大臣秘書官という仕事
2020/09/17
9月16日、新たに菅内閣が発足した。官房長官が閣僚名簿を発表し、皇居での認証式、初閣議を経て、テレビでは深夜になってから次々に閣僚が記者会見に臨む。おなじみの風景である。
今回は、経済企画庁時代の経済計画について書く予定で、既にほとんど原稿も出来上がっていたのだが、新内閣の発足の模様を見ていたら、私の大臣秘書官時代の思い出が蘇ってきたので、急きょ予定を変更して、秘書官時代の話をしてみたい。
大臣秘書官への道
役人経験者には常識的なことだが、読者の中にはそうでない人の方が多いだろうから、秘書官という仕事について説明しておこう。
大臣には二人の秘書官が付く。政務秘書官と事務秘書官である。政務秘書官は大臣が連れてくる。文字通り、選挙区対応、陳情の対応、党務など政治的な案件は政務秘書官が対応する。
事務秘書官は役所が任命する。常に大臣に張り付いて、役所との連絡調整に当たる。諸行事への出席、事務説明の日程管理、国会答弁の連絡などを担当する。大臣から直接質問される場合も多く、そのたびに「担当部署に聞いてみます」では話にならないから、ある程度の役所の所管事項全般についての実務経験者でなければならない。大体どの役所も課長補佐経験者で、課長の一歩手前くらい、役所に入ってから15年程度の経験者を充てることが多い。
私が秘書官に就任したのは、1983年12月第2次中曽根内閣で河本敏夫氏が経済企画庁長官となった時である。役所に入って14年目のことである。この時私は総合計画局の総括課長補佐だった。内閣の改造が近くなると、役所側では、次の秘書官を誰にするかを大体決めておく。私の場合も、かなり前に上司から「どうも次の秘書官には君を充てるつもりのようだから、そのつもりでいるように」と内々知らされていた。
ただし事前に完全に秘書官が決まっているわけではない。大臣が留任した場合は、それまでの秘書官も留任するのが普通だ。さらに、返り咲きで再度大臣として赴任するという場合もあり、その場合も前回秘書官を務めた人間が再度秘書官になるという場合もある。経済企画庁ではそこまでは考えていなかったが、役所によっては、大臣の出身地に縁のある秘書官候補を複数準備しておくという話を聞いたこともある(真偽のほどは不明)。
いよいよ組閣が近くなると、事前の勉強が必要になる。これについては歴代の秘書官が後輩への申し送り事項をメモにしておくという慣例があった。私は、これまでの秘書官が書き残したメモを読んで、緊張を新たにした。中でも何代か前のT秘書官が書き残したメモは、秘書官の仕事の内容、心構え、手順などが詳細に記されており、秘書官の手引きとしての決定版とも言えるものだった。ここであまりにも決定版ができてしまったので、その後の秘書官は、あまり書くことがなくなってしまい「詳しくはT秘書官が残したメモを見よ」というメモを残した秘書官もいたほどだ。
組閣の日が近づくと早くも緊張してくる。朝大臣を迎えに行く前に、主要紙に目を通しておいて、何か関係する記事があるかどうかをチェックしておく必要があるということなので、我が家では、主要紙を全部購読することにした(自費)。家人にも、秘書官の仕事は激務なので、早朝から深夜まで仕事漬けになる旨を伝えておいた。
緊張の組閣当日
ついに組閣の日がやってきた。経済企画庁長官は河本氏。返り咲きではあるが、秘書官には私が就任することになった。役所では大臣就任直後の記者会見のための発言要旨と、いくつかの想定問答を準備してあり、これを私が説明する必要があるのだが、幸い河本氏は企画庁長官経験者なので、詳しい説明は不要とされた。
閣僚名簿が発表され、皇居での認証式、初閣議と行事が進んで行く。この間、官房長、秘書課長と私は官邸内で待機する。初閣議の後、各閣僚は順番に記者会見に臨む。深夜にNHKで中継されるあの記者会見である。各閣僚は自分の順番が来るまで待機するのだが、この間に事務方と大臣が初めて面会し、秘書官が大臣に紹介される。
官邸での記者会見が終わると、企画庁に初登庁する。企画庁では幹部が全員大臣を迎えるために待機している。幹部との顔合わせが終わると、今度は企画庁の記者クラブでの会見がある。これが終わるともう深夜だ。ようやく緊張の一日から解放される。大臣は自宅に帰るが、これには政務の秘書官が付いて行くので、私は行かないで良い。秘書官には車が付くので、役人になって初めての公用車で自宅に帰る。
さて、突然最新時点の話になるのだが、9月16日の組閣当日深夜の官邸での記者会見で、河野太郎行政改革担当相は、「どんな分野の行革に手を付けますか」という質問に対して、「例えば、この記者会見も各省に閣僚が散ってやれば、今ごろみんな終わって寝ている。延々とここで(記者会見を)やるっていうのは前例主義、既得権、権威主義の最たるものだ。こんなものさっさとやめたらいいと思う」と述べた。
これは全くその通りだ。就任直後の大臣の所見を聞きたいのであれば、各省で開かれる会見で聞けばよいのだ。そもそも就任直後の会見というものは、役所の振り付け通りの当たり障りのない発言が多く、それほど重要な発言が出てくるはずがない。前述のように、この官邸での会見があるため、仕事が終わるのは深夜になるし、多くの役人が居残ることになるしで、全くいいことはない。私も「こんなものは止めた方がいい」と思う。
秘書官の失敗と工夫
さて、いざ秘書官業務が始まってみると、最初はいくらマニュアルで予習しておいても失敗がある。
