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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第111回)

民主党時代の経済・財政政策(4) 幸せの経済政策

 

2022/12/26

 引き続き民主党政権の政策運営について振り返ってみたい。今回はマクロ経済政策を取り上げる。

マクロ経済はどの程度意識されていたのか

 マクロ経済政策で重要なのは、成長、物価、雇用の三つだ。成長については短期的には景気の変動に対応し、長期的には基礎的な成長力を引き上げて行く成長戦略が必要になる。これが経済の常識である。望ましい成長率が達成されていけば、雇用は安定するし、人々の所得水準も向上する。

 民主党政権がスタートした段階では、民主党にはこうしたマクロ経済政策を考えるという発想がそもそもなかったように思われる。あったのは「国民の幸せを目指す」というゆるい方向性だけだった。例えば、民主党が政権交代を実現した時のマニフェストを見ると、ほとんどマクロ経済についての記述がない。成長戦略としては、次のような囲み文があるだけである。「子ども手当、高校無償化、暫定税率廃止などの政策により、家計の可処分所得を増やし、消費を拡大します。それによって日本の経済を内需主導型へ転換し、安定した経済成長を目指します。」この後さらに、「環境関連産業を将来の成長産業に育てる」「農林水産業、医療・介護は新たな成長産業」といった言葉が並ぶだけで、成長についての記述はこれだけである。どの程度の成長率を目指すのか、失業率や物価上昇率はどうなるのかといったことは皆無である。

 要するに、マニフェストに掲げられた事項を実行していけば、自ずから望ましい経済成長が実現すると言っているようなものだ。こうしたことから、民主党の経済政策については「成長戦略がない」「マクロの経済政策がない」と批判されることとなる。

 当時私は既に役所を離れていたのだが、この民主党のマクロ経済への無関心ぶりが気になって仕方がなかった。民主党政権で、マクロ経済政策を担う立場にある経済閣僚と接したことのある人物から間接的に聞いたところによると、この閣僚は全くマクロ経済についての知識を欠いていたという。「再生可能エネルギーへの転換を進めて、太陽光パネルが売れるようになると経済にプラス」といった説明はすぐ頭に入るようなのだが、経済成長率、失業率、物価上昇率など、やや抽象度が上がると、全く付いていけなかったという。この話を私にした人は、この閣僚の無理解ぶりにかなりショックを受けたようだったが、その話を聞いた私もかなりのショックを受けたのだった。

 民主党がマクロ経済に無関心だったのは、日頃からマクロ経済の情報に接する機会が少なかったからかもしれない。例えば、日本政府には「月例経済報告」という長い伝統がある。これは、毎月一度、「月例経済報告等に関する関係閣僚会議」の場に主要閣僚、与党幹部が集まり、経済企画庁(現内閣府)が準備した資料を基に経済情勢についての説明を受けるのである。マクロ経済についての知見が限られている人間でも、こうして毎月説明を聞いていると、自然に「日本の成長率や物価上昇率はどの程度のものか」「経済にはどんな問題があるのか」が頭に入ってくるものである。おそらく野党議員はそういう機会が限られていたのだろう。

 民主党政権になって、経済諮問会議は全く開かれなくなった。これもマクロ経済無関心が影響していたのかもしれない。当時私は、民主党議員の余りのマクロ経済無関心ぶりに、「もしかしたら月例経済報告の関係閣僚会議も廃止されるのではないか」と恐怖を覚えたものである(幸いそんなことにはならなかったが)。

幸福度の行方

 こうした「成長戦略がない」という批判に応える形で、鳩山内閣は2009年12月に「新成長戦略(基本方針)」を決定した。ここでようやく数値的な目標が登場した。この成長戦略では、「2020年度までの平均で、名目3%、実質2%を上回る成長、2020年度における我が国の経済規模(名目GDP)650兆円程度を目指す」としている。大変興味深いことに、これはその後アベノミクスで展開される成長戦略の数値目標と酷似している。すなわち、名目3%、実質2%という成長目標は、2013年6月の安倍政権(第2次)での最初の成長戦略の目標と同じだし、2015年秋の新三本の矢では、名目GDP600兆円という目標を掲げている。政党は異なっても、普通に考えれば似たような成長目標になるということなのだろう。

