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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第79回)

夢のかたち

 

2020/03/18

 これまで内国調査課長として経済白書を書いた時の話を延々と繰り広げてきたが、そろそろネタも尽きてきたので、この時の話は今回で終わりにしようと思う。また何か思い出したら随時書いてみることにしよう。

内国調査課長への夢

 念願の内国調査課長になり、93年と94年の経済白書をまとめ上げた後、94年の夏はもっぱら各地を巡って経済白書の説明に駆けずり回っていた。そうしている中にあって私は、「間もなくこの仕事も終わるのだろうな」と覚悟していた。事実、9月の始めになると私は異動の内示を受けた。行先は国土庁の地方振興局審議官。局に1~2名いる審議官というのは課長と局長の中間のポストであり、ここから上がいわゆる「指定職」と呼ばれる職階となり、部屋と車が付く(現在は審議官には車は付かないようだが)。よって、多くの役人は、審議官以上になると、まずは喜ぶわけだが、私は何となく気が進まず、「自分にとっての一つの時代が終わったのだ」と寂しい感じの方が大きかった。

 それは、私にとっての大きな夢が通り過ぎてしまったからなのだろう。内国調査課長になりたい。内国調査課長になって経済白書を書きたい。どうせ書くなら歴史に残る名白書を残したい。それは私の夢であった。

 夢には二つのかたちがある、と私は思う。Aタイプの夢は、少年が「将来宇宙飛行士になりたい」と答えるような夢である。これは、本人にとっても、周辺の人にとってもほとんど意味のない、いわば「人畜無害」の夢である。このタイプの夢は、ほとんど実現することはないが、それが分かる頃には、本人も、それがいかに非現実的な夢であるかを知るようになっているから、残念だとも何とも思わない。

 Bタイプの夢は、宇宙飛行士としての訓練を受けた後、月に向かう最初の飛行船の乗員として選ばれたいと願うような類の夢である。これは単なる憧れではない。強く望み、かつそれが実現する一歩手前まで行っている。しかし実現しない確率もまた高い。このBタイプの夢は、「人畜無害」ではない。それが実現したときは喜びも大きいが、実現しなかったときの失意もまた大きい。ライバルが目に見えてくるので、競争があり、時に妬みが生まれる。

 「経済白書を書きたい」というのは、私が経済企画庁に入った時からの夢であった。企画庁に入った多くの人も同じ思いであったろう。これはAタイプに近い夢である。時がたつに連れて、ある人にとっては、この夢はAタイプのままでとどまり続け、いつしか夢としての意識もなくなっていく。しかし、ある人にとっては、これがBタイプに移行していく。

 私の場合も、当初は完全なAタイプであった。最初には配属された内国調査課では、当時課長補佐だった香西さんに分析を散々に批判され、すっかり自信を無くしてしまったことは本連載で既に述べたことがある(「香西さんと経済白書」2018年6月)。私の夢がAタイプにとどまっていたのは理の当然である。内国調査課長になるのは極めて狭き門だからだ。役所は役人になった時の年次が支配する世界であり、特定のポストには、それにふさわしい年次がある。したがって、特定の年次の人間が特定のポストに着くチャンスは1回だけである。しかも課長は2年勤めるのが原則だから、特定の課長ポストに当たるのは、約2年に一人ということになる。

 それでも企画庁の中で様々な仕事をこなし、7~8年たってくると、「経済白書を担当できるかもしれない」と結構本気で考えるようになった。内国調査課長になりたいという夢がBタイプに移行していったのである。

 こうなると、折に触れて、「自分は、企画庁という組織の中で、内国調査課長になるような人間として評価されているだろうか」が気になってくる。かと言って周りの人にそんなことを聞いて回るわけには行かない。そこで私は、二つのアプローチの手法でこの問題を考えることにした。一つは、クロスセクション法であり、もう一つは、タイムシリーズ法である。

 クロスセクション法というのは、「自分の近くの年代に、内国調査課長になりそうな人がいるか」を見るという方法である。同期または前後の年代に、強力なエコノミストが存在すると、私に経済白書執筆のチャンスがめぐってくる確率は低くなる。この点を詳しく説明していくとやや差し障りがあるので、ここではその具体的内容については述べない。

 タイムシリーズ法は「自分の経歴と、かつて内国調査課長になった人の経歴を比べる」という方法である。かつての内国調査課長が歩んだ道を自分もたどっていれば、自分が内国調査課長にたどり着く可能性も高いというわけだ。ちなみに、組織に属している人間は誰でも、人事に強い関心を持つ。これは、人事には、普段手にすることの出来ない貴重な情報が含まれているからである。まず、自分の人事を見ていれば、「組織が自分をどう評価しているか」が分かる。同じように、他人がどう評価されているかも分かる。さらに、人物とポストの関係を見ていれば、「人事を決める人たちが、どんな資質を考慮しながら人事を行っているのか」を知ることもできる。それは、将来の自分のキャリア・パスを予想する有力な判断材料ともなるのである。

 ではどんなポストが将来の内国調査課長につながるのか。これを判定するために、ここで二種類の確率を考える。一つは「内国調査課長になった人がそのポストを経験している」確率である。便宜上、これを「バックワード的確率」と呼ぼう。もう一つは「そのポストについた人が内国調査課長になる」確率である。便宜上これを「フォワード的確率」と呼ぼう(全くの私の造語です)。

 私は当時実際にこの二種類の確率を計算してみたのだが、こういう部分を詳しく述べて行くと、何となく「マニアックな変人」というイメージを持たれる可能性があるので、ここでは簡単な説明にとどめることにする。私の分析からは、三つの重要なポストが浮かび上がった。

