一覧へ戻る
小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第105回)

私が見てきた財政政策の変化(上) 均衡財政から橋本改革まで

 

2022/06/22

 日本の財政赤字の状況が国際的に見ても非常に深刻な状態であることは誰もが知っていると思う。どうしてこんな状態になってしまったのか。私が見てきた財政政策の変化を紹介しよう。

第1期 均衡財政の時代

 私が取り上げる第1の時期は、1950年代から65年までの均衡財政の時代である。この時期は私はまだ大学を卒業していないので「私が見てきた日本経済」だとは言えないのだが、この時期から議論を始めよう。この時期の財政運営は、要するに、歳入と歳出を均衡させるというシンプルなもので「健全財政主義」と呼ばれていた。

 この財政運営は、当然ながら財政赤字を生み出すことがないから、健全な財政が保障されている。しかし、経済の安定という観点からは問題が大きい。景気が悪くなって税収が落ちた時、その落ちた歳入に合わせて歳出も削ってしまうから、ただでさえ景気が悪いのに、さらに需要を減らして景気の悪化をより大きくしてしまうのだ。逆に、好況期には税収が増えて、歳出も増えるから景気を過熱させることになる。つまり、均衡財政は、経済の安定化を犠牲にして財政を健全な姿に保っているということになる。

 こうした財政運営があまり問題にならなかったのは、日本が高度成長の時代だったからだ。高度成長期には、経済は急速に拡大し、景気の良い時期が多かった。したがって、財政で需要を下支えするという発想はなく、税収の増加分(自然増入)をどうやって配分するかが財政の中心課題だったのである。

 経済の安定化を担ったのはもっぱら金融政策であった。景気が上昇すると輸入が増えて貿易収支が赤字になる。すると、固定レート制だから赤字分だけ外貨が流出する。放置していると外貨が枯渇してしまうから、外貨の流出を防ぐために金融を引き締めて、経済活動を抑制する。こういう政策運営が繰り返されたのである(いわゆる「国際収支の天井」)。

 この財政運営を変えることになったのが「昭和40年不況」であった。この時の財政政策の転換については、既に本連載第98回「福田赳夫とその時代(上)」(2021年11月)で書いたことがある。やや繰り返しになるが。それは次のようなことであった。

 日本経済は、64年の東京オリンピックが大盛況のうちに終わった後、不況になっていく。ところが政府は、健全財政主義だから、65年度当初予算で、税収の鈍化を踏まえて、歳出を抑制した。さらに、予算成立後、一層の税収減が明らかになると、公共事業費などの繰り延べによって、歳出の1割を留保することを決定したのである。

 この財政運営について、本連載にもたびたび登場する大先輩の香西泰氏(元日本経済研究センター理事長、会長、2018年死去)は、その著書「高度成長の時代」の中で、これは、アメリカのフーバー大統領が大恐慌下で実施した財政収支均衡のための増税と同じ失策だったと指摘している。前述のように、不況で税収が落ち込んだ時、それに合わせて歳出を削減したら、需要はますます減り、景気の後退を加速させるという問題点が極めてクリアに表面化したのである。

 その後、65年3月には、山陽特殊製鋼が戦後最大の負債を抱えて倒産、5月には山一證券の経営危機が表面化するなど、不況はより深刻化して行く。こうした中で、65年5月佐藤総理は、内閣を改造して福田赳夫を蔵相に任命した。この福田蔵相の下、政府は65年7月、歳出の1割留保措置を解除し、特例法を制定して65年12月に戦後初めて赤字国債を発行し、不況対策に取り組むことになる。均衡財政からの決別である。

第2期 ポリシーミックスの時代

 この辺からようやく「私が見てきた」世界に入っていくことになる。40年不況の後、「不況期には、財政赤字を甘受してでも財政面から需要の拡大を図るべきだ」という考えは次第に常識化して行った。それでも、均衡財政に慣れていた人々にとって、これは驚くべき考え方の転換だっただろう。

 私の大先輩に当たる経済企画庁出身の大エコノミストに、金森久雄さん(元日本経済研究センター理事長、会長)や宮崎勇さん(元経済企画庁長官)がいる。この二人は、積極財政論者として知られており、生涯にわたって、景気が悪くなると、強く財政面からの景気刺激を主張し続けた。後述するように、私自身は、次第に「安易に財政面からの景気刺激に頼るのは問題が大きい」という考えに傾いて行き、金森、宮崎両氏とも何度か議論した覚えがある。その私から見ると、両氏の積極財政論は、ややバランスを欠いているように思われた。ここからは私の想像なのだが、この文章を書きながら考えてみると、お二人とも、かつて均衡財政論者を説き伏せるために大変な苦労をしたに違いない。その苦労して勝ち得た積極財政論は、二度と修正が効かないほどお二人の中に染みついた。だから私がいぶかるほど強く積極財政論を主張し続けることになったのではないか。

