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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第104回)

OECDでの議論

 

2022/05/20

 前回に続いて、海外出張の話である。私の海外出張の行き先として最も多かったのは、OECD(経済協力開発機構)本部があるパリである。最初の出張がパリのOECDの会議だったことは前回書いた。この時は環境庁(現在の環境省)に出向していた時だったのだが、経済企画庁の仕事でもかなりの回数パリに行ってOECDの会議に出たものだ。

閣僚理事会への出席

 経済企画庁は、主にOECDでの経済政策の議論に参加するのだが、これには三段階がある。第1段階は、担当課長級が出席する専門家会合、第2段階が、次官、局長クラスが出席する経済政策委員会(Economic Policy Committee)、第3段階が、閣僚クラスが出席する閣僚理事会(Meeting of the OECD Council at Ministerial Level)である。専門家会合と経済政策委員会は年2回(春と秋)、閣僚理事会は年1回(秋)の開催である。

 私はこれらすべての会議に関係したことがあるが、まず閣僚理事会から始めよう。私は、河本敏夫企画庁長官の秘書官時代の1984年の秋に、河本大臣が閣僚理事会に出席するのに同行した。出席したのは河本大臣の他に、安倍晋太郎外務大臣、小此木彦三郎通商産業大臣(現在の経済産業大臣)の3閣僚であった。

 それぞれの大臣は、レセプションに出席し、理事会でスピーチを行うが、日程の合間を縫ってパリに集まってきている他国の閣僚と個別に会談したりする。大臣のスピーチは日本語で準備された原稿を読み上げるだけで、議論はほとんどない。会議終了後発表される報告は事前にほぼ合意されている。まあ、ベルトコンベアに乗っていれば良いようなものだ。秘書官は大臣に付いていればいいだけだから、さらに楽なものだ。往復の飛行機は大臣は当然ファーストクラスだが、秘書官もそばにいた方がいいということで、ついでにファーストクラスに乗せてくれる。以下、あまり本質的な話ではないが、思い出したことを書いておこう。

 当時の河本大臣は、副総理でもあり、河本派の領袖でもあった。この時のパリ出張には、河本大臣のポケットマネーで何人かの河本派の代議士が同行した。将来有望な代議士に経験を積ませようということなのだろう。この時の同行者に、若き日の大島理森氏と高村正彦氏がいた。大島氏はその後、衆議院議長になり、高村氏は河本派を引き継いで、企画庁長官、外務大臣、自民党副総裁を務めることになる。今にして思えば、河本氏の人を見る眼は確かなものだったと思う。丸抱えで同行させるのだから相当の費用が掛かっていたはずだが、当時の私はこれを横で見ていて「なるほど派閥の長の資金力は大したものだ」と思ったものだ。

 資金力と言えば、海外主張とは関係のないわき道に逸れるのだが、こんなこともあった。ある時、大臣室に、野党(当時の社会党)の代議士から、河本大臣に面会したいという要望が来た。政務の秘書官が対応したのだが、大臣も何かと忙しいのでといって、これを断ってしまった。私は「断っていいのかな」と心配になったのだが、政務秘書官は私に「この代議士は盆暮れになると、河本先生に会いに来るんですよ。特に用事はないのですが、来ると河本先生はなにがしかの金一封を渡すのです。今回もそれが目当てなんですから、断っても構わないんですよ」と解説してくれた。私は、「野党の代議士まで資金を貰いに来るのか」とすっかり驚いてしまった。なおこの時、河本大臣は、面会を断った政務秘書官に対して「目的は何であれ、私を頼ってきたのだから、簡単に断ってはいかん」と注意したらしい。

 もう一つ記憶に残るのは、個別会談だ。企画庁長官の米国のカウンターパートは、大統領経済諮問委員会(CEA:Council of Economic Advisers)の委員長である。このポストには、代々高名な経済学者が就任しているのだが、この時の委員長はフェルドシュタイン・ハーバード大学教授であった。私も良く知っており、その後、私の著書(「最新日本経済入門」日本評論社)で、国内貯蓄と国内投資には強い相関があるというフェルドシュタイン=ホリオカの米国における推計を、日本にも適用して同じ結論が導かれることを紹介している。これは、「資本が国家間を自由に移動するのであれば、国内貯蓄と国内投資は関係しない」という仮説の反証となっており「フェルドシュタイン=ホリオカのパズル」と呼ばれているものだ。

