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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第98回)

福田赳夫とその時代(上) 長い間不思議だったこと

 

2021/11/15

 経済企画庁時代の大先輩である長瀬要石氏から、氏が著者の一人である「評伝 福田赳夫」(岩波書店)という本をご恵贈いただいた。私は、自分自身が本を出した時に関係者に本を送るのだが、送る時には「せっかく送るのだから是非読んで欲しいものだ」と思う。読んで欲しい人に送るわけだから当然のことだ。そういう実体験があるので、逆に私が著者からご恵贈いただいた本は必ず目を通すことにしている。

 長瀬氏にいただいたこの本を見てまず感じたのは「部厚いな」ということだった。なんと700ページである。「これは大変な本をいただいてしまった」と思ったものの、私の基本ポリシーを曲げるわけにもいかず、少しずつ読み始めた。読んでみると、これが大傑作であることが分かり、長さは全く苦にならなくなり、むしろ読み続けることが楽しみになった。そこで早速、ツイッターやnoteでその素晴らしさを発信し、エコノミスト誌(2021年11月9日号)に「政治家の評伝としての金字塔だ」という書評を書いた。

 福田赳夫(以下、敬称略)の生きた時代は、私が経済社会の問題を考え出した時代と結構重なっている。また、経済企画庁に入って5~6年目の若手官僚時代に、福田が副総理兼経済企画庁長官として赴任してきており、僅かながらも仕事上でのつながりもあった。

 上記のSNS上での発信やエコノミスト誌の書評と重複する部分もあるが、この本を読みながら考え、思い出したことを書いてみたい。

長い間不思議だったこと その1 安保闘争とは何だったのか

 この「評伝 福田赳夫」という本の大きな特徴は、政治家としての福田赳夫の生涯が丁寧に記述されていることは当然として、その時々の政治、経済、社会情勢についても詳細で行き届いた解説が提供されていることである。私が、本書を読んで良かったと思ったのは、この経済・社会情勢の解説を読むことによって、私が長年の間疑問に思っていたことのいくつかが解明されたことである。その例を三つ挙げよう。

 一つは、安保闘争の謎である。安保闘争というのは、1959~60年にかけて繰り広げられた日米安全保障条約改定に反対する大規模デモ運動である。もはや現実のニュースとして報道された安保闘争を知る人は少ないかもしれないが、当時中学生であった私は、おぼろげながら覚えている。

 この時、岸信介総理は、条約の成立後にアイゼンハワー米大統領の訪日を実現させ、日米新時代の到来をアピールするつもりだった。ところが、反対運動が激化する中で、米大統領訪日の準備のために日本を訪れた大統領側近のハガチーの車が、羽田空港近くでデモ隊に囲まれて身動きが取れなくなり、ヘリコプターで脱出するという事件(ハガチー事件)が起き、結局予定されていた米大統領の訪日は中止されてしまう。この時、車を取り囲んだデモ隊が「ハガチー・ゴー・ホーム」とシュプレヒコールを叫ぶニュース映像に、当時の私は強いショックを受けたものだ。

 この安保闘争について長い間私が謎としていたのは、「安保条約の改正がなぜこれほど大きなデモ運動となったのか」ということと、「まるで革命前夜のような盛り上がりを示したそのデモが、あっという間に下火になってしまったのはなぜか」ということであった。中学生の私は、条約の改定そのものについての是非は良く分からなかったが、大規模なデモ運動の進展に驚くとともに、それがあっという間に消えてしまったことにもう一度驚いたのであった。「あの騒ぎは一体何だったんだ」と、やや白けた気持ちになったものだ。

 本書を読んでこの謎がある程度解けた。当時の経緯を辿ってみよう。新安保条約は、1960年1月に調印され、国会で条約を批准する手続きに入る。同年2月に、この条約が国会に提出されるや、この安保条約改定を断固拒否する革新勢力と岸政権の間で猛烈な闘争が展開される。こうした中で、岸政権は5月19日に衆院で自民党単独での採決を強行する。条約案が衆院を通過すると、参院での審議の如何にかかわらず、一定期間が経過すると条約は自然成立となる。つまり、この時点で、安保条約の成立は確実なものとなったのである。

