一覧へ戻る
小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第99回)

福田赳夫とその時代(下) 福田企画庁長官の時代

 

2021/12/17

 前回は「評伝 福田赳夫」(岩波書店)という本から、政治家福田(以下敬称略)の波乱万丈の物語を紹介した。今回は、田中角栄との対立、三木内閣の発足を受けて、福田が経済企画庁長官となるまでの頃を取り上げる。この企画庁長官時代に、僅かながら私と福田との接点が生まれることになる。

福田赳夫と田中角栄

 前回、福田と大平との大福対決の顛末を書いたのだが、それに先立つ田中角栄との対立もなかなか波乱に満ちたものだった。当時の私から見ていても、福田と田中はあらゆる点で対照的な政治家だった。大蔵省のエリート官僚だった福田とたたき上げの田中、安定した経済を志向する福田と列島改造論を押し立てて積極路線を歩もうとする田中、清廉な政治を求める福田と資金力に物を言わせて勢力の拡大を図る田中という具合だ。

 「評伝 福田赳夫」によって二人の対立の行方を辿ってみよう。二人の最初の大きな対決は、長期政権であった佐藤栄作の後継総理の座をめぐる争いであった。佐藤は福田への禅譲を考えていたようだが、田中は事実上の田中派を立ち上げて総裁選に立候補した。当初は、福田が優勢と考えられていたが、田中は圧倒的な買収攻勢を仕掛けてその差を縮めてきた。この時、キャスティングボードを握っていたのが中曽根派であった。本書によると、中曽根は、総裁選協力の見返りに幹事長か大蔵大臣を約束することを打診してきたという。福田はこれに明確な答えを示さなかったことから、中曽根は次第に田中支持に向かった可能性がある。

 劣勢を自覚し始めた福田派の中には田中派に「実弾」で対抗すべしという主張もあったが、福田は最後までこれを許さなかったとされる。本書によると、当時若手代議士であった森喜朗は、田中に対抗して買収攻勢をかけるよう進言して福田から激怒されたという。

 福田は総裁選で田中に敗れ、田中が総理になるわけだが、福田の出番はすぐにやってきた。72年の総選挙で議席を減らし、厳しい立場に置かれた田中は、挙党体制確立のため福田に入閣を求めた。福田は主要閣僚を打診されたのだが、「国政全般について進言できる身軽なポスト」を望み、行政管理庁長官に就任する。

 この時、73年10月に第1次石油危機が起き、インフレが日本経済を襲い始める。しかし、田中は列島改造論の看板を下ろそうとせず、相変わらず公共投資を増やそうとするなど、次第に田中政治の限界が明らかになってきた。これに対して福田は、インフレ抑制の立場から、総需要の抑制を主張し始める。この田中と福田の対立は、愛知揆一蔵相の突然の死という偶発的な出来事をきっかけに解消することになる。愛知蔵相の急死という緊急事態に直面した田中は、福田に蔵相就任を求める。福田は、田中に列島改造の旗を降ろし、厳しい財政縮減を行うことを蔵相就任の条件とした。田中は、列島改造論を撤回し、経済問題は一切福田に任せると述べ、福田は「そこまで言うのなら」と、蔵相を引き受ける。

 私はこの一連の出来事から、田中の政治家としての非凡な対応力を見る。田中も、石油危機の中で列島改造路線を貫くことの難しさを認識していただろう。しかし、改造論を引っ込めるきっかけがない。そこに愛知蔵相の急死があり、福田を蔵相にしたのだが、これは、①列島改造論を引っ込めるきっかけができ、②ライバルである福田を共同責任者として取り込み、③福田の手腕でインフレを乗り切るという一石三鳥の道だったのである。愛知蔵相の急死という突発事態の際の、瞬時にこうした道を考え出したのは、田中の本能的な政治勘だったのではないか。

