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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第87回)

かつて経済計画という仕組みがあった(中)

 

2020/12/18

 前回は、私が経済企画庁の総合計画局で課長補佐として勤務した時の経験を元に、経済計画が出来るまでのプロセスを説明した。これはいわば「建前編」だったのだが、今回はその「実践編」である。

 前回書いたように、私は、経済審議会、経済計画を所管する総合計画局の計画課総括課長補佐という仕事を経験している。このポストは局全体の仕事の総元締めであり、大変重要なポストである。私は、調査局内国調査課の次席補佐からこのポストに転じたのだが、私に内示を出した課長は「小峰君。これはゴールデンポストだからね。しっかりやりたまえ」と激励してくれた。

 確かにこのポストを勤めた2年間は、私の役人人生でも多くの思い出がぎっしり詰まった期間となった。ただし思い出の内容は前半の1年と後半の1年で全く異なる。前半の1年は、「2000年の日本」という長期展望作業に携わり、「こんなに自分の考えを通してしまっていいのか?」と自問するほど、自分の力を思う存分発揮できた(この長期展望作業については、本連載第51回「ペンは強し-経済白書ができるまで(2)」で触れているので、関心のある方はそちらをご覧ください)。これに対して後半は心労の多い苦難の1年となった。

経済計画で掲げられていた数値

 具体的な話に入る前に、経済計画に盛り込まれる数値について説明しておこう。それまでの経済計画では、経済の鍵を握る分野についての数量的な展望を明らかにしてきた。それを私なりに分類すると、次の3つのカテゴリーに分かれる。

 第1のカテゴリーは、経済運営の基本となるような経済パフォーマンスの目標数値である。経済成長率、失業率、物価上昇率などだ。「経済をできるだけ成長させ」「働きたい人に働く場を与え」「物価を安定させる」、これは経済政策の基本であり、経済計画にその数値目標を掲げるのは当然のことだ。

 なお、後で述べる政府内での調整の話と関係するのだが、経済成長率については、誰もが注目しているだけに、常に議論がヒートアップする。それは次のようなことだ。経済官庁の双璧は通産省(現、経済産業省)と、大蔵省(現、財務省)だが、伝統的に通産省は高めの、大蔵省は低めの成長率を主張するのが常であった。通産省は、民間の活力を鼓舞する意味からも、政府が高めの成長率を掲げるべきだとする。

 これに対して、大蔵省が低目の成長率を主張する理由は多分二つある。一つは、高めの成長を掲げると、税収の想定も高めになり、財政の見通しが甘くになることだ。想定通り経済が成長しないと、甘めの想定は財政赤字の拡大につながる。もう一つは、高めの成長を掲げると、それが政策目標となって、それを実現するよう経済対策を求められることだ。この点は、新計画策定時に、特に大蔵省との間で大いに揉めることになる。

 第2のカテゴリーは、いわば政府の公約に相当する部分だ。財政について言えば、赤字公債依存からの脱却の時期や公共投資の分野別の内訳がそれに当たる。こうしたことは政府自らの行動に関係することであり、単なる展望ではなく、「こうします」という意思を伴っている。だから「公約」に近いのだ。

 この公共投資の分野別配分についてもう少し解説しておこう。戦後、政府の公共投資については、その地域的な投資の姿が全国総合開発計画で、分野別(道路、公園、港湾など)の姿が経済計画で示されるのが通例であった。この分野別の公共投資は計画期間中における金額が明示されるだけに、関係各省、地方自治体、関連業界にとって大変重要な意味を持っていた。これが公共投資の上位計画となり、その後に分野別の個別の長期計画が作られていくという設計になっていたからだ。

 例えば、これから説明する新計画の前の計画(以下、旧計画)である「新経済社会7カ年計画」では、計画期間である1978~85年度の間に、総額190兆円(78年度価格)の公共投資を実施することが決まっており、これに基づいて、各省が治山、治水、公園、住宅、下水道などの11種類の社会資本整備計画を策定していた。新しい経済計画が策定されると、これらの長期計画も見直されることになる。関係者が注目するのは当然のことだ。

