私が見た省庁再編
2020/08/17
前回は、官庁エコノミストについて書いた。経済企画庁が内閣府に統合されて以来、かつてのような官庁エコノミストの再生産はストップしてしまったという内容だった。では、経済企画庁はどのようにして再編されていったのか。その頃のことを思い出してみよう。
橋本総理のこと
省庁再編の議論が出てきたのは96年1月に成立した橋本龍太郎内閣の時である。橋本氏には何度か直接お目にかかったことがある。
私は、83年12月に成立した第2次中曽根内閣で経済企画庁長官を務めた河本敏夫氏の秘書官だったのだが、この時、国会内で偶然出会った橋本氏が、「河本大臣。私は今これを読んでいるのですよ。なかなか面白いですよ」と話しかけていたのを覚えている。何と本の名前まで思い出した。江藤淳の「海は甦える」という本だ。橋本氏が政界有数の読書家であることは私も知っていたので「ほお、こういう本を読んでいるのか」と思ったものだ。
総理時代には、企画庁のN次官と一緒に官邸に赴いて総理説明に同席したこともある。本来は総理説明ともなれば、担当局長が同行するのだが、局長が出張中で不在だったため、局内No2の私(当時は審議官)が同行したのだ。官邸で総理に説明するチャンスを得る人は少ないだろうから、思い出す限りのことを書いておこう(ただし、昔の官邸)。官邸に入り、総理がいるフロアに行くと、入り口の待合スペースでしばし時間が来るまで待つ。時間が来ると総理の執務室に呼び入れられるわけだが、この時は、待っていたら突然橋本総理が執務室から顔を出して「やあN次官、お待たせしました。どうぞお入りください」と声をかけてきたので、次官以下全員が飛び上がって驚いた。この時は、規制改革と財政再建の話をしたのだが、橋本総理は、終始上機嫌で「全くその通りですね」「良くこれだけのものをまとめてくれましたね」などと言いながら話を聞き、我々の説明を100%理解してくれた。「周りの人に気を使って、しかも頭の良い人だな」というのが私の印象だった。部屋を出ると、官邸詰めの記者が何人か寄ってきて、「総理に何を説明されたのですか」と聞いてくる。適当に当たり障りのない範囲で受け答えをするのだが、このやり取りは恐らく他社の記者とも共有され、翌日の「総理の動向」の参考とされるのだろう。
省庁再編の議論と根回し
橋本総理は、数々の内閣、党の要職を経験してきただけに、日本の行政の仕組みについて改革すべきだと考えていたことが山ほどあったのだろう。このため就任直後から、総理直属の「行政改革会議」を設置し、省庁再編の議論を開始した。
この行政改革の議論が本格化すると、各省庁は組織防衛のために動きだした。私が所属していた経済企画庁については、そのままの形では存続できそうにないことが次第に明らかになってきた。すると取り得るオプションは二つしかない。一つは、総理府などと合体して内閣府に所属し、その中の経済担当部門として生き残ることであり、もう一つは、当時の通商産業省と一緒になって、巨大経済官庁の一部門となることだ。当時の通産省は、産業、企業、貿易などを担当する「ミクロの官庁」というイメージが強かった。このイメージを払しょくして「マクロ」分野も所管したいというのが通産省の悲願だったようだ。そのためには、省庁再編の機会に経済企画庁を吸収してしまうのが最も手っ取り早いと考えるのは自然なことだ。
企画庁の中でもいろいろ議論はあったが、結局、総理府との合体を指向するという方針に決した。通産省の企画庁併合作戦に反対することになったわけだ。結局この併合は実現しなかったのだが、省庁再編の中で通商産業省は経済産業省となり、「経済」という名称を名乗れることになった。これによって「ミクロではなく経済全体を(マクロも含めて)所管する省だ」という気分は高まったはずだから、通産省の狙いの半分は実を結んだと言えるだろう。