 私は、1969年に経済企画庁に入ったのだが、この頃の財政金融政策については、「ポリシーミックス論」が主流となっていた。経済には、景気変動の安定、物価の安定など複数の政策目標があるのだが、これに対して財政政策、金融政策など複数の政策を対応させて良好な経済のパフォーマンスを達成しようというのがポリシーミックスの考え方である。景気対策については、経済を丁寧に観測して、早めに財政金融政策を発動して行けば、経済の変動を安定化できるはずだと考えられていた。

 私は、経済企画庁に入って最初に内国調査課に配属され、経済白書の作成に従事した。1年目は総括班に所属して、雑用係を勤め、2年目からは財政金融班に配属されて、財政金融の分析を行った。その財政金融班で私が分析した表が、1971年経済白書に掲載されている(第1部第3章)。

 これは、1970年度下期の成長率が7.2%に鈍化(当時は10%以上の成長が当たり前の時代だったから、7.2%でも「鈍化」だったのだ)した理由を、財政金融政策面から分析したものだ。具体的には、69年後半から始まった金融引き締め、1970年秋からの金融緩和が、それぞれタイムラグを伴って、1970年度下期にどの程度のインパクトをもたらしたか、また、財政面では、70年度に行なわれた法人税率引上げや米の生産調整(成長率引下げ要因)や68~69年の公共投資の増加(成長率引き上げ要因)がそれぞれ70年度下期の成長率にどの程度影響したかを分析したものである。

 具体的には、経済研究所の計量モデルを使って、それぞれの政策変化に対応する外生変数を操作し、「外生変数が変化したケース」と「変化しなかったケース」それぞれの内生変数を計算し、この二つのケースの差分が政策変更による影響だと考えるのである。

 今の時点でこの自分自身の分析を振り返ってみると、まず、いかにもポリシーミックス的だなと思う。金融政策、財政政策が経済を動かしているということがこの分析の出発点になっているからだ。

 この時以来、私は計量モデルを使って財政政策の効果を分析することに関心を持ち続けてきた。具体的には「公共投資や減税を行うと、成長率がどの程度変化するか」という議論である。特に、公共投資については、1兆円の公共投資を行うとGDPは何兆円増えるかといういわゆる「乗数」の議論は随分あちこちで議論したものだ。

 こんな議論を繰り返しているうちに、私は、景気が悪くなると、公共投資や減税で景気を刺激するというタイプの財政政策があまり好きになれなくなってきた。一つは、効果が続かないということである。確かに公共投資を1兆円増やせば、GDPは1.2兆円程度増えたりする(乗数が1.2)。しかし、その効果の大部分は、公共投資自体がGDPの一部だということにある。簡単に言えば、1.2のうちの1は、公共投資そのものなのであり、波及効果は0.2程度しかないのだ。しかもその効果は、2年目以降はどんどん小さくなってしまう。つまり、公共投資による景気刺激政策は、短期的な効果しかない。もし公共投資中心の財政政策でいつまでも成長率を高めようとすれば、永遠に公共投資を増やし続けなければならないことになる。そんなことは不可能だ。

 もう一つは、米の財政学者ブキャナンが指摘したように、人々は、景気が悪い時に公共投資を増やせ(または減税しろ)と言うのだが、逆に景気が良い時に、公共投資を減らせ(または増税しろ)とは言わない。したがって、景気が悪くなるたびに財政赤字が累積してしまうことになるのだ。

 これが私の懸念だったのだが、後者の財政赤字の累積は起きなかった、80年代後半のバブル期に税収が伸びたので、財政赤字が大幅に減少したからである。その、バブルが崩壊した時、日本の財政は次の局面に入ることになる。

第3期 経済対策連発時代

 バブルが崩壊し、日本経済が長期低迷の時代に入ると、景気刺激のための財政出動が頻繁に繰り返されるようになった。

 バブル崩壊後の景気対策の第1号は、1992年3月の「緊急経済対策」である。その後、ほぼ毎年のように経済対策が繰り返されており、私のカウントでは、平成時代を通じて31回もの経済対策が決定されている。そのほとんどは、公共投資などの財政出動を伴うものである。経済対策を講じれば、誰もが「その効果は」と問いたくなる。私もこの手の計算をやらされたことがあるが、経済対策を決めるたびに、「これによって成長率を〇%引き上げるだけの力がある」という説明が繰り返されている。私は「平成の経済」という本を出したときに調べたことがあるのだが、92~95年だけでも、「92年の経済対策はGDPを2.4%引き上げる」同じく「93年4月の対策は2.6%」「同年9月の対策は1.3%」「94年2月の対策は2.2%」「95年6月の対策は2%以上」となっている。これが正しければ、バブル後の失われた20年などなかったはずだ。

