『サラバ!』の中の経済学
2015/10/20
1.『サラバ!』
2014年度の第152回直木賞の受賞作は西加奈子氏の小説『サラバ!』だ。この小説は、テヘランで生まれた主人公の圷歩(あくつ あゆむ)、姉の貴子、母の奈緒子、父の憲太郎という4人の家族の物語である。テヘラン、日本、エジプト、日本と住む場所を変えながら育つ、主人公の家族の変遷が描かれる。家族や友人、恋人などの人間関係から、人の生き方で大切なものを読者に訴えている。この小説には、あまり経済学の入り込むような余地はないように思えるかもしれない。しかし、この家族は、経済や社会の変化に影響されているし、人間行動の特性にも行動経済学的なバイアスが使われている。さらに、この小説のメッセージのいくつかは、経済学のメッセージと共通している。ネタバレにならない程度に、そのメッセージを紹介してみよう。
2.登場人物
主人公の歩は、「この世界に、左足から登場した。」「まるきり知らない世界に、嬉々として飛び込んでゆく朗らかさは、僕にはない。あるのは、まず恐怖だ。その世界に馴染めるのか、生きてゆけるのか。恐怖はしばらく、僕の体を停止させる。そして、その停止をやっと解き、背中を押してくれるのは、諦めである。自分にはこの世界しかない、ここで生きてゆくしかないのだから、という諦念」をもっていた。
行動経済学でいえば不確実性回避という特性が強い人間として描かれている。主人公の歩の性格特性の一つは、不確実な世界に自ら踏み込むことを嫌うにも関わらず、そうした世界にむりやり放り込まれる経験を積み重ね、その中で諦めや受け身の対応を取ることを選んできたというように解釈できる(注1)。
(注1)不確実性回避については本コラム「2013年6月18日 よく知っているものを選ぶかどうかは遺伝で決まっている?」を参照。
母の奈緒子は、自分が幸福になることを最優先し、ものごとの判断は直感で決めるという性格特性をもっている。「母の人生は、ほとんどこのような直感によって成り立っていた。特に、人物評に関して、それは顕著だった。」「母の場合、その直感を、後々変えることが一度もなかったし、よしんばその人の行いを知ったところで、全く揺るがないという強さがあった。」
自分の幸福だけを最優先にするという点では、母の性格は伝統的経済学の利己的な人間像に近いが、ものごとの判断を直感で決めるという点は、行動経済学が想定する人間像の一つの極端である。行動経済学では、人間は全ての情報を集めて合理的に判断する部分と、直感的に判断する部分の両方を持っていると考えるが、母奈緒子は後者だけの人間だと描写されている。
父の憲太郎は、「身長が183センチもあった。僕が覚えている限り、ずっと痩せていた。とにかく、何かを美味しそうに食べるということをしない男で、目の前に出されたものを、ボソボソと口に入れていた、という印象がある。そのくせ、山に登ったり、泳いだり、体を動かすことが好きだったので、まったく太らなかった。」「ナイフですっと切ったような細い目と、頑丈な鼻、薄いが大きな唇。ハンサムではないが、それこそ、一見して信頼に値すると言っていい、実直さに溢れた顔だと僕は思う」というタイプである。
姉の貴子は、「世界に対して示す反応が、僕の場合「恐怖」であるのに対し、姉は「怒り」であるように思う。姉は産道ですでに、世界の不穏な気配を察したのではあるまいか。そして生まれ落ちる前から、もう怒っていたのだ。」と描写されている。また、「長じてからも、姉の態度には、どこか喧嘩腰の雰囲気があった。」「とにかく姉は、その場所で一番のマイノリティであることに、全力を注いでいた」し、「私を見て!」と全身で叫び続けている人間であった。このように個性的な4人の家族の物語だ。
3.幼稚園での人気投票と経済学
『サラバ!』の中で、経済学的に興味深いのは、幼稚園での人気投票である。主人公の歩が幼稚園で女の子からかなり人気があったことを示すエピソードがある。幼稚園でのクレヨンの色の交換だ。一番人気がある男の子には青、女の子にはピンクのクレヨンが集まる。水色は女の子が「二番目に好きな男の子」にあげる色だ。
一番人気があった男の子は「すなが れん」君だったけれど、「すなが れん」君のクレヨン箱は「青が半分ほどもあったが、そのほかの色は黒、茶色、白、黄土色、など、地味なものだった。」つまり、アンチ「すなが」君も多いということだ。「その点、僕のクレヨン箱は非常に鮮やかだった。数本の青とたくさんの水色、黄緑色、緑などの美しい色たち。僕は決して一番人気の園児ではなかったが、2番か3番につけていた。そしてもしかしたら、そのほうがアンチもいる1番の「すなが れん」より優れていたのではないだろうか。」と著者は言う。
