1994年の経済白書(4) こだわりのテーマ 公共投資 ②
2023/06/21
前回は、公共投資の経済効果について私が折々に考えてきたことを書いた。今回は、私のキャリアの中で、公共投資の実態に触れるうちに、私が次第に「公共投資を景気刺激策(または内需拡大策)として使う」という考え方そのものに反感を抱くようになったという顛末を書いてみたい。
公共投資の拡大と財政赤字
前回述べたように、私は、エコノミストとしてのごく初期の段階で、計量モデルを使って公共投資の乗数効果を計測するという仕事を与えられた。当時の私は「これが理論的に考え得る最も精緻な分析だ」と信じて疑わなかった。その私から見ると、「公共投資を積極的に増やせ。そうすれば内需が拡大して景気が良くなる」という議論は、「その結果財政赤字はどうなるのか」という部分についての議論がいい加減であるように見えた。
この間の経緯を振り返ってみよう。前回述べたように、日本で「景気後退時には、財政赤字が拡大してもやむを得ない」「財政赤字が拡大しても、財政支出を増やしたほうが良い」という考えが根付いたのは、1965年の「昭和40年不況」の時である。
ではその拡大した財政赤字はどうなるのか。これについて当時の議論は二つあったのだと思う。一つは、公共投資の拡大で景気が良くなれば、財政赤字もなくなるはずだ、というもので、もう一つが、景気が過熱したようなときには、逆に財政支出を減らして財政を黒字化すれば、いつまでも財政赤字が続くことはないというものだ。
前者については、確かに、一般政府の財政バランス(名目GDP比)は、1966年度に一瞬だけ赤字(0.4%)となったが、その後は黒字に戻っており、66年度に14.9%まで高まった国債依存度も、70年度には4.2%まで低下している。これは、66年度以降、経済が高度成長路線に戻り、66~69年度まで一貫して実質で10%以上の成長率を続けたからである。「一時的に財政支出を増やして財政赤字が増えても、景気が回復すれば取り戻せる」という当時の主張は全くその通りだったのである。
しかし、私が分析していた乗数効果の世界では、そんなことは起きないのだ。私が実際に経済企画庁経済研究所で分析した結果は、「経済分析第69号 短期経済予測モデル SP-18」(1977年11月)という論文に載っているのだが、この時の乗数分析の結果(スタート時点を76年度としたケース)では、1千億円の公共投資を行うと、1年目の名目GDPは1340億円増える。つまり乗数は1.34である。このうちの1千億円は、公共投資自身がGDPとしてカウントされた分だから、公共投資に誘発されて増加したGDPは340億円である。この時財政バランスはどうなっているだろうか。モデルには財政バランスを示す変数があるのだが、残念ながら当時の論文には、その変数についての数値的な記述がない。しかし、公共投資を1千億円増やしたのだから、歳出は間違いなく1千億円増えているはずだ。問題は歳入だが、GDPが1340億円増えたからといって、税収が1千億円以上増えるはずがないのだから、間違いなく財政赤字は拡大するはずだ。
このように厳密に考えなくても、1千億円の公共投資を行ったら、1千億円以上税収が増えるといううまい話があれば、どんなに公共投資を増やしても、財源の心配はないということになる。世の中にそんな都合の良い話があるはずがない。
つまり、66年度の場合は、経済がすぐに高度成長路線に回帰したので、財政赤字は増えなかった。これは、要するに経済の基礎的な成長率が10%程度だったからなのであり、公共投資を増やしたから経済が10%成長になったというわけではなかったのだ。しかし、現実に財政赤字が拡大しなかったのだから、この経験を目にした多くの人々は、「一時的に財政支出を増やしても、それによって景気が良くなれば、自然に財政赤字は解消する」という議論に「なるほど」と思ったのであろう。
次に、もう一つの「景気が悪い時に歳出を増やして、財政赤字が増えても、好況期に逆に歳出を減らせば、景気循環を通じて財政赤字が拡大することはない」という議論について考えよう。
この議論は現実を見ていれば、景気が良い時と悪い時の財政政策は対称的ではないということが分かるから、比較的簡単に否定できる。景気が悪い時には、「歳出を増やして景気を良くしましょう」という提案は多くの人々の支持を得るが、景気が良くなったとき「歳出拡大のツケを払うため、歳出を減らしましょう(または増税しましょう)」という提案は出てこないし、出てきても国民的支持を得られそうにない。