 したがって計画の策定作業が開始されると、各方面から要望が寄せられることになる。いわゆる「陳情」である。「○○事業者団体連合会」のような業界団体が多い。私が局長に用事があって、局長室の外で待機していると、局長への陳情を終えた団体関係者が、「やれやれ」という感じでぞろぞろと出てきて、「真剣に聞いてもらえて良かった」「この分ならうまくいくのではないか」などと話しているのを聞いたりしたものだ。

 ここでやや脱線して、せっかくの議論に水を差すような話をすると、私自身は、こうした長期計画は、「重要ではあるが、関係者が考えているほど重要ではない」と考えていた。まず、日本の財政はあくまでも単年度主義だから、公共投資の予算配分も、毎年の予算編成において決定される。その意味では、長期計画で額が明示されていても、そのための予算が実際につくかどうかは保証の限りではないのだ。現に、後述するように、現実には、新経済社会7カ年計画で示された公共投資は、計画を下回る規模でしか実行されてこなかったことからもそれが分かる。意味があるとすれば、象徴的な意味であろう。全体の中で、住宅関係の配分が増えれば、その後の予算折衝の中でも強気の要求ができるだろう。

 もう一つ、気が付きにくいのが物価の上昇だ。計画を作る時に示される金額は、基準年次に基づく実質価額である。しかし、実際に割り当てられる予算は名目である。すると、時間が経つにつれて実質と名目がかい離して行く。当時は、消費者物価上昇率が4%以上ということも珍しくなかったから、なおさらである。ところが信じがたいことに、多くの人はこの点をきちんと把握しないで、実質価額で決められた計画を名目値で評価し、「計画は想定通り達成されつつある」などと議論しているケースが多かった。私は「全く、何といい加減な議論をしているんだろう」と眺めていたのだが、これも世の中を丸く収めるための日本的工夫だったのかもしれない。

 なお、80年代末に行われた日米構造協議の際にも同じことが繰り返されている。この時は、アメリカ側の内需拡大要求に応えて、1990年に「公共投資基本計画」を策定し、91~2000年度に総額430兆円の公共投資を行うことを決めている。これを見てアメリカ側は大いに喜んだようだが、前述の意味で、実はそれほど画期的なことだったわけではないと私は考えていた。この話は、私の「平成の経済」という本にも出てくるので(23ページ)、興味のある人はそちらを見て欲しい。

 元に戻って、計画で示される数値の第3のカテゴリーは、経済の姿を示す参考値的なものだ。これには、将来の産業構造、労働力構造などがある。政府がコントロールできるわけではないが、誰もが将来の経済構造を知りたいと思っているので、参考までに掲げておこうという意味だ。

旧計画が行き詰まっていた理由

 当時の経済計画をめぐる状況について、さらに説明しておこう。当時我々は、「近い将来、新計画の策定が求められるだろう」と考え、そのための準備を進めていた。なぜそう考えていたのか。それは、それまでの旧計画がいくつかの点で行き詰っていたことが明らかだったからだ。

 その第1は、成長率の想定だ。旧計画は、計画期間中の平均で、実質5.7%程度の成長を見込んでいたのだが、策定後の実績は2~3%台となっていたから、理論的には、今後5%を大幅に上回る高い成長を続けないと、計画の目標は実現できないという状況であった。要するに旧計画が掲げた成長率は非現実的なものとなっていたのである。

 第2に、190兆円という公共投資についても、財源難からずっと少ない規模での投資が続いていた。このため、旧計画が掲げた規模の投資を真面目に実現しようとすれば、今後毎年非現実的に高い伸び率で投資を増やさなければならないという状況だった。要するに、計画の大きな柱であるはずの、公共投資の配分計画も非現実的なものとなっていたのである。