 この成長戦略の大きな特徴は、「幸福度」という考え方を打ち出してきたことだ。この時の「新成長戦略(基本方針)」の中では、幸福度について次のように述べられている。「数値としての経済成長率や量的拡大を追い求める従来型の成長戦略とは一線を画した。生活者が本質的に求めているのは『幸福度』の向上であり、それを支える経済・社会の活力である。こうした観点から、国民の『幸福度』を表す新たな指標を開発し、その向上に向けた取組を行う」

 これを読むと、いかにもGDP成長率に代わって、幸福度指標を目標にするかのような勢いだったことが分かる。そうなるのも無理はない。鳩山元総理は2010年1月の施政方針演説で、「経済のしもべとして人間が存在するのではなく、人間の幸福を実現するための経済をつくり上げるのがこの内閣の使命です」と述べている。

 当時、こうした動きを見ていた私は、かなりの違和感をおぼえたものだ。その違和感の理由を改めて振り返ってみると、次のようなことだった。第1は、経済政策の目標をどう考えるかに関係してくる。私はかねてから「経済学は、限られた資源の下で、人々を最大限幸せにするにはどうすべきかを考える学問だ」と考えてきた。これはほとんどの経済学者が同意するのではないか。その意味では、鳩山総理が言う「経済のしもべとして人間が存在するのではなく、人間の幸福を実現するための経済をつくり上げる」という指摘は全く正しい。しかし、これは当たり前すぎるほど当たり前のことであり、民主党政権以前の政権が「人間を経済のしもべにしようとしていた」とは言えない。

 それは、「では経済政策はどうあるべきか」を考えれば分かることだ。人々をより幸せにするために経済政策ができることは、「サステナブルな形でできるだけ高い成長率を実現して、人々の所得を増やしていく」「失業を減らし、働きたい人が能力にふさわしい仕事を得るようにする」「インフレでもデフレでもない安定的な物価上昇率を保つ」ことである。それはオーソドックスな経済政策そのものである。人々が何に幸福を感じ、その幸福を得るために何をするかは、それぞれの個人の価値観に依存している。だから、経済政策が人々の幸福感に直接干渉することはできないし、やらない方が良い。

 結局、政府が経済政策によって人々を幸福にするためにやるべきことは、伝統的な成長、雇用、物価というマクロ経済の目標に回帰してくる。鳩山総理は、この点を理解せず、幸福度を測って、その向上そのものを経済政策の目標に据えようとしたのである。

 第2は、幸福度を測れるかという問題である。人々の幸福度を測る試みとしては、大別して二つの方法がある。一つは、幸福に関係しそうな客観的な指標を集めて、これを合成するという手法である。ここではこれを「客観指標法」と呼ぶことにしよう。もう一つは、人々に直接主観的な判断(例えば「幸せかどうか」)を聞いてしまうという方法である。これを「主観指標法」と呼ぼう。

 私が自分の目で見て知っているのは、経済企画庁時代の1992年に、国民生活局が「新国民生活指標(PLI、豊かさ指標とも呼ばれた)」を作成した時のことだ。これは、「住む」「費やす」「働く」「遊ぶ」など8つの活動領域について、豊かさを示す指標を選択してそれを合成するというものだった。典型的な客観指標法である。その結果は都道府県ごとにランク付けして公表された。年によって変動はあったが、多くの場合は福井県が首位で埼玉県が最下位であった。しかし、この都道府県別ランキングの評判はあまり良くなかった。特に、当時埼玉県知事だった土屋義彦氏は「指標の選び方がおかしい」と猛烈に抗議してきた。豊かさが全国で最下位だと言われたら、誰でもいい気持ちはしない。これを受けて、当時の堺屋太一経済企画庁長官は、都道府県別のランク付けを止めるという決断をしたのだった。