 もう一つ重要な副産物があった。それは、さらに福田が蔵相に就任して、列島改造論を葬り去り、インフレ退治に力を入れ始めたことにより、野党が攻撃目標を失ってしまったことである。しかも福田は安定成長路線の提唱者である。これにより、列島改造路線の撤回と高度成長路線からの転換を叫んでいた野党の影はすっかりかすんでしまったのである。

 これは日本の政治でしばしばみられることである。今回の21年10月の衆院選挙でも、岸田新総理が、分配の重視、新自由主義からの転換という、野党のお株を奪うようなスローガンを掲げたため、野党の影がすっかり薄れてしまったのと同じである。要するに、自民党は党内の政策的すそ野が広いため、党内での疑似政権交代によって、政策スタンスを柔軟に変更できてしまうのである。

福田の企画庁長官就任

 その後田中は、金脈問題への批判が高まる中、74年11月に退陣し、椎名副総理の裁定によって三木武夫が後継総裁となった。三木と福田は、共に金権体質を強く批判し、いたずらに成長を求めないといった点も同じ方向を向いていた。この三木政権の下で、福田は副総理兼経済企画庁長官となる。この時私は、官房企画課に在籍していた。後で説明するように、企画課は大臣と事務方をつなぐ役割も担っている。超大物大臣が赴任してくるというので、企画課には、緊張した空気が漂っていた。

 ここで私のことを少し話しておこう。ご存知の方が多いと思うが、役所では1~2年ごとに仕事が変わる。うまくしたもので、色々な仕事をするうちに、役所の側も本人も、自分の実力や、自分がどんな分野に向いているかが分かってきて、次第にそれなりの職務を与えられていくことになる。

 私の場合は、1969年に経済企画庁に入り、第1の職場となったのは、経済白書を作る調査局の内国調査課だった。第2の職場としては、発足間もない環境庁(現在の環境省)に出向して、企画調整課に勤務した。この時の環境庁での仕事にもたくさんの思い出があるのだが、それはいずれ回を改めて紹介することにしよう。続く第3の職場が、企画庁に戻っての官房企画課であった。

 企画課は、普通の省庁では総務課と呼ばれることが多い。役所全体の横断的な業務を担う部署で、具体的には、国会との連絡調整、大臣と各局との連絡調整、機構・定員要求などを行う。私はその企画課の中の総括的な班の係長的な仕事をすることになった。

 この企画課の重要な仕事の一つとして、新任の大臣への事務説明がある。内閣の改造があると、企画課では新大臣用の説明資料を準備し、組閣の当日は、官房長や企画課長、新秘書官候補者などが官邸に行って、待機している。総理から指名を受けた新大臣は、すぐに記者会見に臨む必要があるので、とにかく短時間で発言の要点を耳に入れておく必要があるのだ。

 新大臣への振り付けの際の決まり文句は「このたび経済のかじ取り役である経済企画庁長官を拝命し」で始まって、その時の重要課題について述べ、最後は「日本経済の発展と国民福祉の向上のために全力を尽くす所存である」と言って締めくくる。これが標準型で、この程度であれば誰でも覚えられる。

 企画庁のことをあまり知らない初心者の大臣がやってくると、「企画庁は格が高い役所です。なにしろ国会で経済演説を行うんですから」と説明する。少し解説しよう。毎年1月に召集される通常国会では、総理、関係3閣僚が政府4演説を行う。総理の施政方針演説、外務大臣の外交演説、大蔵大臣(現財務大臣)の財政演説、そして経済企画庁長官(現経済財政担当大臣)の経済演説の四つである。これに対して各党からの代表質問が行われるという形で、国会論議が始まる。何となく、代表質問は総理の施政方針演説への質問であるかのように考えられがちだが、実際は政府4演説に対する質問なのである。この4演説の一つを担うのだから、企画庁長官は重要閣僚だというわけである。