アメリカの経済学者のブキャナンは、ワグナーとの共著『赤字財政の政治経済学』(1979)の中で、政府・政治家は常に公共事業などの人気取りの政策に走り、一方で選挙民はそれによって必要となる税負担を意識することはないので、結局のところ、ケインズ的な財政政策は財政の悪化という事態に至ると述べた。私はこれを見て「全くその通りだ」と思ったものだ。
こうした傾向は今に至るまで続いている。90年代に入り、バブルが崩壊して日本経済が長期低迷状態になると、毎年のように経済対策が打ち出され、補正予算を編成して財政支出を拡大させてきた、安倍政権の時代も同じであった。この間、小泉内閣時代に公共投資の削減が行われたり、消費税の増税が行われたりしてきてはいるが、歳出拡大意欲は格段に強く、財政赤字が累積している。
こうした現実を見て、私は、そもそも最初から「財政支出の拡大によって経済を元気にしようという政策はやらない方が良い」と考えるようになったのである。
政策割り当ての誤り 日米構造協議の場合
1980年代の日本における最大の経済的課題の一つは、日米経済摩擦であった。私は、当時、企画庁の市場開放推進室や公正取引委員会調査課長のポジションにあって、若干関係する仕事をしていたので、この時の議論をある程度は知っている。
この日米経済摩擦の過程で、「日本の公共投資を増やすべし」という議論が出てきた。89年から始まった日米構造協議の中で、アメリカ側は、それまでの個別品目ごとの交渉では効果が出ないと感じ、マクロ経済の観点から日本の経常収支の黒字を減らそうとしたのである。そのベースとなったのは、貯蓄・投資バランスの考え方だ。貯蓄・投資バランスのフレームワークでは、家計・企業の貯蓄過剰、財政収支、経常収支の合計はゼロとなる。すると、経常収支の黒字は、国内の貯蓄過剰と財政赤字の和に等しいという関係が導かれる。これは定義式なのだが、因果関係の式だと読み替えると、財政赤字が増えるほど経常収支の黒字は減るという関係が出てくる。こうした考え方に基づいて、アメリカ側は、日本の貯蓄率の引き下げと投資の拡大を求めてきたのである。
この中で実際に話が進んだのが公共投資の拡大である。日本政府は、アメリカ側の「日本は貯蓄超過なのだから、この貯蓄を利用してもっと道路、下水、公園などの社会資本を充実すべきだ」という要求に答えて、1990年に「公共投資基本計画」を閣議決定した。この計画では、1991~2000年度で、公共投資総額を430兆円とするという具体的な金額が明示された。この計画は、具体的な成果としてアメリカ側も高く評価したのである。私は、この計画策定に直接関係することはなく、横から見ていただけだが「ずいぶんいい加減な議論をしているものだ」と感じていた。
まず、肝心の日米の貿易収支不均衡(日本の大幅黒字)に及ぼす効果がよく分からない。日本の公共投資が増えても、アメリカからの輸入が増えるとは思えない。一体どんなロジックを考えているのだろうか。また、430兆円の公共投資を実行するという計画を決めたことでアメリカは喜んでいるようだが、日本の予算は単年度で決まるのだから、計画の総額が必ず実現するとは限らない。
このようなことを考えているうちに、私はあることに気が付いてしまった。それは、この430兆円というのは、名目なのか実質なのかという何気ない疑問から始まった。閣議決定の文書には、この点について全く記述がないのだ。関係者に聞いても、なかなかはっきりした答えが返ってこない。どうやら、基準年(おそらく90年)の価格で事業を積み上げてたらしい。確かに、10年間の各公共事業別の単価の上昇を見積もれと言われても、関係部署は困ってしまうだろう。しかし、そうだとすれば、430兆円は実質金額であり、計画期間中の物価の上昇、工事単価の上昇は計算に入れていないことになる。
以下は私の全くの推測なので、もしかしたら違っているかもしれないことを断っておくが、私は「これは、誰にも言わない方がいい疑問なのかもしれない」と思い始め、それ以上追及するのを止めることにした。私の推測は、「基準年の価格で積み上げているのだが、それは結果的に関係者のだれにとっても都合が良いからだ」というものだ。計画期間中には当然物価も上昇するので、名目の投資金額は増える。すると、計画にある430兆円という金額の達成はその分容易になる。すると、アメリカは「430兆円はきちんと達成された」として喜ぶ。日本政府も「公約を守りましたよ」と言える。財務省にとっては、物価が上がれば税収も増えているので、財政赤字は少なくて済む。公共事業を推進する国会議員たちは、「巨額の公共投資を実行した」という結果を評価する。全く、いいことずくめだ。そんなところに私が出ていって「430兆円には物価上昇分が入っていませんよ」と言って回ったら、せっかくの寝た子を起こしまくることになる。
