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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史 (第116回)

1994年の経済白書(3) こだわりのテーマ 公共投資 ①

 

2023/05/22

 前回は突然現れた「ChatGPT(チャットGPT)」に巻き込まれた話を書いた。今回は、前々回に引き続いて、1994年経済白書について書くことにする。既に述べたように、私はこの白書が、私が執筆する最後の白書になるだろうと考えていたので、思い残すことのないように、書いておきたいテーマは出来るだけ盛り込んでおこうと考えた。いずれも私のこだわりのテーマである。今回は残りのこだわりのテーマの中から「公共投資による景気刺激」という考え方について紹介しよう。

 と思って書き始めてみたら、どんどん思いだしたことが増えていき、たちまちかなりの分量になってしまった。このため今回は、公共投資の議論の途中までで、次回に続きを書くことにする。

公共投資による景気刺激についての初期の考え方

 私は当初経済企画庁に入った頃は「景気が悪いときには公共投資で景気を刺激するのは当然だ」と考えていた。教科書的にも、政府・日本銀行は財政政策、金融政策によって景気の変動を安定化させるべきであり、その財政政策の手段としては、減税と公共投資がある。さらに言えば、減税は貯蓄に漏れてしまう分があるのに対して、公共投資は土地代を除けば、ほとんど全てがGDPにカウントされるのだから、景気刺激策としては公共投資の方が効果的だ、というのが常識的な考えだった。大学を出たばかりの私もそう考えていた。

 今にして思えば、当時はこの考えが革新的で、時代の先端を行く考えだったようだ。

 一つには、1965年に日本経済が不況に陥った時に(「昭和40年不況」と呼ばれた)、それまでの均衡財政を崩して、戦後初めて65年度予算で、公債発行による歳出拡大が行われるようになったことだ。単年度での予算均衡にこだわっていると、不景気で税収が落ち込んだ時に、歳出も縮小してしまい、需要がさらに落ち込んで不景気を加速してしまう。この時の公債は特例国債だったのだがその後は、財政法で認められた建設国債が発行されるようになり、これを財源とした公共投資が行われるようになる。まさにケインズ型の不況対策であり、当時はこれが理論的にも従来の常識を破る革新的な考えだとされたのである。

 もう一つは、日本の社会資本整備が立ち遅れていると考えられていたことだ。1950年代後半から続いた高度成長の時代には、民間設備投資が大幅に増加したのだが、これに比べると社会資本整備のための投資は立ち遅れ気味であった。当時は何かというと、民間資本に対する社会資本の比率が低いこと、道路の舗装率、下水道の整備率などの社会関連資本の整備状況を示す指標が国際的に見劣りすることなどを示すデータが頻繁に登場していた。誰もが、日本が先進国にふさわしい国になるためには、もっと社会資本の整備に力を入れる必要があると考えていたのだ。

 官庁エコノミストの大先輩である金森久雄さんや宮崎勇さんは、こうした主張を展開し、世間で高い評価を受けていた。なお、その後私は次第に公共投資依存型の景気対策に批判的になって行くのだが、金森さんや宮崎さんは、その後も生涯にわたって公共投資重視の姿勢を貫いた。

 日本経済新聞の名物コラム「大機小機」の「越渓」という筆者は金森久雄さんだったと言われているのだが(頭文字のHKを漢字にしたのが越渓)、2011年4月のコラムでその越渓氏は「社会資本を強化せよ」というコラムを書いている(越渓氏の最後のコラムは2011年12月)。そして、3月の東日本大震災で大きな被害が出たのは、政府が長い間公共投資を抑え続けてきたからだとし、公共投資の財源としての国債は、子孫からの借金ではなく、国民に安全な資産保有の道を与えるものだという主張をしている。

 私は、金森さんや宮崎さんから直接薫陶を受けており、その生き方や人間性を心から尊敬しているのだが、だからといって経済に対する考え方まで同じであるわけではない。私は、経済企画庁に入って経験を積むうちに、公共投資による景気刺激という考え方に疑問を抱くようになっていったのである(詳しくは次回で)。

