千両みかんの経済学
2014/06/23
1.価格と価値
価格と価値は同じだと思っている人が多い。確かに、自分が持っているモノを転売しようとしたらいくらの価値があるかといえば、その価値に相当するのが価格ということになる。しかし、自分が保有しようとしていたとすれば、そのモノの価値(私的価値)と価格は異なる。競争的な市場で自発的な取引がなされている場合は、価格と私的価値は異なることが多い。
昔、「100円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで100円は買えません」という藤谷美和子のテレビCMがあった。1977年のことなので、これを知っている人は、それなりに歳を取っている方だということになる。100円でポテトチップスが買えても、ポテトチップスは必ずしも100円で売れないというのは、人によってポテトチップスに与える価値が違うということを意味している。
モノの価値は人によって違う。同じペットボトル1本の水でも、喉が渇いている人とそうでない人では、その価値が全く違うのは明らかだ。ところが、水の価格は人によって異なることはない。一般に、価格というのは、需要と供給で決まる。その時成立する価格というのは、売った人の中でもっとも売りたくない人がぎりぎり売ってもいいと思っている価格であり、買った人の中でもっとも買いたくないと思っていた人が買ってもいいと思っていた価格なのである。ぎりぎり買うことに決めた人以外は、買い手が最大限出してもいいと思っていた価値では買っていないのだ。だからこそ、売買という交換によって人びとは得をするのだ。
あるモノやサービスについて、その私的価値と市場価格を比べて、私的価値の方が価格よりも低い人が売り手になり、私的価値の方が価格よりも高い人が買い手になる。これが交換の利益が発生する理由である。したがって、モノを保有している人は、市場価格よりもそのモノに対する私的価値が大きいからこそ保有しているのである。言われてみれば当たり前かもしれないが、誤解してしまうことも多い。
2.千両みかん
落語の噺のなかには、価格の不思議さを笑いのもとにしたものがいくつかある。なかでも、「千両みかん」は、価格と価値の関係をうまく描写している。この話をしっかり読み解くことができれば、あなたの経済学の理解度はかなり高いことになる。
千両みかんの内容を簡単に紹介しよう。8月のある日、呉服屋の若旦那が急に明日をも知れぬ重病になる。医者によれば心の病であり、心に思っていることがかなえば全快するという。大旦那が番頭に、欲しいものを聞き出すように命じると、みかんが食べたい、ということだ。しかし、江戸時代なので、夏にはみかんがない。番頭は、何としてでもみかんを手に入れてこい、と大旦那に言われる。ようやくたどり着いたのが、天満のみかん問屋である。そこで、無傷のみかんが一つ見つかる。みかん問屋が言う値段は千両。番頭は大旦那に相談すると千両でみかんを買えということになった。若旦那は10房のうち7房を食べたところで、残りを両親に2房、番頭に1房食べてもらうように、番頭に差し出した。廊下に出たところで、番頭は、「3房で300両の価値があるみかん」をもって、逃げることに決めた。
「千両みかん」の笑いのポイントは、個人特有のものやサービスに対する私的価値と共通価値を混同してしまうところである。私たちは、ある品物の価値と言われると、即座にいくらで売れるかという価格のことを思い浮かべる。そういう意味で、価格と価値は同じものだと考えることが多い。この番頭も、この場合の千両という価格は、大旦那の私的価値と等しいが共通価値ではないのに、価格といえば共通価値と同じだと思い込んでしまったのだ。しかし、少し考えてみればわかるが価格と価値、特に私的価値は異なるものだ。
3.勝者の呪い
特殊な場合には、私的価値に近い価格で取引が行われることがある。千両みかんの場合は、買い手が一人でどうしてもほしい、という状態なので、売り手は買い手が買ってもいいぎりぎりの値段で売ることができる。言ってみれば、ネットオークションで一番高い値段をつけた人に売るようなものだ。