歴史に「イフ」はないのだが、私はもしこの時通産省と一緒になる道を選んでいたらどうなっただろうかと考えることがある。企画庁を併合しなくても、特にアベノミクス下においては経済産業省の積極的な活動が目立っている。企画庁を併合していたら、その活動はさらにパワーアップしていただろう。しかし、経済運営という点では、経済産業省はどうしても産業・企業寄りになるので、内閣府の経済部門が中立的なバランスを取るという現在の形がやはり望ましかったのではないかと思う。
さて、企画庁としての方針が決まると、やることは一つだ。「通産省に併合されることには問題が多い。総理府と一緒になって官邸機能を充実させるのが望ましい」という理屈で各方面を説得して回るのだ。こうして多方面にわたる根回しが開始された。これには幹部が総動員され、根回し対象者の割り振りが行われた。私はこの時には、前述の審議官から経済研究所長に転じていた。本来であれば研究所長が、組織再編の議論に参加して根回しを行うことなどありえない。民間企業で言えば、研究開発部門の責任者が営業活動をするようなものだからだ。しかし、この時はとにかく「全組織動員体制」で臨んだので、私にもお鉢が回ってきたのだった。とにかく関係しそうな有力者にはしらみつぶしで説明に赴く。説明内容や資料は統一しておき、聞かれそうな質問への答えを想定問答の形で共有しておく。説明から帰ると主なやり取りをメモにして提出する。作戦本部はこうした状況をにらみながら、さらに説明者を加えたり、足りない資料を補ったりする。
私には何人かの国会議員が割り振られた。次々にアポイントを取っては主に議員会館に説明に行くのだが、相手の対応ぶりは様々である。中には気持ち良く説明できた人と、不愉快な思いをさせられた人がいる。こういう記憶は消えないもので、いくつかの場面は今でも覚えている。
気持ち良く説明できた人の代表は、武村正義氏だ。武村氏は、新党さきがけの代表として、村山富市内閣の時に大蔵大臣を努めるなど活躍したが、この頃は、さきがけの党首の座も降りて、一代議士として活動していた。武村氏の担当になった私は、節目ごとに議員会館の部屋を訪れて、企画庁の立場を説明した。武村氏は「なるほど。あなたの言う通りだね」と言って、私の説明を丁寧に聞いてくれた。
嫌な思いをした代表は、X代議士だ。こちらは現時点で現役で、しかもかなり有力な地位にある人なので、個人名は控えておいた方がいいだろう。X氏は、私がアポイントを取って説明に行くと、いきなり「企画庁は、これまで何の説明にも来ないでおいて、こういう問題になると突然押しかけてくるのは虫が良すぎる。私に話を聞いて欲しければ、普段からもっと挨拶に来い」と怒りはじめた。私が説明しても「私は企画庁の機能を残す必要があるなんて考えていないからね」と取り付く島もない。こちらが怒るわけにはいかないから、適当なところで引き上げてきたが、私のX氏に対する印象は最悪だった。
その後X氏と接する機会はないままに20年以上が過ぎたが、この時の悪印象は拭いがたく残っている。今まで忘れずにいたのだから、恐らく一生忘れないだろうと思う。X氏が私の選挙区だったら、票を入れることはないだろうし、もしX氏が総理になって、世論調査のアンケートが回ってきたら私は「不支持」と答えるだろう。この文章を読んでいる人の中には、しかるべき地位の人もいるかもしれないから、この際忠告しておこう。自分に対して反論できないような弱い立場の人と接する時は、たとえ意見が異なっても、たとえ自分が不機嫌であっても、できるだけ穏やかに対応しましょう。こういう時の悪い印象というものは結構しぶとく残り続けるものなのです。
消えた局と課の名前
さて根回しの結果はどうなったか。企画庁は総理府などと合体して内閣府を構成することとなり現在に至っている。企画庁が担ってきた経済関係の行政分野はほぼそのまま内閣府に移行した。ところが企画庁時代と大きく変化した点がある。それは局や課の名前が消えてしまったことだ。
再編前の企画庁には、経済関係の主役級の局として「調査局」「調整局」「総合計画局」という三つの局があった。分かりやすい説明としては、「過去に起きたことを分析するのが調査局」「現時点でどんな政策的対応をすべきかを考えるのが調整局」「将来を展望して長期的な政策を打ち出すのが総合計画局」というものがあった。これは確かに分かりやすい。私がこの連載でたびたび取り上げてきた経済白書を担当する「内国調査課(正確には内国調査第一課)」は調査局の中に属していた。