 私は、当時、この問題を直接担当していたわけではないが、次のようなことを考えたものだった。まず、「客観指標方式」は、どんな指標を選ぶかの段階で恣意性が入り込まざるを得ないのだから、必ず「なぜその指標を使うのか」という批判が出る。また、何らかの指標を選んだ段階で、国が幸福を定義していることになるのも私は気に入らなかった。例えば、「一人当たりの居住住宅面積」を指標に加えた段階で「広い家に住んでいる人は、狭い家に住んでいる人より幸せだ」というのを判断していることになる。何となくそうだとも思うが、自分の身の丈に合った広さの家に住むのが幸せかもしれないのだし、子供達が独立した後、老夫婦が無駄に広い家に住んでいるというケースも考えられる。

 もう一つは、人口の移動をどう考えるかということだ。当時、土屋知事が指摘した中で私が重要だと思ったのは、多くの指標が「一人当たり」で計測されているということだ。一人当たり公園面積、一人当たり病床数などなど、確かに客観指標の中には「一人当たり」で計測されるものが多い。すると、人口が集中する地域では一人当たりの指標は悪化しがちとなり、逆に人口が流出するような地域では、この指標が改善しやすいということが起きる。さらに考えると、多くの場合、人々の移動は、「暮らしが厳しい地域」から「暮らしやすい地域」への移動であるはずだ。すると、暮らしやすい地域の客観指標は悪化し、暮らしの厳しい地域の指標が改善するということになってしまう。当時の埼玉県は、東京のベッドタウンとして人が集まってくる地域であった。「埼玉県で暮らしたい」という人が集まる結果、豊かさの指標は悪化してしまうということが起きたのである。

 別の角度から見ると、これは次のようなことだといえそうだ。確かに暮らしやすさのような客観指標を作成すると、福井などの地方が上位となることが多い。しかし、これは既にその地域で安定した生活を営んでいる人を対象としている。すなわち、地方部の地域は、生活基盤さえ安定していれば極めて豊かな生活を送ることができるのだが、その安定的な生活基盤の確保が難しいから人々が流出しているということである。

 ついでにもう一段階議論を進めてみると、手間をかけて指標を作らなくても、人の移動さえ見ていれば幸福度は測れるかもしれない。つまり、人が集まってくる地域は魅力が大きいと割り切って考えることができる。これは、経済学で言う「顕示選好(revealed preference)」という考え方である。人がどのような選好を持っているかは、選好そのものを調べないでも、外に現われた結果を見れば分かるという考え方である。例えば、知らない土地で美味しいラーメンが食べたいのだが、どの店に入ったらいいかが分からないとする。こんな時、事前にガイドブックで調べてもいいのだが、行ってみて最も行列ができているラーメン屋さんに入るという手がある。多くの人が並んでいる店は、美味しいから並ぶ人数が多いと考えるのである。すると、地域の豊かさは、わざわざ指標を作らなくても、人口の流出入だけを見ていれば分かるということになる。

 もう一つの、人々に直接主観的な判断を聞いてしまう「主観指標法」については、異なる地域、異なる時代の指標を比較できるかという問題がある。例えば、江戸時代の人と現代の人に「あなたは幸せですか」と質問して、その回答を比較できるだろうか。江戸時代の人はそれなりに幸せだったとしても、現代の人が江戸時代にタイムスリップしたらとても満足できるような生活は送れないだろう。国際比較でも、しばしばブータンは幸せの国だと言われるが、日本人がブータンに行ったら同じように幸せになれるだろうか。一人一人に幸せかを答えてもらった結果を、地域別に比較したり、タイムシリーズでその推移を見るというのはあまり意味がないと私は思う。

 その後、鳩山総理自身が退いたこともあって、こうした幸福度への熱意は、その後鎮静化していく。菅内閣時代に決定された「新成長戦略」(2010年6月)では、幸福度については、「新しい成長及び幸福度について調査研究を推進する」としているだけである。そして野田内閣の「日本再生戦略」(2012年7月)では、ついに本文中からは幸福度指標についての記述はなくなってしまった。明らかに政府の幸福度に対する姿勢は、当初の「GDPに変わる重要指標」から「調査研究の対象」へと変化していったのであり、私はそれで良かったと思っている。