もっとも高い値段をつけた人が買っているのだから、転売しようとすれば、必ずそれより低い値段しかつかないはずだ。これが、オークションでいう「勝者の呪い」である。「勝者の呪い」というのは、オークションで落札できる人は、その品物の価値を過大に評価した人だから、かならず損をするというものだ。しかし、オークションで手に入れた品物を転売する気がなければ「勝者の呪い」は発生しない。他人よりも高い私的価値を自分がもっていたとしてもそれは、自分が損をすることにならない。ところが、転売してもうけるとか、その品物を使ってもうけようという場合には、損失を被るという意味で「勝者の呪い」にかかってしまう。プロスポーツ選手がフリーエージェントになった場合、複数の球団の中で一番高い年俸や移籍金をオファーしたところが選手を獲得する。しかし、しばしばその選手の活躍は期待はずれということになりがちだ。
つまり、みかん一個に千両という値段がついたのは、大旦那のみかんに対する私的価値とほぼ等しい金額を、みかん問屋がつけることに成功したからである。売り手独占の状況で、みかん問屋はどうしてもみかんを売らなければならないという状況にはなく、大旦那はどうしてもほしい、という状況であるから、大旦那の私的価値にかなり近い価格がついたのである。それでも、大旦那にとっても私的価値の方が千両という価格よりも高いから、みかんを購入することで得をしている。
競争的な状況であれば、みかんの売り手は多数いるため、売り手間の競争が発生して、市場価格はみかんを売る人の売ってもいいぎりぎりの価格と、みかんを買う人の買ってもいいと思うぎりぎりの価値が一致する値段で取引される。したがって、それ以外の人々は、私的価値より価格が高い人が売り手になり、逆の人が買い手になることで、大多数の人はみかんの売買によって得をするのである。
4.シグナル
ところで、冷凍設備がない時代にもかかわらず、どうしてみかん問屋は、夏までみかんを取っておいたのだろうか。冬がシーズンのみかんは、いくら涼しい倉庫の中とはいえ、冷凍しなければほとんどが腐ってしまう。実際、みかん問屋は、50箱のみかんを保管していたが、ほとんどが腐ってしまって、たった一個だけ無傷のみかんがあったのだ。みかん問屋の主人は、みかん問屋である以上、その信頼に応えるために、いつお客さんが来ても売ることができるように、保存費用をかけてみかんを保管していると主張する。夏にみかんがほしいという客はほとんどいないにも関わらず、万一の需要に応えることができることが、みかん問屋の信頼になるというのだ。これは、コストをかけてみかんを夏まで保管していることは、みかん問屋の信頼の程度を示すシグナルの役割を果たしているといえるだろう。ちょうど、簡単には倒産しない銀行であることを示すために、多くの銀行が中心街に立派な建物の本店や支店を建てることと同じである。
さて、夏に一個しかないみかんは、それが存在していることが、みかん問屋のシグナルになっているのであるから、売ってしまってなくなれば、シグナルとしての機能がなくなってしまう。そういう意味ではシグナルを失う機会費用分をみかん問屋は要求することになる。
ただし、どうしてもみかんが欲しいという人の足下を見てみかんを高く売りつけたという悪い評判がたってしまうと、みかん問屋にとっては、望ましくない。実は、東京版と上方版では、みかん問屋が千両という値段をつける経緯が異なっている。東京版ではみかん問屋は最初から千両という足下をみた値段を提示している。しかし、上方版ではみかん問屋は、最初は番頭に同情して、タダでみかんをゆずってくれるという提案をする。しかし、番頭が「金に糸目をつけない」と見栄を切ったため、みかん問屋は値段を千両にしたのだ。商人の街だった大阪では、評判がものをいうため、みかん問屋は困っている人の足下をみるような行動をとらなかったのに、番頭が見栄を切ったために、逆に高い値段をみかん問屋がふっかけたのではないだろうか。落語の中には意外に深い経済学の議論が隠れている。
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