続・大臣秘書官という仕事
2020/10/16
前回、大臣秘書官の経験談を書いたのだが、書き終わった後になって、さらに色々なことを思い出した。折角の機会なので、忘れないうちに続編として書きとめておくことにした。
河本敏夫大臣のこと
私が秘書官として仕えることになった河本敏夫氏はなかなかに立派な人物だった。秘書官として接する中で私が特に印象的だったのは、河本氏の基本的な政治姿勢である。
ある時、大臣の地元(兵庫県)の支持者が大挙して大臣室を訪れてきた。人数が多すぎて大臣室に入りきらないので、すぐ近くの大きな会議室に収容し、大臣が面会した。政治マターなので、普通は事務の秘書官は立ち会わないのだが、この時は、役所内の会議室だったので、私も入り込んで傍聴してみた。
支持者たちとの歓談が一段落した時、その中の一人がふと「河本大臣はどうして政治家を志したのですか」と質問した。すると大臣は、斎藤隆夫という代議士の話をされ、「自分もこういう人間になりたいと思ったのが政治を志すことになった一つの理由でした」と述懐したのだった。
当時私もそれほど詳しくは知らなかったのだが、斎藤隆夫という代議士は、反軍演説で有名になった人である。1940年、戦火が拡大する中で、演説に立った斎藤代議士は、帝国議会で「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲をなおざりにし、共存共栄、世界の平和などという雲をつかむような文字を並べ立てて、国家百年の大計を誤ることになっていないか」と演説した。この演説によって斎藤は議会から議員除名処分を受けるのである。河本大臣は、この斎藤隆夫を代議士の理想としていたのだ。
この時の、斎藤隆夫代議士についての河本大臣の話は、聞いている人の胸を打った。いつもそばにいる政務秘書官のT氏でさえ「今日の大臣の話は良かった」と言ったほどだ。河本大臣は当時、「河本派」の領袖だったのだが、この派はかつて三木武夫氏が率いていた「三木派」を引き継いだものである。三木氏もまた自民党内にあって最も平和主義的、反権威主義的な立場を貫いた人だった。河本氏はその三木派に所属していたのだから、筋金入りの平和主義者なのだった。
この時私は、単に河本氏の平和主義的な姿勢に感銘を受けただけではなく、別の意味で「そうだ。やっぱりそうだったのだ」という感じがあった。うまく説明できるかどうか自信がないのだが、それは次のような感慨だった。
私は、当時(今でもそうだが)、テレビドラマや映画などで、戦時中の日本を描く時、主人公は戦争に反対していた人である場合が多く、周りの大多数の人達も、「本当は戦争はやらない方がいいと思っているのだが、軍部が怖くて仕方なく流れに任せざるを得なかったのだ」という姿勢の人ばかりで、たまに出てくる戦争支持者はちょっと普通じゃない人というのが気に入らなかった。「そんな甘いものではなかったのではないか」と思っていたのだ。斎藤隆夫代議士の反軍演説は、議会で否定され、斎藤代議士は除名という極めて重い処分を課されている。このことは、国民の大部分も、マスコミも、各界の論者も、斎藤代議士の除名処分を当然のことと考えていたのではないか。一部の限られた人だけが戦争を支持していたのではない。国民の大多数が支持していたのだ。だからこそ戦争は恐ろしいのだと私は考えていたのだが、河本大臣の話は、大勢に流されずに自分の信じていることを発言するにはよほどの覚悟が必要なのだ、ということを改めて確認することになったのだった。
こうした考え方は、現在に至るまで、私の中に脈々と流れ続けている。例えば、今回、読売・吉野作造賞を受けた「平成の経済」にもその影響がある。この本の中で私が主張したことの一つに「社会的認識ラグ」というものがある。平成時代に我々は多くの未経験の課題に直面してきた。しかし、多くの人々はその課題の本当の姿を理解できない。バブルの恐ろしさは、バブルが崩壊し、金融機関が破綻してようやく人々の意識に上るようになった。それぞれの時点での経済政策は、その社会的認識によってサポートされる。社会的認識が大きなタイムラグを持てば、政策の実施も遅れがちとなり、極端な場合には逆効果となる。これを防ぐためには、できるだけオーソドックスな経済学を踏まえた経済論議を積み重ねていくことが必要なのだが、社会全体の認識に反するような議論を展開するのは相当の覚悟がいる。これはまさに斎藤代議士が直面したことだったように思われるのだ。
海外出張のこと
私自身の仕事のことに移ろう。前回、「秘書官の仕事は慣れると案外楽だった」と書いた。この点をもう少し考えてみると次のようなことになりそうだ。
まず、「楽だ」というよりも、「仕事のタイプが違う」ということなのかもしれない。それまでの私は、経済調査、総合調整、企画立案などの仕事が多かったのだが、いずれも「ああでもない」「こうでもない」と考え続けなければならない仕事だ。しかも、考えればいくらでも考えられるので、明確なゴールがない。考え抜いて結論が出るというよりも、もうタイムアップなので、考えるのを打ち切ってまとめなければならないということが多い。要するに常に悩んでいるという感じになる。ただし、考えることは結構楽しいし、独創的なアイディアを思いついたりすると嬉しいので、こうした仕事は私は余り嫌いではない。
これに対して秘書官の仕事は、自分で考える必要はあまりない。大臣の所掌分野は多いが、必ず組織的に責任部局があるから、秘書官が中身を考える必要はない。むしろ、秘書官が自分で考え出したりすると、各担当部局にとっては迷惑である。一日の仕事が終わるとそれで終わりで、引き続き考え悩むということはない。そう意味で楽だったのである。