 ただ、この鳩山総理の幸福度への熱意は思わぬ副産物を産んだ。おそらく当時の役人たちは、いくら総理が「幸福度が重要」と叫んでも、本気でGDPに変わる指標になり得ると考えてはいなかったと思う。しかし、総理に「そんなことができるはずがありません」とは言えない。そこで、まずは成長戦略に「国民の『幸福度』を表す新たな指標を開発する」と書いてお茶を濁したのだと考えられる。私が現役の役人だったとしてもそうしただろう。ただ、書いたからには、政府内の誰かが幸福度の指標を開発しなければならない、開発までは行かなくても「開発に向けた調査」はしなければならない。そこで、内閣府の経済社会総合研究所がその調査を行うことになった。調査にはお金が必要だが、目くらましだとは言え、総理の肝いりだからある程度の予算を付けておかないと格好がつかない。こうして、研究所ではかなりの資金を背景とした幸福度の研究が始まり、それは幸福度についてのかなりの研究成果を産むことになるのである。

掛け声だけのスローガン

 民主党政権時代のマクロ経済政策について、2点付け加えておこう。その一つは、スローガンが安直だったということだ。例えば、この成長戦略では「第3の道」という考え方が示されている。問題はその中身だが、この成長戦略によると、「第1の道」は、公共事業による経済成長で、戦後から高度成長期までは、これが成長戦略として有効だった。「第2の道」は、2000年代に構造改革の名の下に進められた供給サイドの生産性向上による成長戦略で、実感のない成長と格差拡大を招いた。そこで「第3の道」を目指そうということになるのだが、その第3の道とは、「2020年までに環境、健康、観光の三分野で100兆円超の『新たな需要の創造』により雇用を生み、国民生活の向上に主眼を置く『新成長戦略』だ」としている。

 しかし、この第3の道というロジックはいかにも経済的根拠が薄い。高度成長が公共投資によってもたらされたと考える経済学者はほとんどいないだろうし、「供給サイドの生産性向上のために構造改革を進める」というのはいつの時代にも求められていることだ。

 また、いきなり「三分野で100兆円」と言われてもその根拠が不明なのだから、どう反応していいか分からない。この場所以外にも、本文を読み進んで行くと、「(2020年までに)50兆円超の環境関連新規市場」「140万人の環境分野の新規雇用」「医療・介護・健康関連サービスの新規市場役45兆円、新規雇用280万人」といった数字が次々に出てくる。しかし、いずれもどういう根拠で計算したのかが全く分からないから、評価のしようがない。そもそも人口減少下の日本で、各分野でこんなに雇用が増えてしまったら猛烈な人手不足になりそうだ。

 「スローガンだけで実態がない」という例は他にもある。例えば、菅直人首相は、2011年1月、スイス・ダボスで開かれた世界経済フォーラム(いわゆるダボス会議)で、貿易自由化の加速により、「第三の開国」を目指すと演説した。「第三の開国」というのは、「第一の開国である明治維新」「第二の開国である第2次世界大戦の敗戦からの復興」に次ぐという位置づけを指している。この中で、環太平洋経済連携協定(TPP)についても「6月をめどに交渉参加に関する結論を出す」と明言していた。当時私は「ずいぶん大きく出たな」と驚いたのだが、結局、「6月に結論を出す」という約束は先送りされてしまった。これも実行可能性を十分検討しないまま、総理の思い付きを述べただけだったので、泡のように消えてしまったのである。

 以上、民主党のマクロ経済政策を批判的に検討してきたが、実は、「スローガンだけで、数字の根拠が分からない」というのは、民主党に限らず、日本のマクロ経済政策の特徴だとも言える。どの政権でも、こうした点は是非改めて欲しいものだ。