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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第103回)

私と海外出張

 

2022/04/19

 私はとても国際派とは言えない。長めの海外経験としては、企画庁に入ってから5~6年後に、半年間アメリカのワシントンDCの商務省に研修生として派遣されたことだけである。それでも、長い役人生活の中では、国際会議、調査、上司の随行などで何度も海外出張をした。大学で教鞭をとるようになってからも、何度か海外出張の機会があった。その中から特に思い出に残る出張を紹介しよう。

最初の海外出張

 役人になってから最初の海外出張の機会は、役所に入って3年目にやってきた。私は、経済企画庁に入って最初の勤務は、経済白書を作る内国調査課だったのだが、3年目に、当時設立されたばかりの環境庁(現在の環境省)に出向になった。環境庁では企画調整局の企画調整課というところに配属された。この課は、環境行政の総合企画を担当していて、環境関係予算の一括計上、公害による健康被害者救済のための無過失損害賠償責任立法、環境白書の執筆など実に多様な取り組みを行っていた。

 特筆すべきは、発足当初から、この局ではかなり先端的な環境行政のアイディアを議論していたことだ。例えば、当時から議論が始まっていた手法に「環境アセスメント」がある。開発等の環境に影響するような事業を行う場合には、事前にその事業が環境に及ぼす影響について分析した上で、事業の是非を判断しようというものである。これは現在でこそ当たり前の制度になっているが、当時は斬新な考えで、「そんなことを義務付けられればいいね」と熱心に議論したものだ。

 その中に「汚染者負担の原則、PPP:Polluter Pays Principle」というものがあった。環境を汚染した主体が、その費用を払うという原則で、当たり前のようではあるが、この原則を確立すれば、汚染物質を排出している企業から課徴金を集めて、被害者の救済費用に充当するといった制度が可能になるかもしれないと考えられたのである。経済学的には、公害は典型的な外部不経済であり、被害コストが取引費用に反映されないことが公害を生むのだから、この社会的コストを内部化して、取引費用に上乗せされるような仕組みを作ればいいという議論につながっていく。

 この議論は、OECD(経済協力開発機構)の環境委員会に小委員会を作って検討されていた。私は、パリで開かれるこの小委員会のPPPの議論に参加するように言われたのである。

 さて私は、対処方針を準備して会議には出たのだが、英語で議論したことなどないので全然発言できない。現地の大使館の方が「言いたいことがあれば私が発言しましょう」と言ってくれたので、対処方針を渡して発言してもらった。この時、通商産業省(現経済産業省)の担当官も出張してきたのだが、この人は海外経験があって英語がうまい。うまいだけでなく、よく発言する。よく発言するだけでなく、政府の対処方針の枠を超えて、通産省に都合のいいことをべらべらしゃべっている。役人になって3年目の私は、「これから役人として生きて行くためには英語が必須だ」と強く感じた。

 これがきっかけで、私はかなり熱心に英語を勉強するようになった。テレビの英会話を見たり、英会話学校に通ったりした。時間が余ると、ペーパーバックで英語の小説を読むという習慣が付いたのもこの時で、これはその後、私の数少ない趣味の一つとなった。

 趣味と言えば、出張でもう一つ加わった趣味がある。この時の出張では、パリでOECDの会議に出た後、ロンドンに行って政府の環境アセスメントについてヒアリングをしてきた。この時、ロンドンで週末を迎えたので、街を散策していたら、劇場でミュージカルの「ジーザス・クライスト・スーパースター」を上演しているのに出くわした。時間を見ると間もなく開演で、チケットも買えた。時間つぶしに見てみようかと軽い気持ちで入ってみたら、これが実に面白く、すっかり感動してしまった。

 この時以来、私は海外出張で、時間があるとミュージカルを見るようになった。その後分かったことだが、私が最初に見た「ジーザス・クライスト・スーパースター」はアンドルー・ロイド・ウェバーの作品なのだった。その後の出張で、ウェバーの作品だけでも「キャッツ」「スターライト・エクスプレス」「オペラ座の怪人(これは2回見ました)」を見ている。「レ・ミゼラブル」も2回見た。日経センターの私の部屋には、この時劇場で購入した「レ・ミゼラブル」のポスターが張ってある。

 出張の話に戻ると、この時のOECDの委員会では、PPPについての短いレポートがまとめられた。帰国して、局長室で幹部に出張報告をして、このレポートを説明すると、局長が「これは重要な考え方だ。小峰君、今度、環境審議会の基本部会が開かれるから、PPPの考え方を君から説明してくれ」と言われた。3年目の下っ端が、審議会の場でメインテーブルに座って、説明者になり、委員の質問にも答えるというのは、かなりの大抜擢だが、発足したばかりの環境庁には、こうした「既存の序列や慣習に拘らずに、やるべきことはどんどんやろう」という雰囲気があったのだ。

 さて審議会で説明するのは名誉なことで大変嬉しいのだが、その審議会は何と翌日なのだった。資料も準備していないので、私は直ちにOECDの報告書の翻訳に取り掛かった。その日は家に帰らず、役所に泊り込んで、ほとんど徹夜で翻訳を仕上げ、翌朝、業者に超特急でガリ版刷りの印刷を依頼し、昼頃それが納品され、午後の会議で私がそれを使って説明するという離れ業を演じたのだった。

