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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第93回)

東京五輪について考える(下) 1964年の東京五輪を振り返る

 

2021/06/17

 6月9日に国会で党首討論があった。何気なく見ていたら、菅首相が1964年の東京五輪に触れ、「あれは私が高校生の時でした。女子バレー東洋の魔女の回転レシーブが、‥(略)‥こういう感動を今の若い人々にも体験して欲しいと考えている」という趣旨のことを発言していた。そうだ、私も64年東京五輪の時は高校生だったと、改めてその頃を思い出した。東洋の魔女が活躍したあたりまでは、首相の思い出に共感を持つのだが、その後の「若い人にも同じ感動を与えたいから2020年東京大会だ」という点については、私は違った思いを抱いている。

実際に見た64年東京五輪

 1964年10月に東京五輪が開催された時、私は高校3年生だった。大学受験を控えていたが、五輪の魅力には抗しがたく、テレビにくぎ付けになったのだが、生で五輪を実見する機会が2度あった。

 1度目は、開会式だ。開会式のチケットは応募者からの抽選で当選した人に販売された。私の家は5人家族だったので、全員の名前で5通応募の葉書を出したところ、そのうちの1通が運良く当選した。確か、20人に一人くらいの倍率だったと思う。

 では誰が行くかということになったわけだが、私が「行きたい。行きたい」と強く希望した結果、私が行くことになった。開会式の前日は強い雨が降っており、どうなることかと心配していたが、開会式当日はからりとした日本晴れで、青空が広がった。心地よい風も吹いていた。仮に雨の場合は、代々木の室内体育館で行われる予定だったというから、天候次第では、開会式は見られなかったことになる。この点を改めて考えてみると、これまで何度も五輪の開会式を見てきたが、当日が雨だったということは皆無なのではないか。面白い現象である。

 開会式は、選手の入場行進(この時使われた曲が、NHKの朝のドラマ「エール」で取り上げられた古関裕而作曲の「オリンピック・マーチ」)→五輪旗の入場→聖火ランナーの到着と点火→昭和天皇の開会宣言(順番は多少異なるかもしれない)と滞りなく進められた。空を見上げると、5機の自衛隊機(ブルーインパルス)が大空に五輪を描いていた。

 こうした出来事を実際に見たわけだが、意外なことに生の感覚をあまり思い出せない。その後、映像や映画で同じシーンを何度も見たので、どれが自分が実際に見た映像なのか、どれがニュースの映像なのかが分からなくなってしまったようだ。結局、生で見た割には、あまりよく覚えていないということになってしまっている。

 2度目は、国立競技場での陸上競技の最終日だ。これは高校の団体で見に行った。こちらの方が良く覚えている。忘れられないのはマラソンだ。国立競技場をランナーたちがスタートする。マラソンが進行中は、フィールドは空いているので、各種の決勝種目が行われた。その中の一つが男子400メートルリレーだった。アメリカが優勝したのだが、最終ランナーのヘイズ(100mの優勝者)の速かったこと速かったこと。

 マラソンについては、誰かがラジオを聴いていたので、アベベがトップで日本の円谷が2位を走っているということは分かっていた。エチオピアのアベベ・ビキラ選手が競技場に現われゴールインした。アベベは東京大会の前のローマ大会ですい星のように現れたランナーで、なんと裸足でローマを駆け抜けたのだ。東京ではさすがに靴を履いていた。

 続いて2位の円谷が入ってきた。当然大歓声である。しかし、その大歓声はすぐに異様などよめきに変わった。円谷の数メートル後にイギリスのヒートリー選手がついていたからだ。トラックでの最後の1周で、ヒートリーのスピードが上がり、円谷を抜いた。競技場には悲鳴が上がった。「円谷がんばれ」という声援が出るが、もう円谷には抜き返す力はなかった。

 私は時々考える。仮に、競技場に入ってくる時に、最初からヒートリー、円谷の順番で入ってくれば、円谷のゴールには「銅メダルだ。よくやった」と大きな拍手が寄せられただろう。しかし、競技場に入ってから抜かれたため、多くの観衆は「銀メダルだったのに、銅メダルになってしまった。惜しいことをした」という気持ちになってしまった。これは円谷にとって大きな不幸だった。それが後述する悲劇につながった可能性もある。

 こうして私が実見したアベベ、円谷という二人のランナーは、東京五輪後不幸に見舞われることになる。アベベは、1969年自動車事故に会い、下半身不随となり、1973年10月41歳の若さでその生涯を閉じた。アベベは、下半身不随となってからも、不屈の精神で身障者のスポーツ大会に出場したりした。もっと生きていれば、アベベはパラリンピックの場で再度活躍したかもしれない。