公共投資の乗数効果

 公共投資の景気刺激効果という点で私が最初に興味を持ったのは、その景気刺激効果の大きさをどう考えるかということであった。私は、1976~78年にかけて経済研究所の研究官であった。主な仕事は、マクロ計量モデルの構築である。現在ではあまり注目されなくなったが、需要項目、所得項目などの内生変数を説明する方程式や、国民経済計算上の定義式などを組み合わせた体系を作っておき、これに世界経済、経済政策関係の外生変数を与えて解を出すのである。理論的には、将来の外生変数を与えれば、将来の内生変数が導き出されるはずである。ただし実際にやってみると、そんなにうまくは行かず、出てきた数字をそのまま「将来の予測です」といって世に出すようなものが出てくるわけではない。

 予測はうまく行かないが、経済政策の効果は一応計測できる。例えば、公共投資の経済効果を計測する場合、まず、標準的な外生変数を入れて答えを出しておき(標準ケースという)、次に外生変数である公共投資だけ例えば1兆円増やしたケースについての答えを出す。両者の違いは1兆円の公共投資だけなのだから、この二つのケースの差が1兆円の公共投資の効果だということになる。例えば、1兆円の公共投資の効果がGDPを1兆5千億円増やすという結果が出ると、使ったお金の1.5倍の経済効果があったということになる。これを「公共投資の乗数」という。

 仕事としてこんな分析を毎日やっているうちに、私は、世の中で流布している公共投資の経済効果についての議論が実にいい加減であることに気が付いてきた。中でも気になったのが、「公共投資の効果が小さくなっているのではないか」という議論であった。当時の状況を振り返ってみると、77年頃から政府は公共投資を増やして景気を良くしようとしたのだが、なかなか景気は良くならなかった。これに対して、前述の昭和40年不況の際には、公共投資を増やしたら、比較的短時日で景気が良くなり始めたという経験があった。こうした状況の中で「効果が小さくなっている」という議論が出ていたのである。しかし、モデル分析を行っている立場からすると、これらの議論には間違いが目立った。

 私は、こうした点を私の最初の著書である「日本経済適応力の探求」(東洋経済新報社、1980年)という本で「第5章 財政政策の効果-公共投資の景気刺激効果は低下したか-」という章を設けて論じている。

 なお、話は全くのわき道にそれるのだが、この私の処女作品は、この年の日経・経済図書文化賞の最終選考まで残っている。その後私はたくさん本を出しているが、日経賞の最終選考に残ったのはこれが最初で最後である。当時私は、事情もよく分からないまま、自分で本を抱えて日本経済研究センター(当時は茅場町にあった)の資料室に行って、おずおずと「あの~、日経賞に応募するため本を持参したのですが」と言って本を置いてきた。この時私の本を受け付けてくれたのはIさんで、その後1987年に私が日経センターの主任研究員として派遣された時、私のアシスタントを務めることになる。Iさんは、「著者がわざわざ持参してきてくれた」ことが強い印象となっており、この時の私をよく覚えていた。

 この本で私は、公共投資の経済効果についての世間の誤謬を次々に指摘しているのだが、まず取り上げたのが、「何と比較するか」という問題である。世間では65年の時には景気が良くなったから効果があったが、77年の時はなかなか景気が良くならなかったから効果が小さかったという議論がしばしば出るのだが、これは比較の対象を間違っている。厳密には、公共投資の効果を見たいのであれば、「公共投資を実行する前の経済」と「公共投資実行後の経済」を比較するのではなく、「公共投資を実行しなかった場合の経済」を比較しなければならないからだ。簡単に言えば、65年の場合は、公共投資を実行しなくても景気は好転していたかもしれないし、77年の場合は、公共投資を実行しなければ、景気はもっと悪くなっていたかもしれないのだ。

 この著書では、この点を次のように説明している。

 「この点を考える時、私は竹内靖雄氏の『イソップ経済学』(ごま書房、昭和52年)という本に出ていた次のような話を思い出す。ある化粧品のセールスウーマンのあまりのしつこさに閉口した奥さんが、たまりかねて、そんな素晴らしいものをあなたも使っているというのに、それほどの効果もないようねと皮肉ったところ、相手もさるもの平然として答えた。『いいえ奥様、この化粧品を愛用しているからこそ、この程度になったのでして』という話だ。」