 ところがこの強行採決が、当事者の予想を超える事態を招く。社会党を中心とする反対勢力は、警察官500人を院内に導入して、野党不在のまま採決を強行したことは「議会制民主主義の破壊」に等しいと批判した。この強行採決によって、大衆闘争は爆発的に高揚し、5月26日は全国で54万人という空前の規模の人々が反対運動に参加するという事態になる。つまり、安保闘争は、条約改定への反対そのものより、岸政権の強行採決による「議会制民主主義の破壊」への反対運動だったのである。

 また、自民党内の反岸グループは、表向き野党と歩調を共にすることはなかったが、非公開の場では米大統領の訪日延期を主張して、岸政権を追い詰めようとしていた。安保闘争は反岸内閣闘争でもあったのだ。

 6月19日、改定安保条約は自然成立し、23日には日米間での批准書の交換が行われた。同時に官邸では臨時閣議が開かれ、岸総理は内閣総辞職による退陣を表明した。これを機に、安保闘争の火は消え、デモ隊の姿も見られなくなる。自然成立によって、反安保勢力の闘争目標はなくなり、岸の退陣によって、自民党内では岸の後継争いへと争点が移っていくのである。

長い間不思議だったこと その2 田中はなぜ均衡財政を主張したのか

 もう一つの私が抱いていた謎は、65年不況当時の田中角栄と福田の取った行動である。私にとって謎だったのは、党人で積極成長論者の田中が均衡財政を、大蔵省(現財務省)出身で安定成長論者の福田が公債発行を主導したのはなぜかということだった。本書によって、当時の状況を辿ってみよう。

 64年の東京オリンピックが大盛況のうちに終わった後、日本経済は不況になっていく。65年3月には、山陽特殊製鋼が戦後最大の負債を抱えて倒産、5月には山一證券の経営危機が表面化した。こうした中で、大蔵省は、均衡財政主義の立場から、65年度歳出の1割削減を主張していた。この時の蔵相は田中角栄であった。

 この歳出1割削減については、本連載にもたびたび登場する大先輩の香西泰氏(元日本経済研究センター理事長、会長、2018年死去)は、その著書「高度成長の時代」の中で、これは、アメリカのフーバー大統領が大恐慌下で実施した財政収支均衡のための増税と同じ失策だったと指摘している。確かに現代の常識的な財政運営からは考えられない政策である。不況で税収が落ち込んだ時、それに合わせて歳出を削減したら、需要はますます減り、景気の後退を加速させることになるからだ。

 65年5月佐藤総理は、内閣を改造して福田を蔵相に任命した。福田は、強い難色を示す事務当局を説得して、戦後初めて赤字公債を発行し、不況対策に取り組むことになる。

 ここで私が腑に落ちなかったのは、党人で積極成長論者であるはずの田中角栄が、均衡財政を主導し、大蔵省OBで財政を熟知している福田が、均衡財政を放棄して公債発行に踏み切ったことだ。福田は、むしろ安定成長論者で、高度成長論者の池田勇人を批判していたはずではないか。

 この謎について、本書では「史上最年少で蔵相に就任した田中は、大いに意気込み、財政六法を熟読して、省内の人心収攬に努めた。しかしそれゆえに田中は大蔵省の主張に過剰に同調するところがあったといえなくもない」と書いている。控えめな書き方だが、私はその通りだったろうと思う。私がそう思うのは、田中角栄が蔵相時代の二つのエピソードをよく覚えているからだ。

 一つは、野口悠紀雄氏の経験談だ。野口氏は64年に大蔵省に入省した。その入省式の時、新入生20人が大臣室で一列に並んでいるところに現われた田中大蔵大臣は、並んだ新入生の1人1人に、名前を呼びかけながら握手して回ったという。田中は前もって新人の名前と顔を覚え込んでいたのである。

 もう一つは次のようなエピソードだ。田中が蔵相として国会答弁を行った後(閣議での発言だったかもしれない)、大蔵省に戻ると、幹部たちが大臣室にやってきて、今日の答弁は、役所サイドがお願いした内容とは異なると大臣に注意した。田中は「いや間違っていないはずだ」と言うが、役所サイドは「間違っていた」という主張を変えない。すると、突然田中の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。幹部たちが驚いていると、田中は「ちょっと失敬」と断って、洗面所で顔を洗ってくると、「自分が間違っていた申し訳ない」と謝ったという。