 第3は、財政再建目標の破綻である。当時の財政再建目標は、赤字国債の発行ゼロである。鈴木内閣の下では、「1984年度に赤字国債の発行をゼロにする」という目標を掲げていた。しかし、当時(82年頃)の段階で、既に、この目標達成は難しいことが明らかになっていた。こうした状況下で、我々事務局は、いつでも新計画の策定に取り掛かれるよう、準備万端を整えていたのである。

計画づくりのスタートと大蔵省の大抵抗

 新計画の策定が決まったのは、1982年の4月である。総理は鈴木善幸氏、経済企画庁長官は河本敏夫氏だった。なお、この連載で、私が河本敏夫氏が経済企画庁長官だった時に秘書官を務めたという記述があるが、これは、河本氏が2回目の長官を務めた時のことであり、この時(1回目)は、別の人物(私の4年先輩)が秘書官だった。

 この時、83年度をスタートとして87年度までの新5カ年計画を策定することが決まった。これを受けて、同年7月に、鈴木総理が経済審議会に新5カ年経済計画づくりを諮問し、いよいよ計画の議論がスタートした。

 経済審議会では、総合部会の下に「国際経済」「国民生活」「産業」「地域・居住環境」「公共・金融」の5分科会を設け、各方面から200人以上の有識者、専門家を集めて作業が進められた。ほとんど毎日のように何かの会合が開かれ、事務局は、資料の準備、議論の取りまとめへの方向付けなどで多忙を極めた。もちろん大変ではあったが、事務局は「これが総合計画局の本務だ」という意識が強く、私自身も全然苦にならなかった。こうした経済計画の作業に従事できるのは数年に一度なのだから、むしろ「ちょうど在任中に計画づくりに携われるのはラッキーだ」と喜ぶ気持ちの方が強かった。

 我々のスケジュールとしては、同年の12月には概案(中間報告)をまとめ、翌83年4月には答申を出し、83年度からそれを実行という段取りを考えていた。内容的には、責任閣僚である河本長官は、積極的な経済運営論者で知られていたから、成長率は高めに、公共投資は多めのものとなり、高い成長に支えられて、計画期間中に増税なしの(または軽めの負担増での)財政再建が可能というものになるのではないかと勝手に考えていた。

 もちろんそんな簡単にはいかない。まず直面したのは、大蔵省との調整が難航に難航を重ねたことだった。我々から見ると、「大蔵省の大抵抗」だが、大蔵省の側から見ると「経済企画庁の大抵抗」ということになる。

 私の役人生活の印象では、とにかく大蔵省はがっちり構えてくるという感じだった。もともとがっちりしているうえに、役人同士の議論というものは、上層部のどこまでがこだわっているかによって交渉担当者の姿勢がまるで違う。課長クラスがこだわっているならあまり大したことはないが、局長がこだわっている場合は、課長は絶対に妥協しないし、次官がこだわっていたら局長も妥協できない。

 この時は、大蔵省は前述の計画に掲げる数値の中で、成長率と公共投資の配分に特にこだわりを見せた。これは、間違いなく次官が主導し、議論を重ねた上で、相当の覚悟を持って臨んできていたように見受けられた。経済企画庁の方も、局長のT氏は硬骨漢で、経済計画事務局としての立場を貫こうとして一歩も譲らなかったから、調整は大いに難航したのだった。

 企画庁の側が案を出すと、大蔵省からコメントが返ってくる。これに対して、私が、回答書の素案を書いて、局長室でそれでいいかを議論する。これを繰り返すのだが、これが果てしなく続くうちに、面白いことに、がっちり構えているはずの大蔵省サイドが平静心を失い、結構感情的な文書を送りつけてくるようになった。企画庁サイドが頑として譲らないので頭に来つつあったようだ。これに対して、私が準備した返事は、あくまでも平常心を失わずに、淡々と理を説くものだった。この両者の差は、局長室での議論で話題になるほどだったから、かなり対照的だったようだ。おそらく大蔵省の中でも話題になっていたのではないか。

 こうして作業を進めている我々は、やがて予想外の大激震に見舞われることになるのだが、誰もまだそんなことは夢にも考えていなかったのだ。(続く)



※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。