就任後最初の通常閣議のことだ。閣議は9時半から官邸で開かれるので、大臣邸に迎えに行って、官邸に閣議5分前くらいに到着する。閣議が始まると、秘書官連中は入ってすぐ左の控室で待機している。閣議が終わると、警護官(SP)が、パンパンと手をたたいて知らせてくれる。この音を聞いたら、秘書官は玄関口にぞろぞろと出て行き、大臣が出てくるのを待って車に同乗して役所に戻るということになる。最初の閣議の時、控室で待っていると、パンパンが聞えたので、あわてて外に出た。ところが、大臣が次々に現われるが、河本大臣がなかなか出てこない。「どうしたのだろう」と不安になっていると、河本大臣についている警護官が現われて「小峰秘書官、こっちです。急いで」と叫んでいる。あわてて飛んで行ってみると、河本大臣は既に車に乗り込んでいた。要するに、河本大臣があまりにも早く退出したので、私が玄関口に出た時はすでに遅かったということなのだ。こんな時、大臣によっては、怒って、秘書官を置き去りにして自分だけSPと一緒に役所に帰ってしまうこともあるようだ。
やがて分かったことは、河本大臣はとにかく無駄なことが嫌いな合理主義者だということだった。だから、いつも閣議が終わるや否や真っ先に退出するのだった。ある時などは、たまたま閣議室を出るのが2番になってしまったようで、「今日は〇大臣に先を越されてしまった」と残念そうにしていたほどである。
食事でも失敗したことがある。大臣と行動を共にしていると、国会内などで食堂に行って食事を共にすることがある。ある時、大臣が注文したものが先に来てしまい、私の注文が遅れたことがある。当然、食べ終わるのも私が後ということになり、やや気まずい思いをした。私は、ではどうしたらいいかと考え「大臣と同じものを注文すればいい」ということに気が付き、その後は私だけ取り残されるということはなくなった。
こうした失敗はあったものの慣れというものは恐ろしいもので、日がたつにつれて、「これは案外楽なものだ」という感じが出てきた。私が張り付く河本大臣は三光汽船のオーナーで、要するにお金持ちだ。三田のマンションのワンフロアを買い切って使っている。当時私は麻布の公務員宿舎に住んでいたので、河本大臣の自宅までは15分程度で着いてしまう。朝は大臣邸に秘書官が迎えに行くのだが、近いから極端な早起きは必要ないこととなった。
また河本氏は派閥の長だから、政務のサポート体制も充実していたので、役所の仕事が終わった後や週末などについては、政務秘書官が付いてくれた。秘書官仲間の話を聞くと、政務体制が充実していない大臣の場合は、事務の秘書官を宴席や選挙区に同行させたりしているようだったから、私の場合は恵まれていたのだ。恵まれているどころか、逆に秘書官になったら帰りが早くなり、暇になったので、なんと英会話教室に通い始めたりしたのだった。
「を」と「も」の違い
「どうなることか」と冷や汗をかいたが、危機一髪何とか切り抜けたということもある。
ある時、某経済誌が大臣へのインタビューを申し入れてきた。大臣に聞いてみると「受けても良い」というので、日時を設定した。A記者がカメラマンを連れてやってきた。私が立ち会って見ていると、A記者はまず「大臣、愛犬の〇〇は相変わらずですか」と思いがけない話題を振ってきた。大臣はにこにこして「おう、相変わらずだよ」と応じる。その瞬間を待ってカメラマンがバシバシ写真を撮る。なるほど、大臣にやわらかい顔で写真に納まってもらうために、愛犬の話題を持ち出したのだった。
インタビューは無事済んだのだが、その後問題が起きた。しばらくして確認のためインタビューの内容が送られてきたのだが、それを見て私は青くなった。インタビューの見出しが「景気刺激のため補正を」となっていたのだ。河本大臣は名だたる積極財政論者であり、景気が悪い時は財政出動をためらうべきではないという考えを持っていたから、インタビューでも、場合によっては補正予算を組んで財政出動も必要だと話したことは間違いない。しかし問題は、その時まだ国会が開かれていて、当初予算が審議中だったことだ。
役人であればすぐに分かるが、当初予算の審議中に、閣僚が「補正が必要だ」と発言したら、野党から「ではなぜ当初予算にそれを盛り込まなかったのだ」「補正が必要ということは、審議中の当初予算はベストのものではないことを認めるのか」と言われてしまう。これが原因で予算審議がストップしたりしたら大変だ。私はこのゲラ刷りを持って大臣室に飛び込んで相談した上で、見出しの見直しを求めることにした。
電話に出たA記者は、インタビューに来た時とはガラリと態度を変えて、かなり高飛車に「これは編集権に属する問題だから修正には応じられない」「そもそも河本大臣が本当に修正を求めているのか疑わしい。あなたが勝手に心配して言っているだけではないのか」と、やや信じがたいことまで言い始めた。
私はもう一度大臣室に飛び込んで実情を話した。場合によっては大臣に電話で直接話してもらおうと思ったのだ。大臣は私の話を聞いて「そうか。何か知恵を出せ」と私に言った。知恵を出せと命令されたので、私の頭はスーパーコンピュータのようにフル回転し、ある案を思いついた。それは見出しの「補正を」を「補正も」に変えてもらうという案だ。この場合「を」と「も」の違いは大きい。「を」だと「補正をせよ」と主張していることになるが、「も」であれば、「必要になったら補正も考えるべきだ」という意味になるからあまり大きな問題にはならないはずだ。大臣も「うん。それで行こう。それで話してみろ」ということになった。A記者はなおも渋っていたが、私も「大臣の判断を仰いでいる。信じられないというのであれば大臣を電話に出す」といって頑張り、結局「を」を「も」に直すことになったのだった。
秘書官時代の思い出はまだたくさん出てきそうだが、紙数が尽きてきたので、今回はこの程度にしておこう。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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