 円谷もまた大きな悲劇に見舞われる。多くの人は4年後のメキシコ五輪での活躍に期待し、本人も「メキシコで打倒アベベ」という意気込みを明らかにしていた。しかし、怪我もあって調子は全く上がらず、メキシコ五輪が開催された1968年、自らの命を絶ってしまう。この時円谷が残した遺書は、多くの人の心を揺さぶるものだった。私も大きなショックを受けた。「父上様母上様 三日とろろ美味しゅうございました」で始まり、以下「〇〇様、〇〇美味しゅうございました」が延々と続く。そして、身内の子供たちの名前を上げて、「立派な人になってください」と呼びかける。最後に「父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」「幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」という悲痛な言葉で終わっている。涙なしには読めない。関心のある方は、検索すれば簡単に全文が入手できるので、奇跡のようなこの遺書を読んでみてほしい。

東京五輪の大義を考える

 2013年、2020年五輪の東京開催が決まった。日本中大はしゃぎだったのだが、私はかなり違った感じを抱いていた。これには、64年東京五輪の経験が関係している。

 64年東京五輪を振り返ってみると、これには大きな意義があった。当時日本は高度成長の真っただ中で、経済は発展していたのだが、まだ先進国の一員として世界に認知されるまでには至っていなかった。多くの国民は、世界的なスポーツの祭典であるオリンピックをつつがなく運営することにより、日本という国を世界に認めてもらいたいと考えていた。オリンピックを機に東京を訪れた世界の人々が、整然とした大会運営を称賛したりすると、誰もが喜んだものだ。

 つまり、64年東京五輪は、新興国である日本が世界にデビューする晴れ舞台となったのだ。これが64年大会の大義だったのだと私は考えている。

 2020年大会の東京開催が決まった時、私は「2020年大会の大義は何だ」と考えた。2011年に東日本大震災が起きた直後だったので、一応「大震災から復興した姿を世界に示す」という意義がしきりに言われた。しかし私にはこれは、「取って付けたもの」という感じを強く受けた。復興を見せるのであれば、東北で開催すべきだろうし、そもそも、震災からの復興は十分進んだとは言えないのではないか。

 その後、五輪がコロナで延期されると、今度は「世界がコロナを克服した証として」という意義が言われるようになった。しかし私は、これはさらに「取って付けた」感が強いと感じる。そもそもコロナは五輪の直前になっても克服されていないではないか。大義なき五輪だ。これが私の結論である。

 こうして大義なき五輪を誘致したことは、逆に、他の国の大義を発揮する場を奪ったことになる。64年東京五輪で日本が国際社会にデビューしたように、68年にメキシコシティ、88年に韓国ソウル、2008年に中国北京で開催された五輪は、日本と同じように、新興国の国際的お披露目の場となった。2020年大会でいえば、東京に招致競争で敗れたトルコのイスタンブールがそれに相当するだろう。

 そうではなく、2020年東京五輪には、隠れた大義があったのかもしれない。それは経済を刺激するという大儀だ。前回述べたように、2020年東京大会が決まると、「経済刺激効果は〇兆円」「2020年は五輪景気で、そのあと不況入り」といった議論が盛んに行われたことがそれを物語る。私は経済が専門だから、こうした議論には一応付き合ってきたのだが、内心では「五輪といえば経済効果を考えるのは、エコノミックアニマルそのものだ」と考えていた。私の知る限り、64年東京五輪の時には、経済効果を議論するような話は聞いたことがなかった。

64年東京五輪前の社会資本整備

 とはいいながら、やはり経済効果の話をしておこう。64年東京五輪の後には、日本は景気後退期に入っている。景気の基準日付を見ると、ちょうど1964年10月が景気の山となっており、この景気後退はちょうど1年続いた。前回、私は、2020年東京五輪の経済的影響はあまり大きくないという考えを述べた。では64年五輪はどうだったのだろうか。

 注目すべきは、64年東京五輪の時には、五輪の直前まで、大規模な社会資本投資が行われていたことだ。例えば、64年には東海道新幹線が開通したのだが、その開通式は五輪開会式のわずか9日前だった。開会式の3週間前には、羽田空港と都心を結ぶ東京モノレールが開通した。首都高速道路の半分以上が開会式2か月前の8月に開通した。羽田空港も64年には3本目の滑走路が新設され、旅客ターミナルビルが増設された。

 もちろんこれらの社会資本整備は五輪のために行われたわけではない。もともと、在来の東海道線は輸送力の限界に直面しており、その増強が必要だった。国際空港の整備、その空港と都心を結ぶ交通機関もどうしても必要なものだった。首都圏の交通事情は限界に達しており、五輪のかなり前から都心の立体道路の建設が計画されていた。

 ただ、五輪は、これら社会資本の完成を促す格好の目標となった。五輪のためという錦の御旗があれば、公共投資を進める理由が分かりやすく、人々の理解も得やすい。前述のように、五輪は日本の国際的お披露目の場だったから、五輪にやってくる多くの外国人に、新幹線やモノレールを見せたい。日本の都市にも高速道路網があることを見せたいと考え、必死になってこれら社会資本整備を開会式に間に合わせたのである。

 これだけの大規模な社会資本投資が五輪直前に完成し、五輪後にはこれら投資がストップしたわけだから、景気へのマイナス効果もまた大きかったのだと考えられるのだ。



※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。