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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第110回)

民主党時代の経済・財政政策(3) ポピュリズムと財政赤字

 

2022/11/18

 今回も引き続き民主党政権の政策運営について振り返る。民主党は、国民受けしそうな政策を大々的に盛り込み、政権を獲得したのだが、その政策に伴う財源を確保できなかったため、結局は財政赤字が膨張することになってしまった。このことは、ポピュリズムに向かう経済運営は、結局は財政赤字で終わるということを示しているように思われる。

植木屋さんの話

 話はわき道に逸れるが、私は、結婚して独立するまでは、両親と一緒に大宮の実家に住んでいた。この家には結構広い庭があり、両親とも木や花が好きだったので、大きな庭木も含めていろいろな植物が植えられていた。

 話はさらにわき道に逸れるが、玄関の前には枝ぶりのより大きな柘植(つげ)の植木があった。その近くに、兄弟のように同じような形をしたやや小型の柘植の植木があった。父は「隆夫(私のことです)が家を建てたら、この小さい方の柘植を持っていくといい」と言っていた。実家と同じように、私も玄関の前にどっしりと柘植の植木を据えるといいと思って、楽しみにしていたのだろう。しかし、私は、結婚して長い間公務員宿舎に入っており、その後マンションを購入してしまったので、結局、この柘植の木を譲り受けることはなかった(お父さんごめんね)。

 この庭の手入れをするために、実家では年に2回ほど植木屋さんに来てもらっていた。植木屋さんの手入れを見ていると、素人の眼からは「あんなに枝を切り落としていいのか」と思うほどに、植木屋さんは思い切りよく枝葉を刈り取って行った。しばらくは丸坊主になった庭が寂しく感じたほどだったのだが、やがて刈り取った枝から新しい枝葉が生まれ、しばらくすると見違えるほど格好の良い木になっていくのだった。私は、さすがにプロというのはすごいものだなと感心して見ていたものだ。

 さて、実家の近所にAさんという人の家があり、ここにも庭にたくさん植木があったのだが、こちらは全く手入れをしていなかったので、うっそうとした森のようになっていた。ある日、Aさんの奥さんが我が家にやってきて、今度、庭木の手入れをしたいので、お宅に出入りの植木屋さんを紹介して欲しいと頼んできた。もちろん母はこれを引き受け、やがていつもの植木屋さんがAさんの家に入って庭木の手入れを始めた。

 2日間にわたる手入れが終わり、植木屋さんが私の家に報告に来た。この報告は全く意外なものだった。1日目が終わった後、帰宅したAさんは、庭木がすっかり丸裸になっているのを見て「こんなに刈り取られては庭木の意味がなくなってしまう」と怒り出し、翌日は会社を休んで、植木屋さんに「あれは切るな、この枝は残せ」と指示したのだという。植木屋さんは不本意ではあったが、私の母の依頼でもあったので、途中で投出すわけにもいかず、渋々と指示に従って仕事を終えたのだった。植木屋さんは余程悔しかったのだろう、話しながら涙を流していたようだ。私の母も思わずもらい泣きをした。

 私はこのやり取りを見ていて、「人間社会というのは難しいものだな」と思ったものだ。誰もが自分にとって良いと思うことをやっただけなのだ。私の母は好意で植木屋さんを紹介した。植木屋さんはプロとして庭木を手入れした。Aさんは、自分の庭木を自分の好みに合わせようとした。しかし、その結果誰もが不満を持つような結果になってしまった。母は、自分が紹介した植木屋さんの仕事ぶりが、Aさんに気に入られなかったのでがっかりした。植木屋さんは意に染まぬ仕事を強いられて悔しかった。Aさんは、庭木の半分を刈り取られて怒った。

 私はこれまで、この経験は「人々が自分の価値観に従って善意で行動した結果、参加者の全員が不幸になることがある」という悲しい例だと考えてきた。ところが最近、あるマスコミ関係者から、世界的なポピュリズムと経済政策について質問を受ける機会があったのをきっかけに、この植木屋さんのエピソードは、まさにポピュリズムと経済政策の関係を示しているのではないかと考えるようになった。