 田中は、大蔵省の役人に負けまいと、毎日必死になって資料を読み、勉強していた。にもかかわらず「間違っている」と言われたので、思わず涙が出たのだろう。学歴で周囲の役人たちに劣っている田中が(田中の最終学歴は高等小学校卒)、人知れず涙ぐましい努力を払って遅れを取るまいとしていたことを考えると、こちらも思わず涙ぐんでしまうような話だ。

 この二つのエピソードは田中が大蔵省の仕事を誰よりも理解しようとし、かつ人心をつかもうと大変な努力をしていたことを物語る。

 これに対して福田は、大蔵省のことも予算編成のことも熟知していた。その福田は安定成長論者だったのだが、その安定という意味は、単に高度成長ではなく安定した低めの成長を目指すということだけではなく、不況期には成長率を引き上げて、景気循環を通しての成長率を安定させるという考えだったようだ。そこで65年不況に対しては、均衡財政にこだわらず景気を浮揚させようとした。当然事務方は反対の論陣を張ったが、財政の論理を熟知している福田は全く動ずることなく、自説を貫くことができたのだろう。

長い間不思議だったこと その3 福田と大平はなぜ対立したのか

 福田と大平(正芳)は、1978~80年に激しく対立し、いわゆる「大福対決」が繰り広げられる。しかし、福田も大平も大蔵省の出身であり、ともに財政再建と福祉国家の建設に理解を示す政治家であった。その二人がなぜかくも強烈に対立するようになったのか。これも私には今一つ良く分からないことであった。

 本書によって大福対立の推移を辿ってみよう。それはどんな小説も思いつかないような、想像を絶するドラマチックな展開を示すのである。

第1幕 予備選挙制度の導入

 1976年首相に就任した福田は、自民党総裁選挙への予備選挙制度の導入を推進する。福田が予備選挙制度を導入したのは、総裁選挙のたびに派閥間での買収合戦が展開され、不透明なカネが乱れ飛ぶ状況を変えようとしたからであった。そこで、まず全党員参加して、都道府県単位で総裁候補決定選挙を行い(これが予備選)、その上位2人が国会議員による総裁決定選挙を行うことにしたのである。福田は、全党員が参加する選挙ともなれば、買収工作は難しくなると考えたのである。それは78年11月の総裁選挙で初めて適用されることになるのだが、この予備選挙が大波乱を呼ぶことになる。

第2幕 党員獲得競争

 全党員が参加すれば、買収は難しくなるという福田の思惑は全く外れた。各派閥、特に田中派は、猛烈な党員獲得競争を展開し始めた。77年末時点での自民党員の数は約40万人だったのだが、78年2月末には152万人にまで膨れ上がった。その中には、架空の党員や党の会費を派閥が立て替えて党員数を水増ししたものも多かったという。

第3幕 福田の予備選重視発言

 福田は総裁選挙の結果に自信を持っていた。世論調査の結果も福田が優位だった。こうした情勢を受けて福田は、記者会見で「予備選の結果が鮮やかなものであれば党員・党友の意思は尊重しなければならない。2位のものは本選挙で降りるのが筋だ」と語った。自分が1位になって、2位が降りれば、本選挙での無駄な派閥間の抗争を避けられると考えたのだろう。

第4幕 予備選での大平の勝利

 11月に予備選が行われ、福田は10万票近い大差をつけられて大平に敗れた。福田派の議員は、本選挙になれば勝てると主張したが、福田は本選挙を辞退するという決断をする。福田が本戦に出馬すれば、田中・大平連合は手段を選ばず対抗するだろうから、再び金権選挙が繰り返されると考えたからだというのが本書の説明である。

 予備選挙における田中派の大平支援はすさまじかったようだ。本書によると、選挙人となる党員・党友の名簿は公開される予定はなく、三和銀行系列の計算センターに保管されていたのだが、田中派幹部で全国組織委員長であった竹下登が職権でこの名簿を入手した。名簿を入手した田中派は、総勢400人以上もの秘書団やアルバイトを動員して、人海戦術で票の掘り起こしを進めた。

