一つは新飯田先生を経由するルートであり、もう一つは、日本評論社を経由するルートである。
前者の方から説明しよう。私の抗議を受けた新飯田先生は、すぐに丁寧な返事をくれた。内容は、半分は謝罪であり、半分は自分のコメントの真意を説明するというものであった。そしてこれがきっかけとなって、私と新飯田先生は、年賀状や著書を交換する仲となった。
その後何年かして、私は公正取引委員会に調査課長として出向した。当時、公正取引委員会には経済学者を集めた「経済調査委員会」という研究会があり、京都大学の馬場正雄先生が委員長を務めており、新飯田先生もそのメンバーであった。この委員会は調査課が切り盛りすることになっていたので、就任するとすぐに私は京都に赴いて馬場先生と面談し、この研究会をどのように進めるべきか、ご意見を伺った。
この時、二人で議論しているうちに、私に「そうだ、産業組織についての白書のようなもの作ったらどうだろうか」というアイディアが浮かんだ。経済白書を担当してきた私がいかにも思いつきそうなことである。ところが不思議なことに、ちょうどその瞬間に馬場先生の方にも同じアイディアが浮かんだようで、先生の方から「産業組織についての白書のようなものを作るといいかもしれませんね」と言い出したので、私はかなり驚いた覚えがある。おそらく話の中の何かが、同時に二人に白書というアイディアを思いつかせる作用をしたのであろう。ちょっと不思議な体験だった。
こうして産業組織についての白書作りが始まった。ただしこれは政府が作成する正式の白書ではなく、有識者の集まりである研究会の報告書という位置づけである。ところがこの作業が完成する前に、馬場先生は突然亡くなられてしまった。そして、馬場先生の後を継いで研究会の委員長となり、この報告書を最終的にまとめたのが新飯田先生であった。私は、何度も横浜国立大学に通って、先生と相談しながら報告書をまとめた。前述のような事情で、二人は旧知の間柄だったので、仕事はスムースに気持ちよく進んだ。
私は新飯田先生と打ち合わせをするたびに、全く世の中の縁というものは不思議なものだと思ったものである。
白書の座談会に呼ばれる
次に後者の方を説明しよう。私が抗議の手紙を送った翌年の白書の時も、私は引き続き執筆者の一人であった。白書が出来上がる頃、堀岡さんが私を訪ねてきた。用件は、執筆者の一人として、経済セミナーの座談会に出てくれという依頼であった。こういう場合、座談会に出るのは、執筆責任者である内国調査課長であることが普通なのだが、堀岡さんは「昨年は、小峰さんに抗議されちゃったでしょう。今年はいっそ小峰さん自身に出席してもらい、白書へのコメントに反論したい時は、その場で発言してもらおうということになったのですよ」と言って笑った。
私は「それは課長の仕事です」などとは言わず、自分が白書の執筆責任者であるかのような大きな顔をして座談会に出席したのだった。そしてこの時から、私と「経済セミナー」「日本評論社」との付き合いが始まった。
その後、堀岡さんは、経済データについての解説を、経済セミナーに連載しませんかと誘ってくれた。景気を観測している現場の経験を踏まえて、経済統計の見方を解説してはどうかというアイディアであった。私はこれを引き受け、1年間にわたって連載を執筆した。この連載は、84年に「経済データの読み方」というタイトルで日本評論社から出版された。95年には、改訂第2版が出ている。
堀岡さんは、その後日本評論社を去り、Sさんが編集長を引き継いだ。私は引き続き、単発的に経済セミナーに論文を書いていたのだが、内国調査課長を勤めた後の95年に、Sさんが、日本経済全体をカバーするような連載を書いて欲しいと依頼してきた。経済白書の執筆などを通じて得た知識を元に、日本経済論を書いて欲しいというわけだ。私はこれも引き受けて、再び1年間の連載論文を書いた。そしてこれも、97年に「最新日本経済入門」という本となって日本評論社から出版された。
この本は、途中から首都大学東京の村田啓子先生を共著者に迎えて、何度も改訂が繰り返されており、来月(2020年3月)には第6版が出版されることになっている。Sさんは、出版部門に異動し、今回も編集者としてこの本を担当していただいている。たまたま現在手元に、来月刊行予定の第6版の2回目のゲラが届いている。このエッセイを書き終えたら早速校閲に取り掛かることにしよう。
若かった私は、義憤の赴くままに、偉い先生を恐れることなく、抗議の手紙を送った。人によっては「失礼なやつだ」と怒っても不思議ではない。しかし、新飯田先生や堀岡さんは、それをとがめることなく親しく付き合ってくれたばかりでなく、新たな成長の機会さえ与えてくれた。こうして、若かりし頃の私の一途な行動と、それを暖かく受け止めてくれた新飯田先生、堀岡氏の行動が、新しい交流と2冊の著書を生んだのだった。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
バックナンバー
- 2023/11/27
-
人口問題への取り組み(1) 「2000年の日本」の頃
第122回
- 2023/10/24
-
GDPと内需・外需(下) 内需主導の成長を考える
第121回
- 2023/09/22
-
GDPと内需・外需(上) 輸入が減るとGDPは増えるのか
第120回
- 2023/08/21
-
大学教員一年生
第119回
- 2023/07/24
-
1994年の経済白書(5) 白書ではこだわりのテーマをどう扱ったか
第118回