 河本大臣は、このフェルドシュタインとパリで会談したのである。私は「おお、あのフェルドシュタインが来るのか」と、ちょっと興奮した。フェルドシュタインは、約束の時間に河本大臣が滞在するホテルにたった一人で現われた。フェルドシュタインは、何のメモも見ないで、米国経済の現状について説明し、いくつかの質問に応え、河本大臣の発言にいくつかコメントした。この間、私が感心したのは、フェルドシュタインが全てを記録していたことだ。フェルドシュタインは、発言内容をせっせとメモするだけではなく、会談が終わると、私も含めて全ての出席者の名前までメモして帰って行った。あのメモを秘書に渡せば、完璧な会談の報告書が出来上がるはずだ。

 私は、改めて米国の行政システムの効率性、生産性の高さを実感した。単純化して言うと、米国の閣僚は高い専門知識を持っており、必要な情報を事務局から吸収して、行政判断を下していく。議会に呼ばれた時などは、事務局が準備するbookと呼ばれる分厚い参考文書に目を通し、自らの言葉で議会での質問に答える。日本では、大臣は多くの随行者を従えて行動し、事務局は事前に綿密な準備をして、想定問答を作成し、質問に答えられるようにしておく。日米の閣僚の生産性の差は非常に大きいと思った。

専門家会合への出席

 私が、実質的に国際会議に臨んだのは、前述の第1段階の課長クラスの専門家会合であった。私は1989年7月に経済企画庁の国際経済第1課長というポストに就いたのだが、ここは、まさにOECDとの議論を統括する部門だったのだ。

 春と秋に開かれる専門家会合には、3回ほど出席したのだが、これは私にとってかなりのプレッシャーであった。プレッシャーの理由は三つあった。

 一つ目は、英語だ。OECDには同時通訳の設備があり、閣僚理事会では通訳が付くので、日本語で話せばいい。しかし、専門家会合は通訳が付かないので、すべて英語で議論しなければならない。冒頭の発言は、事前に英語の発言を準備しておき、これを読み上げればいいのだが、その後に続く質疑応答は英語で処理しなければならない。しかも、日本の国会ではないから、どんな質問が飛んでくるかは分からないのだ。一応出そうな質問は想定問答を準備しておくのだが、それでも不安だ。

 なお、これにはいくつかのセーフティーネットがある。まず、私が答えに詰まったような場合は、隣に企画庁からOECD代表部(大使館)に出向しているU氏が控えていて、代わって答えてくれる。U氏は海外経験が長く、私より英語に堪能なのだ、しかし、やはりできれば自分で処理したい。さらに、U氏も答えられないような質問が出たら、「この場ではお答えできないので、調べて後ほど個別にお答えする」と答えるのだ。

 このセーフティーネットは実際に発動されている。私が答えに詰まって、U氏に助けてもらったことが何度かある。またある時は、米国代表の専門家が、GDP統計の非常に専門的な質問をしてきて、これには私もU氏も全くどう答えていいか分からず(質問の意味さえよく分からなかった)「後ほど個別に」の手段が適用されたのだ。

 二つ目は会場だ。事前に会場を見て私は驚いた。専門家会合の会場は、閣僚理事会の会場と同じなのだ。OECDの閣僚理事会は、全ての国の代表が同じテーブルに付く必要があるので、巨大な楕円形のテーブルに座席が配置されている立派な会議場で開催される。私は、閣僚理事会で大臣が発言するのを見ていたので、「大臣が発言したのと同じ席を使うのか」とかなり緊張したものだ。

 三つ目は発言の順番だ。専門家会合では、各国が順番に発言し、発言が終わると質問を受けるのだが、その発言順はGDPの規模の大きさで決まる。まず米国代表が発言して、米国経済についての議論が終わると、次は日本なのだ。私はこの上位の順番に緊張するとともに、「日本は世界第2の経済大国なのだ(当時はまだ中国に抜かれていない)」としみじみと実感したものだった。

 日本の後は、ドイツ⇒イギリス⇒フランス⇒イタリアと続くのだが、その後は「ではそれ以外の国に移りましょう」といって、順番もごちゃごちゃで簡単な議論で終わるようになっていく。

専門家会議の実例

 この専門家会議の内容については、最近、身の回りの資料を整理していたら、当時の記録が出てきた。これを使って、実際にどんな議論が行われていたのかを振り返ってみよう。

 当時の文書を見ていてまず気が付くのは、経済に対する見方がひどく楽観的だったことだ。例えば、1989年11月の専門家会合での私の冒頭発言は、「日本経済のパフォーマンスは極めて良好である」という言葉で始まっている。そして「第1に成長率が高い。88年の実質成長率は5.7%だった。第2に、失業率が低下している。89年前半の失業率は2.3%である。第3に、物価が安定している。88年の消費者物価上昇率は0.7%であった。第4に、経常収支の黒字が縮小している。」と自信満々である。これを聞いていた各国代表はさぞ羨ましかったことだろう。