それにしても、アメリカの交渉担当者も、マスコミも、経済学者も、この点に誰も気が付かなかったのが、私には不思議で仕方なかった。
地域おこしのための公共事業
最後にもう一つ。私は、内国調査課長を務めた後、国土庁に出向して、地方振興局の審議官というポストに就いた経験がある。この時の私の任務の一つは、条件不利地域の振興であった。条件不利地域の振興というのは、離島、豪雪地帯、過疎地など、地域の環境条件が厳しい地域を政策的に下支えしようというものだ。この政策は、それぞれの「振興法」によって裏付けられていた。例えば、離島の振興については「離島振興法」という法律があり、政府が行うべき助成策が盛り込まれているのだ。
その有力な助成策の一つが、公共事業なのである。各種の公共事業には国から補助金が出るのだが、離島についてはその補助率を高くすることになっているのだ。さらに、何だか手品のようなのだが、自己負担分についても、特別な地方債が認められていて、その償還は地方交付税で賄えるので、結局、離島はほとんど自己負担なしに公共事業ができるという仕組みになっていた。
ある時、国が景気対策で公共投資を増やすという話が来た。私は離島関係者に、この機会に離島の公共事業も大幅に増やしたらどうでしょうと相談してみた。すると、離島関係者の答えは、「一時期大幅に増えるのはかえって困る。できるだけ安定的な事業を継続して維持して欲しい」というものだった。なるほど、突然、事業規模が増えたりすると、地元以外の業者に発注したり、地元外から人手を集めてこないと消化できないかもしれない。それよりも同じくらいの事業を継続して実行してもらった方がいいということなのだろう。つまり、公共事業による建設・土木産業が地域の産業として地域経済を支えているということなのである。
こうした議論を聞いていた私が感じたのは、「これは本来の公共投資ではないな」ということだった。公共投資とは、何らかの社会資本を整備するためのものである。しかし離島振興の場合は、社会資本整備よりも、その背景で事業が行われ、それに伴って所得が発生することが期待されているのだ。これは、社会資本投資ではあるが、その実体は移転支出のようなものかと思ったものだ。
なお、余談だが、こういった条件不利地域の振興法は、時限立法となっており、5年に一回程度、国会で期限を延長した改正法を成立させる必要がある。しかし、それぞれの法律には、強い関心を持っている国会議員(いわゆる族議員)がいるから、単に「期限を延長します」では済まない。何でもいいから「この部分をより前向きに改正しました」という部分を盛り込む必要がある。こうした改正案を工夫し、必要な条文を書き、各方面と調整するのが地方振興局の役割なのである。
私の在任中に、こうした法律改正があり、国会議員に説明して回っていた時のことだ。ある野党の議員が「これは議員立法のはずだが、なぜ皆さんのような役人が説明に回っているのかね」と私に質問してきた。これはまさしくその通りだ。議員立法なのだから、国会議員が内容を考えて、必要な調整、根回しをすべきなのだ。とは思ったものの「全くその通りです」とは言えないので、「確かにそうですが、本件に関しましては、法案の取りまとめに当たった〇〇先生から、この内容で国土庁が各方面の了解を得るようにという御指示がありましたので、私たちが説明に伺った次第です」と、全く役人の模範答弁のようなことを言って切り抜けたのだった。
こうしていろいろな仕事をするうちに、私は「公共投資の経済効果、財政に及ぼす影響を真剣に考えているのか」「公共投資を政治的な取引の材料にしているのではないか」「社会資本整備という本来の公共投資の役割が忘れられているのではないか」といった疑問を持つようになった。こうした疑問が累積していった結果、私は経済政策の手段としての公共投資がすっかり嫌いになってしまったのだった。
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