 私がこの企画課に勤務したのは、73年の半ばからなのだが、この企画課勤務時代に、福田副総理・経済企画庁長官が赴任してきたのである。

経済演説の準備

 私は、この時約1年間、福田企画庁長官の下で働いたのだが、仕事として最も印象に残っているのは、前述の経済演説の準備であった。

 74年11月に赴任してきた福田長官の最初の大きな仕事は、75年初めの通常国会における経済演説であった。この演説の草稿は企画課が準備する。企画課は、この経済演説をいかに手際よく準備するかが、この大物長官の企画庁に対するイメージを決めるだろうと考え、大いに張り切った。

 この時、私は、この演説の第1稿を書くという任務を与えられた。これはかなり責任重大であった。私は、福田長官のこれまでの演説や書き物を集めて、熟読玩味し、過去の経済演説を読み、第1稿を仕上げた。私は、役所に入ってからの経験年数はまだ短かったが、既に、内国調査課で経済白書の原案を書いたり、環境庁出向時代に環境白書の草稿を書いたりしていたので、文章を書くことについては結構自信があった。

 第1稿ができてしまえば後の話は簡単だ。課長補佐が修正し、課長が修正し、官房長が修正し、庁内に回して各局が修正し、最後に大臣に渡して、大臣が自ら修正するという手順で演説が出来上がっていく。この時、私が面白いなと思ったのは、途中の段階で、企画課が演説の草稿を宮崎勇さんのところに持っていって、「何か格調の高い結びの文章を考えてください」と頼んだことだ。当時宮崎さんは直接経済演説に関係する職務ではなかったのだが、有識者として依頼されたのだろう。「なるほど、有能な人というのは、こうして所管外のことでも頼りにされるのだな」と思ったものだ。

 大臣の手も入って演説原稿が完成すると、最後に国会での読み上げ稿を準備する。これは何と毛筆で準備していた。幸いなことに、当時の企画課には、たまたま係長クラスで達筆の人物がおり、この人がさらさらと演説を毛筆書きしていった。出来上がった草稿を見て、福田長官は「王義之のようだ」といって喜んだという。

 後から聞いた話だが、福田長官は、この経済演説の準備ぶりを見て、企画庁の事務方への信頼を高めたようだ。企画庁にやってきたばかりのころ、福田長官は、もし企画庁の事務体制が弱体であった場合は、他省庁から人材を補給しようと考えていたと言われている。福田長官は副総理という立場でもあったのだから、他省庁からスタッフを補充することも可能だったのだ。しかし、経済演説の出来栄えをみて「これなら企画庁の事務方に任せておいても大丈夫だろう」という心証を持ったという。

 その内容も、今読み返してみても結構読ませるものになっている。さわりの部分を引用してみよう。

 「21世紀は、このままにしていると、かつて想像され、また期待されていたような栄光の世紀ではなく、むしろ、より多難の世紀となることが恐れられている。その背景としては、われわれは、特に資源、環境等の問題が、きわめて大きな影を投げかけていることを発見するのである。」

 この指摘は当たっている。21世紀になって、世界も日本も、リーマンショック、コロナ危機など未知の課題に直面してきたし、資源・環境問題がより多くの人々の意識に上るようになってきた。

 「成長の成果の配分が一部の人に偏り、不公正が拡大するということがあってはならない。また、こうした落ちついた成長のもとでは、物を大切にする心組みが必要となります。使い捨ての時代は終わりました。国も、企業も、家庭も、物の合理的な消費を志向し、省資源、省エネルギーの経済構造をつくり上げることが、新しい資源有限時代に適応する道である。」

 この部分は、現時点での演説ですといっても通りそうだ。成長の成果の分配を求めているのは、現在の岸田内閣の姿勢と同じだし、省資源・省エネルギーはSDGsの方向と一致する。

 正直に言うと、私は当時は福田の考えにあまり賛成できなかった。私は基本的には高度成長論者で、最初から低めの成長率で良しとする考え方は消極的すぎると考えていたからだ。しかしこうして振り返ってみると、福田長官の考え方のほうに先見の明があったのかもしれない。



※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」は こちら(旧サイト)をご覧ください。