 今にして思えば、こうした良好な経済パフォーマンスは、バブルによるものだった。しかし、バブルは、バブルの渦中の人々がそれをバブルだと気が付かないから起きるのだ。私も、これがバブルだという意識は全くなかったし、各国代表からもバブルを疑うような質問は全く出なかった。

 経常収支に関係する議論が多かったのも時代を感じさせる。私の冒頭発言で、経常収支の縮小をパフォーマンスが良いことの例として挙げているのは、当時は、米国や欧州との経済摩擦が激しく、政府は経常収支の黒字を減らそうとしており、各国もそれを期待していたからだ。

 冒頭発言の後には、各国から次々に質問が飛んでくるのだが、その中でも、貿易関係の議論が多く出た。私は、英語圏で長期間暮らした経験がないので、ヒアリング能力が高いとは言えないのだが、こういう時の質問は、不思議とかなり明瞭に聞き取れるものだ。緊張感の度合いが違うのだろう。各国に交じって、OECDの事務局からも質問が飛んできた。質問者は何と八代尚宏氏(その後当センターの理事長)であった。八代氏は、経済企画庁の1年後輩だが、この時はOECDの事務局に出向中だったのだ。八代氏は、「(企画庁の90年の見通しが)内需の伸びが鈍化するのに輸入の伸びが高まるとしているのはなぜか」と厳しいことを聞いてきた。政府の見通しでは、経常収支を減らしたいものだから、輸入を高めに見込んでいたのである。私の答えは「率直に言って、輸入をやや高めに見ていることは事実である。しかし、このところ日本の輸入は予想を上回って拡大しており、構造変化も相当大きい。更に政策的にも輸入拡大のプランを練っているから、それほど不自然ではない」というものだった。

 アメリカ代表からは「製品輸入比率が上昇しているという説明があったが、これは石油価格の下落によるものではないのか」という質問が出た。私は内心「なかなかいい質問だ」と思った。当時、米国、欧州からは、日本は輸入に占める製品の比率が低い。だから米国や欧州からの輸入が増えないのだと批判されていたから、製品輸入の動きについては国際的な関心が高かったのだ。このため、私は冒頭の発言で、このところ製品輸入比率は上昇していると、日本の構造改革をPRしたのだが、米国代表は、この点について「本当に構造が変わったのか?」と疑問を呈したのだ。当時石油価格は下落していたから、石油の輸入金額は減少し、結果的に製品輸入比率が上昇するというメカニズムが確かにあったのだ。しかし「その通りです」などとは言えない。私の答えは「石油も影響しているが、実質ベースで計算しても、この比率は上昇しているから、構造的に製品輸入比率は上昇している」というものだった。

 最後に、ややマニアックな議論を紹介しておこう。専門家会合では、事前にOECDの事務局から「こういうデータを示せ」という注文が来る。その中に「輸出数量」と「実質輸出」という項目があった。前者は、通関統計の数量であり、後者はGDP統計の実質輸出である。注文が来れば、データを出さざるを得ないわけだが、この二つのデータは、同じ輸出であるにもかかわらず、しばしば異なる動きを示していた。すると、必ず「なぜ違うのか」という質問が飛んでくる。これには往生した。この二つはデータのとり方が違うのだ。輸出数量は、単純に数量をウェイト付けして総合化したものである。例えば、自動車が何台輸出されたかが数量になる。他方で自動車の輸出金額が分かっているから、金額を数量で割ると価格が出る。ところが、この価格がクセモノなのだ。例えば、輸出される自動車で付加価値の高い高級車種が増えたとすると、台数は同じで金額が増えるから、価格が上がったことになってしまう。これに対して、GDPの実質輸出は、基準年次の特定品目で価格指数を計算するから、高付加価値化が価格上昇になるということは起きない。高付加価値化は実質輸出の増大となるのだ。こうした事情を説明するのは日本語でも大変なのに、これを英語でやるわけだから、非常に苦労させられたわけだ。

 なお、さらにマニアックな話をすると、この二つの違いを逆用すると、輸出の高付加価値化がどの程度進んでいるかを計算することができる。この数年後に、私は内国調査課長となって、93、94年の経済白書を執筆することになるのだが、この93年白書では、「通関ベースの価格指数がGNPベースの輸出デフレータよりも高い上昇率となったのには、輸出の高付加価値化が影響している」という議論を展開している(第3章第1節「高付加価値化で増加した輸出」)。OECDの議論で鍛えられたことが生きたわけである。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」は こちら(旧サイト)をご覧ください。