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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第88回)

かつて経済計画という仕組みがあった(下)

 

2021/01/18

 鈴木善幸首相、河本敏夫経済企画庁長官のもとで経済計画づくりを進めていた我々は、大きな波乱に直面することになった。

波乱の総理説明

 波乱の始まりは、10月に突然、鈴木総理が辞任したことである。これは全く突然のことで、誰もが驚いた。我々が審議会の部会を開いている時に、「総理辞任」というメモが回ってきて、会議の場が騒然としたことを覚えている。

 これを受けて自民党総裁選挙が行われた。立候補したのは、中曽根康弘、河本敏夫、安倍晋太郎、中川一郎の4氏である。中曽根氏は最大派閥である田中派の支持を受けて、最有力候補として立候補したものであり、河本氏は鈴木内閣で副総理格として入閣していたことから、鈴木総理の後継のような立場で立候補したものである。予備選では中曽根、河本、安倍、中川の順番となり、上位3名が本選に進んだ。しかしここでほぼ勝負はついていたことから、河本、安倍両氏が辞退し、中曽根氏が総理・総裁となった。新内閣が発足し、経済計画を担当してきた河本氏は閣外に去った。これが後に計画づくりに激震を与えることになるのだが、我々はまだ誰もそれに気が付いていない。

 我々は既定方針通り計画作りを進めていった。前回も書いたように、82年の12月には概案(中間報告)をまとめ、翌83年4月には答申を出し、83年度からそれを実行というのが我々の当初のスケジュールだった。一応スケジュール通り中間報告は出来た。焦点の成長率については合意できない状態だったので、実質で「3%程度から4%程度」という幅を持たせたものにした。

 83年の1月初め、河本経済企画庁長官の後任の塩崎長官が、計画局長らを従えて、この中間報告案を説明するために官邸に赴いた。我々事務方は、企画庁で局長の帰りを待っていたのだが、説明に行った局長一行がなかなか帰ってこない。しばらくして、局長一行は官邸を出た後、役所には戻らず、そのまま日本経済新聞社に向かい、経済審議会会長であった円城寺次郎氏のところに行ったという。なお、円城寺氏は日本経済新聞社の社長、会長を務め、当時は同社の顧問であった。余談だが円城寺氏は、当日本経済研究センターの初代理事長でもある。

 官邸から直接審議会会長のところに行った?誰もが、これはただ事ではないと感じたが、何があったかは全然分からない。やがて局長らが帰ってきて、ようやく真相が分かった。中曽根総理は、企画庁が準備した中間報告を受け入れず、経済計画作りの抜本的なやり直しを指示したのである。

 この時の具体的なやり取りは永遠の謎だが、私はこの時の説明に同行したある幹部からその様子の一部を聞いたことがある。それによると、この総理説明ではかなりヒートアップした議論があったようだ。この幹部は「小峰君、私は長い間役人をやっているが、今回は『なるほど一国の方針というものはこうして決まっていくのか』という現場に居合わせた気分だよ」と私に述懐したものだ。総理が企画庁の案をひっくり返そうとしたのに対して、計画局長はかなり抵抗したようだ。しかし、いくら抵抗しても、総理の意向には従わざる得ないのは当然である。

計画の作り直し

 では、当初の計画はどこを修正しろと言われたのか。以下主なポイントを説明するが、いずれも当時の我々にとっては驚愕の修正であった。

 第1は、計画期間の延長である。我々の案は、というか政府が諮問したのは、1983~87年度の5年間の計画であったが、総理はこれを8年にするよう求めた。その真意は分からないが、私は、5年では財政再建(赤字国債発行ゼロ)は難しいと考えたのではないかと想像している。

 第2は、「経済計画」という名前を変えることである。「計画」ではなく「展望と指針」にするよう求められた。これも理由ははっきりしないが、どうも総理は「計画」という言葉が嫌いだったようだ。総理の指示は、計画という硬直的なものではなく、もっと柔軟なものにということだったようだ。

 実はこの点は、私も従来から悩んでいた問題だった。当時しばしば、「日本は自由な市場経済の国であって、計画経済国ではないのだから、経済計画はもはや必要ではない」というやや乱暴な議論が散見されたからである。もちろんこれは誤解である。日本の経済計画は、「計画」という名前はついているが、それは自由な経済活動を踏まえて、政府としての方針を示したもので、計画経済国における計画とは全く異なるものなのだが、これを一々説明するのはかなり面倒であった。

 第3に、総理は計画の作り方にも不満があったようだ。どうも局長は総理に「今まで相談もしないでおいて、こんなものがまとまってから説明に来るとはどういうことだ」と叱責されたようだ。要するに「私は聞いてないぞ」ということだ。

 この点については確かに「まずかった」と私も大いに反省した。数年に一度策定される経済計画は、内閣の看板である。それは総理の長期的な政策運営方針の表明でもあるのだから、新内閣が発足した直後に、新総理に計画策定作業の進捗状況を報告し、必要な指示を仰いでおくべきだったのだ。

 これは私の想像だが、当初の計画を担当していたのが中曽根氏のライバルの河本氏だったことも影響していたかもしれない。河本氏とは直前に総裁選で争ったわけだから、その河本氏が作った計画案をそのまま認めるのは面白くないと思っても不思議ではない。