 予備選挙の投票そのものにも不正が行われていたというから驚く。田中派は、自らの息のかかった県連の幹部に投票用紙を水増しさせるなどして、大平票を増やした。開票後の投票用紙は党本部に送付され、直ちに焼却処分された。本書ではこれを、不正選挙の証拠を残さないためだったとしている。このあたりの記述は「どうやって調べたのか」と驚いてしまうほど臨場感にあふれていて迫力満点だ。

第5幕 一般消費税を掲げた大平の敗北

 79年10月、政局の運営に自信を深めた大平は衆院を解散して総選挙に臨むことを決断する。財政再建に意欲を示す大平は、一般消費税の導入を掲げて選挙戦に臨むが、この増税路線が国民の支持を得られず、自民党は過半数を割り込む予想外の大敗を喫することになる。これは私の感想だが「選挙において消費税の引き上げを訴えるのはマイナス」「消費税に反対するとプラス」という考えは、この時から各政党に根付いたのではないかと思う。

 非主流派に転じていた福田は、選挙での敗北を受けて、大平に辞任を迫るが、大平はこれを拒否する。いわゆる「40日抗争」の始まりである。

第6幕 二人の首相候補

 大平が選挙に敗れたことにより、大平の留任を支持する大平・田中連合の主流派と、大平の辞任を求める福田、三木、中曽根、中川派の非主流グループの対立は強まった。総選挙から1カ月経っても、次の首班指名の見通しが立たない。福田は、事態を打開するため「大平首相、福田自民党総裁」という、いわゆる「総々分離案」を示すが、大平はこれを拒否する。かくして、同じ自民党で主流派は大平を、非主流派は福田を立てるという異例の事態となった。11月の衆院における決選投票では大平が勝利し、「40日抗争」はようやく終結する。

 ここに至って、大福対決というのは、福田、大平の対立というより、福田と田中の対立だったのだということが分かる。福田はかねてから田中流の金権的な体質を嫌い、党の刷新を求めてきた。大平は田中の盟友であったから、大平派と田中派は常に行動を共にした。特に、ロッキード事件で失脚した田中は、党への支配力を握り続けるためにも、大平を強力に支持した。これが福田と大平の対立を招いたのであった。

第7幕 不信任案可決

 自民党内の対立はさらに続く。次のきっかけになったのは、80年5月社会党が内閣不信任案を提出する動きを見せたことである。この不信任案への対応をめぐって、反主流の4派は党改革と綱紀粛正を大平に申し入れる。反主流派がこれに対する大平の回答を検討している時、本会議の開催を知らせる予鈴が鳴った。大平が国会の開会を強行したのは、強行すれば反主流派も諦めて議場に入るだろうと期待したのと、万が一不信任案が可決されたら、直ちに衆院を解散する決意を固めていたからだとされる。

 予鈴を聞いて非主流派の面々は騒然となった。本鈴が鳴ったら議場は閉鎖されてしまう。福田と三木は動かなかったが、中曽根は土壇場で自派を率いて議場に入った。ついに本会議が開かれたが、福田、三木派の69名が本会議を欠席したため、内閣不信任案は可決された。大平は直ちに解散総選挙を決断。かくして政局は、憲政史上初の衆参同日選挙へと突入していく。

第8幕 大平首相の死

 衆参同日選挙は、5月30日に告示され、選挙戦が始まった。ところが選挙初日の遊説後に、大平は、胸の痛みを訴え、同日夜、虎の門病院に極秘入院する。党首不在となる中で、党執行部は、福田、三木、中曽根ら実力者に、首相に代わって演説の先頭に立つよう要請、福田はこれを受け入れる。

 大平は6月12日に逝去する。この大平の死は、大福抗争のわだかまりを一掃し、選挙戦を弔い合戦へと変容させる。反主流派も含めて各候補者は、事務所に大平の遺影を掲げ、喪章を腕に巻いて選挙戦に臨んだ。その結果自民党は大勝、大平の命と引き換えに政局は安定したのである。

 本書を読んで感じたこと、思い出したことはまだまだあるので、次回にそれを述べよう。



※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。