 こうして私の最初の海外出張は、結構環境行政の進展に貢献し、個人的にも二つの趣味が出来るというおまけまで付くという大きな成果を上げたのだった。

怖い目にも会ったことがある

 最初の出張は成功例だったのだが、肝を冷やすような出来事もあった。本連載の「日本経済史」とは全然関係ない話になって恐縮だが、紹介しよう。

 前々回の本連載で、OTO対策官時代の背高コンテナの話を書いた。この時のOTO勤務の後、私は公正取引委員会事務局に出向して調査課長を務めた。この課は、競争政策に関する調査分析を行うところである。私が赴任して間もなく、この課で「長期的取引」についての調査をすることになった。これは、日米構造協議などの場で、海外から、日本の系列などの長期的取引が、海外企業にとっての参入障壁になっているという議論が出てきたためである。そこで、何人かの経済学者を集めて研究会を組織し、勉強してみることになった。この調査には海外調査の予算もついたので、私とS先生がアメリカに行って、ヒアリングしてくることになった。

 怖い出来事は、ニューヨークの空港に着いた時に起きた。私たち二人が、入国手続きを終えて、ロビーに出てくると、「ミスターコミネか?」と呼びかけてくる外人がいる。空港には領事館の人が迎えに来てくれることになっていたので、てっきり領事館の人だろうと思って「そうだ」と言うと、「車はこっちだ」と言って、私の荷物を持ってずんずん進んで行く。後について行くと、車があり、トランクに荷物を積み込んで「さあ乗れ」という。私たちが後部座席に乗り込むと、車は走りだし、しばらくして、助手席にもう一人別の男が乗り込んできた。

 この辺から私たちも「ん?」という気になってきた。走り出すと「ところでホテルはどこだっけ」と聞いてくる。迎えに来ておいて、行き先のホテルを知らないというのはますますおかしい。「君たちは領事館の人ではないのか」と聞くと「領事館の車が故障したので、我々の会社が呼ばれたのだ」と言い始めた。「これはおかしい」と思ったが、相手は二人いるし、もっと怖いことになるのは嫌なので、とにかくホテルまで行ってもらうしかない。やがて目的のホテルが見えてきたのだが、車は近くの路地で停止し、「さて料金は〇ドルだ」と言い出した。かなり高額だ。完全に引っかかったということは分かったが、金で済むならという気になって、お金を払った。

 ホテルについてしばらくすると、領事館の人から電話が来た。空港で待っていても、我々が現われないので、電話して来たわけだ。事情を話すと、領事館の人はしばし絶句した。その後、何人かの人の話を聞くと、これはニューヨークの空港で良く起きることだというのだ。彼らは、バッグに書いてある名前を見て「〇〇さんですね」といって接近し、あとは我々のようなことになるわけだ。日本人はおとなしくお金で済ませようとする傾向があるので、狙われやすいらしい。中には漢字が読める日本人を雇って、名前を読ませるという悪者もいるのだという。ニューヨークで会った知人は、「小峰さん。それはむしろお金で済んで良かったかもしれないよ。暗がりに連れ込まれて身ぐるみはがれることもあるからね」と言った。

怖い話はまだある

 ついでにもう一つ怖かった話をしよう。大学に奉職するようになったある夏、同僚の先生からヨーロッパに地域政策の調査に行こうという誘いを受けた。この先生は、当時の先生仲間の中でも「研究資金を取ってくるのが抜群にうまい」先生として知られていたのだ。ありがたい話なので、私たちは4人のグループでヨーロッパに出かけたのだった。

 怖い話はベルギーのブラッセルで起きた。事前に話を通しておいたので、内閣府からベルギー大使館に派遣されていたA氏がホテルに迎えに来てくれた。そのいでたちを見てやや驚いたのは、リュックを背中に背負うのではなく、お腹の上で抱えているのだ。私が理由を尋ねると、「背中に背負っていると、中身を盗まれるから」という説明だった。「そんなに怖いところなのか」とやや驚いたのだが、本当に怖いところなのだった。ほんの数日の滞在だったのだがブラッセルではいくつか怖い目にあったのだ。

 まず、街を散策していたら、道路にケーブルを埋設する工事をしていた。何気なく見ていたら、工事をしている一人が、カッターでワイヤを切り取り、近寄ってきた人物にこっそり渡しているのを目撃した。資財泥棒である。「白昼堂々と泥棒行為をしているのか」とまた驚いた。

 さらに4人で街を散策していたら、突然同僚の一人が「あっ!待て!(日本語)」と叫んだ。同時に一人の男が猛烈なスピードで私の横を駆け抜けていった。同僚が肩にかけていたバッグをひったくられたのだ。追いかけようとしたが全然間に合わない。幸いパスポートなどの重要書類は入っていなかったので被害は最小限で済んだのだが、「本当に怖いところだ」とまたまた驚いた。

 怖い話はまだ続く、ブラッセルで週末を迎えたので、我々は、日帰りでオランダのアムステルダムに遊びに行くことにした。列車で1時間半~2時間程度で行けるし、EU内なので国境を越えるのも全く自由だ。アムステルダムでは、ダイヤモンド博物館を見学したり、港町を散策したり、ゆっくり夕食を取ったりして、夜になってブラッセルに帰ってきた。そして、私が駅のホームに降りた直後、背中を押されたような感じがした。一人の男が近寄ってきて、背中に何か付いているよと言って、私のコートを脱がせようとする。この手口については事前知識があった。それは、マヨネーズを上着に塗り付けておいて、ふき取るのを手伝うといって上着を脱がせ、そのすきに財布などを抜き取ってしまうという手口である。これを知っていたので、私はすぐに仲間のところに行って難を逃れたのだった。

 その日私は体調が今一つだったので、よほど途中でホテルに引き返そうかと思っていた。もし一人で列車に乗っていたら、疲れで居眠りでもしていたかもしれず、もっと危ない目にあったかもしれないと思って肝を冷やしたのだった。

 今回は危ない話が次々に思い出されたため、わき道にそれた話ばかりになってしまった(すいません)。出張でどんなことを議論したのかについては、次回改めて紹介することにしよう。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」は こちら(旧サイト)をご覧ください。