 今にして思えば、この部分は、女性の容姿を例として使っているという点で問題があるかもしれない。今の私だったらこんなことは書かなかっただろう。その後、私は大学の講義でも、この「政策の効果を何と比較するか」という問題を説明するのだが、この化粧品の例を使うのはさすがにためらわれるので、困って、髪の毛が薄い人が毛生え薬を使うという例を持ち出したことがあるが、これもあまり品がいいとは言えない。誰か、いい例を考え付いたら教えて欲しいものだ。

 もちろん、経済は時間をさかのぼってやり直すことは出来ないのだから、「公共投資を実行していなかったらどうなっていたか」を知ることは出来ない。それが唯一できるのは、計量モデルの中だけである。私がこの点にこだわって著書でも詳しく述べたのは、このためであった。

生産誘発効果と需要誘発効果

 当時は、公共投資の中身が変化してきたので、景気刺激効果も小さくなっているのだという議論もあった。それは次のような議論だった。

 当時の公共投資は、かつての道路、港湾整備といった産業基盤的なものから、下水溝、公園といった生活基盤型が中心となりつつあった。ところが生活基盤型の公共投資は労務費に回る割合が高く、鉄、セメントなどの資材の投入比率が相対的に低い。したがって公共投資の中心が生活基盤重視型になるにつれて、公共投資の生産誘発効果は小さくなるというのが当時の議論であった。公共投資が関連産業の生産額をどの程度誘発するかは、産業連関表によって計算できる。著書の中で実際に確認しているのだが、確かに、公園、下水道よりも道路、港湾の生産誘発効果の方が大きい。

 この問題を考えているうちに、私は大変なことに気が付いてしまった。それは、生産誘発効果を見ることは、マクロ経済的にはほとんど意味がないということである。

 なぜなら、産業連関表でいう生産額とは、中間取引を全部加えたグロスの生産額であり、付加価値で測ったネットの最終需要は最初に投入された金額で変わらないからである。考えてみれば当然のことだ。公共投資を1兆円実行したら、産業側が受け取る所得は1兆円しかない。関連産業との間で受発注が繰り返されている間に、いつのまにか生み出される所得が増えることなどありえないのである。関連産業が何らかの資金調達をして設備投資を行えば話はやや違うが、これは産業連関表では捉えられていない。

 この点に気が付いたのも、計量モデルの乗数を計算していたからである。計量モデルの乗数は、公共投資で生み出された所得が利益や賃金となって配分され、それが次の需要を生むというメカニズムによって計算される。この場合は確かに付加価値が増えるのである。

 「生産誘発係数のいかんにかかわらず、1兆円の公共投資によって増えるGDPは1兆円である」「どんな種類の公共投資でも、規模の大小や事業の種類とは関係なく、総額が同じであれば景気刺激効果も同じである」この命題を発見した私はちょっと興奮した。この考えは多くの分野で通説を覆すことになるからである。

 例えば、オリンピックや万博の経済効果を分析するとき、しばしば生産誘発係数を使って経済効果が計算されているのだが、マクロ経済としてはそのプロジェクトに使われたお金の総額が問題になるのであって、生産誘発額がどんな産業にばらまかれても効果は同じだということになる。

 また、リーディング産業とは何かを議論していると、関連産業が多い産業の方が波及効果が大きいのでリーディング産業になりやすいという考えが出る。確かに、自動車産業は関連する産業がやたらと多いので、自動車産業が栄えると経済全体をリードする力は大きいように見える。しかしこれも、自動車を1兆円輸出しても、インバウンドで1兆円海外観光客の消費が増えても、経済的影響は同じである。

 計量モデルによる乗数と産業連関表の波及効果は全く異なる議論であるという点から出発して、一連の通説が次々に否定されていくので、私はすっかり驚いてしまった。その後、私の著作にもこのことを書いたり、いろいろな場で話したりしてきたのだが、どうも私が驚いたほどにはだれも驚かないので驚いてしまった。今では、「あまり大した発見ではなかったのかな」と思うようになった。

 なお、私の著書では、公共投資の乗数効果が低下したのかという点についても分析しており、同じ計量モデルを使って、乗数計算の出発時点を変えることによって、最近時点になるほど乗数がやや低下しているという結果を示している。

 さて、ここまでは公共投資の経済効果についての分析的な面で私が関心を持ってきたことを述べてきた。その後私は、いろいろな仕事を転々とするうちに、公共投資を経済刺激策として使うということそのものに対する不信感が次第に強まって行ったのだが、詳しくは次回で述べることにしよう。