 人々の期待に単純に応えようとするのがポピュリズムだが、人々の期待はしばしば長期的な見えにくい成果よりも、短期的な分かりやすい成果を求めることになりやすい。すると、人々の求めに簡単に応えていると、長期的にはかえって人々の状態を悪くしてしまう場合がある。これがポピュリズムの弊害だ。植木屋さんの場合は、Aさんの素人考えで庭木の手入れをすると、その時点では良いかもしれないが、長い目で見ると、やはり植木屋さんのように、短期的な見栄えを犠牲にした方が、長期的には植木のためになるのだ。

 というわけで、前置きがすっかり長くなってしまったが、民主党の話に移ろう。

マニフェストのメニューと財源

 民主党のマニフェストには、①子ども手当の支給(初年度2.5兆円、11年度以降は5.5兆円)、②高校の授業料無償化(0.5兆円)、③ガソリン税などの暫定税率の廃止・減税(2.5兆円)、④高速道路無料化(12年度以降は1.3兆円)など巨額の歳出増または歳入減を伴う政策が豊富に盛り込まれていた。確かに、一つ一つを取れば、誰もが喜ぶだろう。しかしこれを全部実現しますと言われたら、「そんなうまい話があるのか」「そのお金は誰が払うのか」と疑った方がいいのではないか。これらの政策を合計すると、初年度の2010年度の所要額は7.1兆円、11年度12.6兆円、12年度13.2兆円、13年度13.2兆円となっていた。

 もちろんマニフェストには財源についての記述もある。これには3つの柱があった。第1は、無駄の削減である。具体的には、公共事業でダム事業、道路整備の見直しなどにより1.3兆円、人件費等で1.1兆円、補助金などで6.1兆円などにより9.1兆円をねん出するとした。

 第2は、政府資産の取り崩し、いわゆる「埋蔵金」の活用である。09年度補正予算で成立した基金類、財政投融資特別会計の資産などを取り崩すことにより5.0兆円を確保するとした。

 第3は、租税特別措置の見直しである。不透明な租税特別措置を全て見直し、役割を終えたものを廃止することにより2.7兆円を確保するとしていた。

 今では、こうした財源措置が絵に描いた餅だったことは分かっているのだが、当時の私は次のように考えていた。まず、埋蔵金については、一回限りの財源だという問題があると思った。埋蔵金は、ストックを取り崩すわけだから、一度使ったらなくなってしまう。これを財源として続けるためには、常に新たな埋蔵金を探し出し続けなければならないのだから、どう見ても一時しのぎとしか思えない。

 無駄の削減についてはどうか。私も役人をやっていたから、行政には無駄な経費が多いことは知っている。しかし、大々的にこれを削れるかというと、必ず、削れば困る関係者が存在するので、現実には難しいと考えるのが常識的だ。従って当初私は「半信半疑」というより「二信八疑」ぐらいに考えていた。しかし、テレビを見ていたら当時の藤井裕久財務大臣がインタビューに答えて、自信たっぷりに「削ろうと思えば削れますよ」と述べているのを見て、「財政のプロの藤井大臣(藤井大臣は旧大蔵省出身で、主計局畑)が、これほど自信たっぷりに言うのだから、もしかしたら本当に出来るのかもしれない」と思い始め、「三信七疑」位になっていた。これには、新政権が事業仕分けという画期的な手法を開始したことも影響していた。

大人気だった事業仕分け

 財政面で民主党がまず直面したのは2010年度予算の編成であった。2010年度については、既に麻生内閣が概算要求をまとめていたのだが、新政権はこれを白紙に戻し、改めて予算編成を始めた。これは、マニフェストに掲げたように政治主導で各大臣は、既存予算を厳しく見直し、できる限り要求段階から既存経費の減額を行うことを狙ったものだった。ところが、10月になって要求を足し合わせてみると、要求総額は95兆円にも達してしまった。さらに別途、金額を明示せず、とりあえず項目だけを盛り込んだ「事項要求」があったので、これを加えると予算規模は実質的にはさらに膨らんでいた。これは、白紙に戻された麻生政権時代の10年度概算要求額92.1兆円よりも多い。新政権は、「官僚主導だから無駄を削れないのだ、政治主導でやれば歳出の削減はできる」と考えていたのだろうが、それはあまりにもナイーブだったのだ。