現在は、「政策統括官」組織となっている。例えば、かつての調整局は、「政策統括官(経済財政運営担当)」となり、かつての調査局は「政策統括官(経済財政分析担当)」となった。それぞれの統括官の下に、かつての「課」に代わって「参事官」が配置され、私が憧れた「内国調査課」も「内国調査課長」もなくなってしまった。個人的な感慨を述べさせてもらえば、言いようもなく悲しいが、常識的な目で見ても「統括官」「参事官」と言われても、すぐにはどんな仕事をしているのか分からないから不便だろう。
この「局や課を排して、統括官、参事官にする」という組織案は、省庁再編の具体的な姿が決定される最終段階で突然企画庁に示された。全くそんな話を聞いていなかった企画庁サイドは大いに驚き、一応反対はしてみたものの、もはや最終決定であると言われ、そのまま受け入れざるを得なかった。ではなぜ局、課の名前が消えたのか。
我々に示された公式の理由は、「内閣府においては、新しい政策課題が次々に現われるのだから、特定の所管を固定的な任務とはしないで、おおよその所管だけを決めておいて弾力的に対応できるようにしておいた方が良い」というものだった。一応なるほどという理由ではあるが、私はこれには隠された理由があると考えていた。
政府全体の省庁再編本部は、出来上がりの姿ができるだけ「政府をスリム化しました」と言えるようなものにしたかった。そのためには、「それまで〇〇(数字が入る)あった局の数を△△(数字が入る)にまで減らしました」と言いたい(課についても同じ)。この時、局だったものを統括官に置き換えれば、減らした局の数を水増しすることができる。
つまりこの案は、実体は余り変えずに、「弾力的な組織形態にしました」という説明にも「局と課の数を減らしました」という説明にも役立つものになっているわけだ。私はもちろん、この改革案は実質的な意味がないから反対だったのだが、つくづく「頭のいい人がいるものだ」と感心したものだ。
省庁再編を振り返って思うこと
こうして企画庁の再編は進んで行った。今、当時を振り返って改めて思うのは次の二つである。
一つは、時期が適切だったかという問題である。以上述べてきたような省庁再編の結論が出たのは97年末のことである。当時はまさにアジア通貨危機、日本の金融危機が起きて、日本経済が大混乱に陥っていた時である。私の著書「平成の経済」(日本経済新聞出版社、2019年)では、この時の議論について「この時期にこの問題に大きな政策的資源を割りあてたことは果たして適当だったかという思いを禁じ得ない」と書いている(96ページ)。政府内には多くの優れた頭脳が集まっている。その頭脳が、この大切な時期に自らの組織防衛のために総動員されてしまったのだ。私自身がその総動員に参加していたのだから偉そうなことは言えないが、当時私は「どうせ知恵を絞るのであれば、もっと社会的に有用なことに知恵を絞りたいものだ」と思ったものだ。
もう一つは、省庁再編の成果は結局どうだったのかという問題だ。この点についても「平成の経済」では、「小選挙区制の導入、省庁の再編、郵政民営化など、その改革が立案されている時には、国民的な議論が展開されるが、それが実現してしまうと、あっという間に誰も議論しなくなり、‥改革から一定期間が経過した後、事後的に想定通りの成果が表れているかについての検証作業が行われることはほとんどない」と書いている(307ページ)。省庁再編で省の数は確かに減った、ではそれによってどんな国民的な利益が得られたのか。私自身は、その利益はほとんどなかったか、または逆に不利益の方が大きかったのではないかとさえ考えている。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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