 総理の指示を受けて、計画作りは再出発した。数日後に経済審議会が開かれ、総理も出席して新たな方針が示され、了承された。計画期間は、1983~90年度の8年間とされ、名称も「80年代経済社会の展望と指針」とされた。その後、計画局長は折に触れて頻繁に官邸を訪れ、総理の意向を確かめながら策定作業が進められていった。

消えた数字

 計画作業を進める中で依然として調整がつかなかったのは、どこまで数値的な展望を示すかということだった。前回説明したように、大蔵省は財政運営が縛られることを嫌って、数値的な展望は、成長率、失業率、物価上昇率などの根幹となる数値だけに限るべきだと主張していた。GDPの内訳、公共投資の部門別の投資金額などは削るように求めてきた。GDPの内訳を示せば、当然、公的固定資本形成(公共投資)や政府最終消費支出も明らかにする必要があり、それは閣議決定されるから、以後の財政の展望はこれを踏まえなければならないことになる。公共投資の部門別金額を示せば、それを元に各省は予算の確保を求めてくるだろう。それを避けるためには余計な数字はない方が良いということだったのであろう。

 しかし、数値的な展望は計画の命だ。数字で示すから将来展望は具体的なものとなり、民間部門はそれを参照しながら自らの行動を選択できる。公共投資の分野別配分も、これまで伝統的に示されてきたもので、長期的な政府の社会資本整備の方向を示すという重要な役割がある。

 この「数字をどこまで入れるか」はなかなか決着がつかなかったのだが、最後は総理の裁断もあり、大蔵省の主張が通って決着した。大蔵省の財政運営の自由度を確保しておきたいという動機と、総理の計画嫌いの心情がフィットしてしまったようだ。大蔵省は総理秘書官を出していたから、何かと総理との情報のやり取りが多かったのに対して、企画庁は官邸とのパイプが細かったことも影響したかもしれない。

 決着した後、大蔵省の担当者は私に、「GDPの内訳や公共投資の配分が消えても、計画には労働市場、産業構造の見通しなどいくらでも数値展望があるからいいじゃないですか」と言ってご機嫌であった。

 しかしこれは計画局の人間にとって屈辱的な幕切れであった。そして、この時、一種の下からの反乱が起きた。計画局の若手職員たちが私のところにやってきて、何と「計画にとって最も重要な数値が消えてなお、産業構造などの数値を出すのは潔しとしない。重要指標を削るのであれば、いっそ他の指標も全部削ってしまってはどうか」と提案してきたのだ。これは一種の「開き直り」であり、計画の重要部分を守れなかった計画局の指揮層(私も含む)への抗議の意味が含まれていたのかもしれない。

 局の取りまとめ役としての私は、本来であれば「せっかく一部の数値的展望が生き残ったのだから、それを生かそうじゃないか」と説得すべきだったであろう。しかし、私自身も「一部の付属的な数値だけ示すのは、かえって最重要の数値が欠けていることを目立たせることになるからみっともない」と秘かに考えていたので、この若手の案に賛同することにした。

 私は、「基幹数値以外の数値全面削除」という過激な案を持って、局の幹部を巡って説得して回った。幹部の人々は、この案に驚いたのだが、私の説明を聞いて、意外とすんなり同意してくれた。こうして数値展望が極端に少ない経済計画が誕生したのだった。

 新計画は8月に経済審議会から答申された。これを報じた日本経済新聞は、次のように書いている。「今後の経済運営の基本方向を示す「1980年代経済社会の展望と指針」が9日、円城寺次郎経済審議会会長から中曽根首相に手渡された。新計画の最大の特徴は政策目標となる諸数値を最小限に絞った点。流動的時代にそなえたといううたい文句だが実はこの柔軟性、中曽根首相や大蔵省など各者各様の思惑を調整した産物なのである。その結果、最重要課題である財政改革の進め方は不透明さを残したままとなり、国民は将来に対する明確な展望を欠いた『展望と指針』を受けとることになった。(一部省略)」(日本経済新聞、1983年8月10日)

 この記事の通りだ。内閣の方針だったとはいえ、数値を最小限に抑える計画となったことは、経済計画の本来の役割を大きく損なうものとなった。私はその後、今日に至るまで、「この数値の削減を主導したのは私だった」という自省の念から逃れられないでいる。

 先輩の香西泰さんは、調査局内国調査課で総括補佐として経済白書を取りまとめた時、「円レートに関係するような議論はすべて削除する」という方針を受け、先頭に立って、白書から「円」という言葉を消していった。その後、白書発表直後に円が切り上げられたことから「経済白書には円レートについての記述が全くない」という大批判を浴びることになる。後に、香西さんはこの時のことを振り返って、「白書を貶めたのは自分だったのかもしれない」と述べ、香西さんを知る多くの人は「そこまで言わないでも」と思ったものだ。(詳しくは本連載「タブー死すべし ニクソン・ショック(下)~悲劇の経済白書」2013年11月20日を参照)

 香西さんが「白書を貶めてしまったのは自分だ」と言うのであれば、私もまた「経済計画を貶めてしまったのは自分だ」と言わなければならないのかもしれない。



※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。