 「A内国調査課の課長補佐」「B日本経済研究センターの主任研究員」「C海外調査課長」の三つである。当時の分析からは、AとBはバックワード的確率がかなり高く、フォワード的確率もそれなりに高い。Cはいずれの確率もやや劣るという結果になった。

 私は、この三つのポストのうち二つ(内国調査課課長補佐と日本経済研究センター主任研究員)を経験することになる。こうなってくると私が本気で、内国調査課長になった時のことを考えるようになるのも無理はないだろう。

 こうして大きな夢であっただけに、93年1月に内国調査課長になった時の喜びは大きく、その後の様子は本連載で縷々述べてきたとおりである。今やその夢のステージが去ろうとしているのだ。

最後の日々

 94年の夏が過ぎようとしている頃、間もなく内国調査課長を辞することが明らかになると、香西さん(当時、日本経済研究センター理事長)が、私を夕食に招いてくれた。審議官でこれも異動になるMさんとセンターの事務局長も一緒だった。

 夕食会が終わると、香西さんが車で私を自宅付近まで送ってくれた。当時私は、麻布の公務員宿舎に住んでおり、高速で調布に帰る香西さんが寄り道してくれたのである。

 車が走り出すと、香西さんは「小峰さん。これから何をするんですか」と聞いてきた。香西さんは、私が内国調査課長を夢見ていたことを知っている。その夢がかなえられた今、今度は何をするのかね、という質問である。当時私がしきりに考えていた問題だ。私は、答えは見つかっていなかったので「そうですね。今、考えているところです」と答えた。

 香西さんは「もう私にはお手伝いできませんが」と言った。私は「あの時のことだな」と思った。かつて次のようなことがあったからだ。

 私は、1987~89年に日本経済研究センターの主任研究員を務めた。間もなくその任期が終わろうとしていたある時、理事長の香西さんに呼ばれた。香西さんは、思いもかけない人生のオプションを私に提示したのである。香西さんは「良かったらこのままセンターに残る気はありませんか」と言った。「待遇面でも役人に劣らないものを準備します」とまで言ってくれた。企画庁に戻らずに、退職して、このまま日経センターで働かないかというのである。

 これは私にとってもったいないような申し出であった。仕事の場としては、センターはとても恵まれていた。役所にいると避けられない、人事、予算、国会といった面倒は皆無で、好きな経済分析をやっていれば、役所よりも高い給料を貰える。つまり、天国のようなところなのだった。そこに好きなだけ居続けて良いというのだ。これは、全く魅力的な申し出であった。それに、何と言っても、香西さんが私をそこまで評価してくれたということが、私には非常に名誉なことだと思われた。

 その代わり、内国調査課長になるという夢は捨てなければならない。それは私にとって、余りにも大きな代償であった。残念ながら、これは断るしかないと思った。私は、こうしたことを瞬時に考え、「まことにありがたいお申し出ですが、私には企画庁でまだやりたい仕事がありますので」と答えた。香西さんも「そうですか」と言って、すぐに納得した。私の言ったことが「経済白書を書きたいので、センターには残れない」という意味だと分かったに違いない。

 私は、この時の返事そのものを後悔した事はないのだが、後から考えると、瞬時に返事をしてしまったことは後悔している。香西さんも、人を一人受け入れようとしたわけだから、随分考えたに違いない。その真剣な提案を受けたからには、少なくともその場では「しばらく考えさせて下さい」と答え、少なくとも一晩間を置いてからていねいにお断りすべきだった。この点は、「香西さんに失礼なことをしてしまった」と強く悔やまれる。

 しかし、この時瞬時に返事をしたのは、私が迷わなかったからではない。白書を書くという夢を捨てるという代償が、私にとって余りにも大きかったため、費用便益計算が瞬時に済んでしまったということなのである。経済白書を書きたいという夢を持っていなかったら、私は確実に悩み、本当に数日考え、その結果、役人を辞めていたかもしれない。

 車の中で香西さんが「もうお手伝いできませんよ」と言ったのは、「あの時は君にエコノミストとしてのオプションを提示したが、君はそれを断った。もう自分の手元には君に提示できるようなオプションはないのですよ」という意味だと私は解釈した。私は「はい。十分承知しています」とだけ答えた。

 有栖川公園の入り口で私は車を降り、香西さんを乗せた車が仙台坂方面に走り去っていくのを見送った。私は、ドイツ大使館の裏を我が家に向かって歩き始めた。歩きながら、もう一度考えた。私は経済白書を書きたいという大きな夢を持っていたが、その夢はかなえられてしまった。これまでの20数年間は夢に向かっていく人生だったが、これからは夢から覚めた後の人生を歩むのだ。もちろん次の夢を見出せればいいのだが、経済白書のような大きな夢は簡単には見つからないだろう。これからは、中程度の夢を追うことになるのか、それとも夢そのものがなくなり、自然体で生きることになるのだろうか。

 「これからは、自分のエコノミストとしての実力が問われるのだろうな」とも思った。これまでは、世間の人は私の「内国調査課長」という肩書を尊重し、私を厚遇してくれた。これからはポストが持つ力に頼ることはできない。肩書がなくなっても同じように評価されるエコノミストでありたいとは思うが、やはり世間の注目度は大きく低下するはずだ。その時現われるのが自分の本当の評価値なのだと覚悟しようと思った。

 あれこれ考えているうちに、行く手に我が家の灯が見えてきた。「今夜は風呂にでも入ってゆっくり休息することにしよう。明日からのことはまた、明日吹く風の中で考えることにしよう」と思った。

 1994年の夏が終わろうとしており、有栖川公園を吹き抜けてくる風には秋の気配が漂い始めていた。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。