この著者の議論は、多数決のパラドックスとして知られている経済学の議論を上手く使っている。著者は直感的に理解していたのだろうが、3つ以上の選択肢があるとき、そのうちの2つの選択肢のペアで多数決をすると、どのペアと戦っても負けてしまう選択肢が、全体の多数決では1番になるということが発生してしまう。これを防いでくれる投票ルールが、ボルダルールだ。ボルダルールは、選択肢が3つであれば、1位に3点、2位に2点、3位に1点という配点をして、得点の総和で選択肢を順位づける。クレヨンの色に、青が10点、水色が9点というように点数化すれば、主人公の歩が、幼稚園では一番人気という結果になったかもしれない。
4.再分配に対する考え方
父である憲太郎の再分配への考え方も経済学者からみると興味深い。エジプトで見た子どもの物乞いへの態度に、父の勤労観が現れている。「ええか。例えばあの子が、花とか、新聞紙を売ってるんやったらええ。花代や新聞紙より、ちょっと多めに金をやったらええんや。でもあの子は働いてないやろ?ただ金くれって言うだけの子に、金をあげたらあかん。」こう言った父に対し、主人公は「僕は、昨日エレベーターを呼んだだけで、父から金をもらっていたドラえもんを思い出していた。あれも働いた対価だといえるのだろうか。そもそも、こんな小さな子どもが、働いて金を得ることが、出来るのだろうか」と疑問を呈する。
「努力をすればそれが報いられる。」「努力しているならば助けてあげる。」という高度成長期の完全雇用の時代の父の価値観と、努力をしても報いられない可能性が大きくなったバブル崩壊後の日本に育った主人公(著者)の世代の価値観の差が、現れているように思う。
物乞いをしているエジプシャンの子どもたちに対する母の態度に主人公が疑問をもつことも経済学的には面白い。母と歩がエジプシャンの子どもたちに囲まれたとき、主人公は「卑屈に微笑んでいた」のに対し、母は「汚い、あっち行き!」「触るな!」「ついて来るな!」と追い払う。そのやり取りの中で、「僕が結局、彼らを下に見ていたことに」気づく。「扱いづらい、僕たちとはレベルの違う人間だと、認識していたことに」気づくのだ。そして、「一度そう思うと、父のおかげで大きな家に住んでいること、学校に通っていること、すべてのことが恥ずかしく思えてきた。」「僕と「彼ら」とに、どのような違いがあるのだろう。どのような違いが、この現実を生んでいるのだろう。」という格差の源泉に関する疑問をもつきっかけになっている。これは、拡大しつつある日本の格差も、エジプトにおける格差の現実と比べれば小さいので、その認識が所得分配のあり方に対する素朴な疑問につながるのだろう。
5.他人との比較と幸福感
この小説の一つのメッセージは、他人と比較してばかりいると幸福になれないというものがある。例えば、主人公の歩の元恋人の紗智子が写真家として活躍していく様子をみて、歩はフリーライターとしての自分の仕事が順調であっても「紗智子がやっている仕事と自分を比べてしまって、決して満足することは出来なかった」と感じる。そうした自分の特徴について、立ち直った姉から「あなたも、信じるものを見つけなさい。あなただけが信じられるものを。他の誰かと比べてはだめ。もちろん、私とも、家族とも、友達ともよ。あなたはあなたなの。あなたは、あなたでしかないのよ。」と諭されるのだ。
6.代替可能性と仕事
生きていく上で、他の人との代替可能性が低い技能をもたないと市場価値が下がってしまうことをつぎのように表現している。
「編集者がライター業を兼任していたって、その人にしか書けない文章を書く人には、仕事は来ている。僕の仕事に、皆が魅力を感じなくなったのだ。」「今橋歩その人に頼む理由がなければ、当然代替が利く。」「自分にしか書けない専門分野を作っておいた方がいい。」
7.多様性
この小説の一番重要なメッセージは、多様性の重要さを指摘していることだ。主人公は、イスラム社会でコプト教徒として生きて行くことについて質問したある友人に質問する。その時の友人の返事は、つぎのものだ。
「大切なのは、人がひとりひとり違うことを認めることだ。」
「僕はコプト教徒だ。そして、僕の友人はイスラム教徒だ。信じるものは違うが、違うからこそ、協力しなければいけない。今のこの国の状況を知っているだろ?僕たちは手を繋ぐべきなんだ。」
「大切なのは、違う人間が、違うことを認めて、そして繋がることだ。宗教なんて関係ないんだ。」
このメッセージは、能力が多様な人が、お互い得意なことに集中して「比較優位」を活かして市場や互恵性を通じた交換をすることで、全員がより豊かになるという経済学のメッセージと共通しているのだ。
ここで紹介した以外にも多くの部分で経済学と関わっているのだが、ネタバレになる部分もあるので、是非、小説そのものを読んで、経済学との関わりを探して頂きたい。
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