 鳩山内閣は、大きく膨らんだこの10年度予算の概算要求を3兆円以上削減することを目指して「事業仕分け」を行うこととした。民主党議員と民間有識者による三つのワーキング・グループが設置され、各省のヒアリングを元に事業の要不要を判定していった。この仕分けの場は、一般にも公開されたため、会場となった市ヶ谷の国立印刷局体育館は、報道陣と傍聴者が詰めかけて大変な賑わいとなった。

 確かに、見ている分には面白かったかもしれない。「仕分け人」とされたグループメンバーが、説明する官僚を問い詰めて、次々に廃止という結論を出していく姿は、いかにも無駄の削減に切り込んでいるという印象を与え、民主党の政治主導を強く印象付けるものとなった。

 私も「すごいことをやるなあ」と思って眺めていたのだが、違和感を覚えたのは否めない。実は私は役人時代、この予算要求という仕事が嫌いであった。とにかく要求を通すことが目的なので「これはちょっと論理に無理があるな」「ここまで政策的にやる必要があるのか」という疑問があっても、とにかく突き進むしかない。なんとなく、自社製品の欠点を隠して、いいところだけPRして営業活動をしているような気がしたのである。その私から見ても、事業仕分けですっかり悪役になってしまった役人が気の毒であった。

 各省にとって予算要求は、各省の活動基盤が得られるか否かの問題だから、最優先の課題となる。毎年、各部門がアイディアを出し合って、新政策を打ち出す。役人は、その要求が認められるよう、説得力のある資料を準備し、予算要求に臨む。その議論の相手は財務省の主計局である。ところが突然、その説得相手が仕分け人になった。しかも、通常であれば何日もかけて議論するところを30分程度の短時間で説明させられ、どしどし不採用となって行く。全く気の毒だとしか言えない。

 もう一つ、公開の場での議論という手法にも違和感を覚えた。確かに、「透明性が重要」という建前はその通りだ。しかし、公開され、誰でも見に来ていいし、テレビで放映してもいいということになると、仕分け人は、役人の説明を聞いて「なるほどこれは必要ですね」という結論を出すよりは、役人をとっちめて、予算を削った方が格好がいいと考えるに違いない。これは「決定プロセスのポピュリズム」だった気がする。私はもう役人を辞めていたから、「現役の役人として、こういう場に出て行かずに済んで良かった」と思ったものだ。

 問題はその成果だが、行政刷新会議の報告によると、仕分けの対象となった事業のうち、必要性が乏しい事業を「廃止」や「予算削減」としたことにより、約7400億円が削減された。さらに公益法人や独立行政法人の基金のうち約8400億円を国庫に返納するよう求めた。両者を合わせると、仕分け効果は総額で約1兆6千億円となった。目標の3兆円には全く届かなかったわけだ。

 このことは「無駄を削る」という掛け声だけでは予算を圧縮する効果は乏しいことを物語っている。そもそも、それぞれの事業は何らかの必要性に基づいて企画され、予算措置が取られているものであり、「これは無駄」「これは無駄ではない」と簡単に分けられるようなものではない。無駄を削るという考え方もまた、あまりにもナイーブだったのだ。

 結局マニフェストはどうなったのか。民主党自身が2012年10月にまとめた実績検証では、約160の政策を「実現」「一部実施」「着手」「未着手」の四つに分類して評価している。その結果によると、実現は50施策にとどまっている。

 それでも2010年度の歳出総額は09年度の当初予算より3兆7千5百億円(4.2%)増えて、新規国債の発行額は44兆3千億円となった。その財源については、1年目(2010年度)には9.8兆円を捻出したとされているが、一時的な財源としての埋蔵金が6.4兆円もあった。その後は埋蔵金に頼れなくなり、財政赤字さらに拡大していったのである。

 財政赤字を気にしないのであれば、政策は何でもできる。しかし、当時の民主党の姿勢ばかりをあまり責めてもいられない。その後も、社会保障の財源としての消費税率の引き上げは難航し、コロナショックがあると国民全員に給付金を配る。ロシアのウクライナ侵攻でエネルギー価格が上昇し、ガソリン、電気、ガスの価格が上昇すると、補助金でこれを抑え込もうとする。ポピュリズム的な歳出拡大は今に至るまで続き、財政赤字は膨張し続けている。我々は、長い目で見て庭木を立派に育てたいと思ったら、専門家である植木屋さんの意見を尊重すべきなのである。