意外なことに、海外出張の時はさらに楽になる。私の秘書官時代の海外出張は一度だけで、パリで毎年開催されるOECD閣僚会議への出席がそれであった。まず、往復の飛行機が楽である。大臣は当然ファーストクラスに乗るのだが、大臣を一人にするわけにはいかないので、事務の秘書官と警護官もファーストクラスだ。しかも、大臣には更にコーチ(簡単なベッド)が付いているので、食事が終わると大臣は好きな本を持ってコーチで横になり、寝てしまうから、私はファーストクラスでのんびりできたのだった。他の随行者の多くは後ろの方のエコノミー席である。私が用事を思いついて、エコノミー席で担当者を探していると、「小峰さーん。ファーストクラスのスチュワーデスさん(当時はそう呼んでいた)はやっぱり美人なんですかあ」などと、現在であれば問題発言になりかねないことを聞いてくる輩がいたりした。
パリについてからも楽であった。基本的には全て現地で対応すべく手配済みだからだ。例えば、車でパリ市内を移動する時に、私は大臣車に同乗しないで良い。通常、大臣車には警護官と秘書官が同乗するのだが、パリでは秘書官に代わって現地に駐在している事務官が乗り込む。駐在者でないと言葉も地理も分からないからだ。いわば、パリ限定の秘書官がいるようなものだ。この時、現地秘書官の役割を勤めたのが、その後日本経済研究センターの理事長にもなる八代尚宏氏だった。八代氏は、大臣車での案内係はもとより、大臣が好きな散歩にも同行し、大臣が呼ばれたパーティーにも夜遅くまで随行してくれた。八代氏はかなり苦労したようだったが、私はその分、楽ができたのである。
予算委員会のこと
楽ばかりしていたと思われても困るから、最後に、苦労したことも書いておこう。最も苦労したのは、予算委員会である。
読者の方々は、テレビで国会の委員会審議の場面をしばしば見ているだろう。あれは大体が予算委員会であることが多い。中でも総括質疑の時には、全大臣の出席が強制されるので、河本大臣も長時間出席しなければならない。当然私も同行する。テレビを見ると、大臣席の後ろの壁際にずらりと座っている役人がいるが、あれが秘書官である。
大臣が何か用を思いつくと、後ろの秘書官の方を振り向く。これを見た秘書官は脱兎のように駆けつけて用件を聞かなければならない。河本大臣の場合はほとんどなかったが、大臣が答弁で行き詰まったり、間違ったことを言ったりすると、飛んで行ってメモを渡したり、口頭で注意を喚起しなければならない。要するに、予算委員会の間は、油断なく大臣に注目していなければならないのだ。
すると誰でも思いつくのが「秘書官がトイレに行きたくなったらどうするのだ」という問題だ。私もこの点は心配していたのだが、困ったことがあると工夫するのが人間というものである。解決方法は簡単で、隣の秘書官に「ちょっとトイレに行くから、うちの大臣を見ててください」と頼むのである。万一、私の留守中に大臣が秘書官席の方を振り向いたら、この隣の秘書官が飛んで行って「今、小峰秘書官はトイレですので、何かお伝えすることがあれば私が伺っておきますが」と対応するのである。逆に、隣の秘書官がトイレに行くときには、私が同じ役割を果たすのである。
さて、全閣僚が出席して審議が行われると、その時に展開されている議論とは無関係の大臣が長時間、やることもなく座っていることになる。これは大変な資源の無駄なのだが、当の大臣にとっての問題は「退屈だ」ということである。河本大臣は、活字中毒と言っていいほど読むのが好きな人なので、「自分に質問が来ていない時に何か読むものを用意しておくように」というのが大臣の注文であった。これは簡単なようで難しい注文だ。企画庁内の各部署で「この機会に大臣に目を通しておいてほしい」という文書があれば最高なのだが、そんなにうまくは行かないことが多い。いろいろ探し回って、調査レポートや雑誌論文をコピーして手元に多めに準備しておいたものだ。
しかし、工夫というものは恐ろしいもので、やがて名案を考え付いた。それは新聞をコピーするという方法だ。大臣は新聞を読むのが好きなのだが、予算委員会の席上で新聞を広げるわけにはいかない。そんなことをしたら間違いなく野党から抗議の声が上がるだろうし、委員長に注意されるだろう。ところが面白いことに、新聞をコピーしたものは、大臣席で読んでいても問題にならないのである。コピーしたものは、新聞ではなく書類だとみなされるからだろう。そこで私が着目したのが夕刊だ。朝刊は既に大臣が目を通しているが夕刊はまだだ。昼過ぎには大臣室に当日の夕刊が届けられる。そこで、私は大臣室のスタッフに頼んで、大臣が読みそうな記事をコピーして届けてもらうことにしたのだ。これで読み物については大分助かったものだ。
かなり困ったのは、大臣の居眠りだ。河本大臣は大ベテランだから、予算委員会といえども、テレビの中継中であろうと、居眠りをすることがある。すると直ちに秘書官は飛んで行って大臣を起こさなければならないのだ。これはかなり勇気がいる。この時、河本大臣は副総理として入閣していたから、席は総理の隣である。総理以下全大臣が並んでいるところに出ていって、総理の前を横切って河本大臣のところに行く。テレビもあるから、あからさまに「起こしに来ました」という態度は取れないので、とにかく何でもいいから紙を手にして、大臣を突っついて紙を見せながら「大臣あと30分で終わりますから」といったどうでもいいことを、さも大事な用件のように伝えなければならない。大臣も「起こしに来たな」ということはすぐに分かるので「よし分かった」とうなずくのである。
こんな仕事を通じて、私は困ったと思っても、工夫すれば何とか乗り切れるものだということを改めて知った。困っている時は苦しいが、苦しいということは、どこか事態を改善する余地もまた大きいのであり、工夫してその改善の余地を見つけ出すことも結構面白いものだということを知ったのだった。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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