 ただし、若干技術的な話をすると、この手の計算は「事後的な検証ができない」という問題がある。例えば、92年8月の対策は、「今後の1年間でGDP(正確には当時はGNPだったが)を2.4%程度押し上げる」と説明されている。では、1年後に、この計算が正しかったかを検証できるかというと、それはできないのである。これを検証するためには、92年8月の対策が実行された時の1年間のGDP(これは誰でもわかる)と、「対策がなかったとした場合のGDP」を比較しなければならない。しかし、経済は実験ができないのだから、「対策がなかった場合のGDP」は誰にも分からない。よって、対策の効果を事後的に計測することはできないのである。

 唯一できるのは、私が71年の経済白書で分析したように、計量モデルの中で変数を操作して「対策がなかった場合」と「対策があった場合」のGDPを推計してみるしかない。しかし、そもそも当初の経済効果は、その計量モデルの計算で出てきた数字を使っているのだから、政府が事前に提示したのと同じ数字が出てくることになり、全然検証にならないのである。

 こうして、この頃から、連続的に経済対策が取られるようになった。当然「景気が良くなったから歳出を減らしたり増税する」という機会は出てこない。前述のブキャナンの指摘したことが現実のものとなり、歳出規模、財政赤字規模は拡大一方となっていったのである。

財政再建の試み その1 橋本内閣での財政再建

 私が見てきた財政史においては、何度か財政再建への試みが行われた。その一つが、1996年に発足した橋本龍太郎内閣の下での財政構造改革である。

 橋本総理は、内閣にあっては郵政大臣、運輸大臣、大蔵大臣、経済産業大臣、党にあっては幹事長、政調会長を務めていた。経験豊富で政策通であった。それだけに、財政再建の必要性も十分理解しており、97年から本格的な財政再建論議を開始した。まず、自らを議長とする財政構造改革会議を設け、その議論を経て、97年11月には「財政構造改革法(正確な名前はもっと長い)」を成立させた。この法律には、具体的な政策措置が法文として書き込まれていた。「2005年度までに財政赤字のGDP比を3%以下とし、赤字国債の発行を抑制し、公債依存度を2005年度までに1997年度水準まで引き下げること。(第4条)」といった具合である。歳出の絞り込み方針は徹底しており、主要予算項目についての予算の上限目標も明文化された。「98年度の社会保障関連予算が前年比3千億円を上回らないこと(第8条)」「公共事業費は対前年比93%以内(第14条)」「政府開発援助(ODA)予算の10%削減(第26条)」といった具合である。

 こうした歳出削減方針を法律で縛ったのだから、この時の財政再建は後戻りできない道を歩み始めたはずだった。しかし、運の悪い時に、97年夏にアジアの通貨危機が起きた。日本の株価は暴落し、97年11月には三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が破綻し、金融危機が表面化した。景気はみるみる悪化し、橋本内閣は97年度補正予算を組んで2兆円の所得税減税を行うこととし、さらに98年4月には、景気対策としての「総合経済対策」が決定された。

 当初の財政改革路線は行き詰った。財政構造改革法の改正案が国会に提出された。その内容は、経済活動の著しい停滞が発生した時には、赤字国債の縮減規定を緩和すること、社会保障関係費の上限を緩和することなどであった。

 こうした景気の悪化と経済政策の迷走のため、橋本内閣の支持率は急落し、98年7月の参議院選挙で自民党は議席を減少させることとなった。この責任を取って橋本総理は辞任した。

 橋本総理の後を継いだ小渕恵三総理は、財政拡張路線に転じ、12月には「財政構造改革法停止法」が成立し、橋本政権のもとでの財政再建の歩みはとん挫することとなった。

 こうした経緯を見ていて、私は次のようなことを考えたものだ。

 一つは、世論の変わり身の早さだ。97年に橋本内閣の財政構造改革が議論されていた時には、世論は大いに盛り上がり、財政再建路線は厳しければ厳しいほど良いという雰囲気だった。しかし、金融危機が起き、景気が目に見えて悪化するにつれて、今度は減税や景気対策が求められるようになり、財政再建の議論はたちまち吹っ飛んでしまったのである。私は「世論に頼っていると、思いがけず足をすくわれることがあるのだな」と思ったのだった。

 もう一つは「法律で縛る」ことの無意味さである。日本は法治国家なのだから、何かやりたいことがあれば、法律にしてしまうのが最も確実な実行手段だと誰もが思う。私もそう思っていた。しかし、法律で決まっていても、その法律が邪魔になれば、その法律を無効にするような別の法律を成立させれば、それまでの法律は消えてしまうのだ。

 こうして、橋本総理が心血を注いだ財政再建への道は、一片の法律で葬り去られ、財政は、再び歳出拡大路線に戻っていくことになる。(続く)


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」は こちら(旧サイト)をご覧ください。