放蕩息子の定理
2015/11/18
1.放蕩息子
経済学には、「比較優位」「囚人のジレンマ」など様々な法則や定理があるが、最もユニークな名前がつけられている定理はBecker(1974)による「放蕩息子の定理」(Rotten-Kid Theorem)だろう。放蕩息子と聞けば、新約聖書に出てくる放蕩息子のたとえ話を思い浮かべる人も多いだろう。二人の兄弟がいて、父親から財産の半分を生前贈与としてもらった弟が放蕩をつくしてその財産を使い切り、飢えそうになったところで実家に帰ってくる。父はその息子を歓迎し祝宴を開く。兄の方は父に不満を述べるが、父はそれをたしなめる。
「放蕩息子の定理」とは、このような父に息子に対する利他的な心があり、息子はそれを知っていたならば、息子はそもそも放蕩をしないという定理である。
2.統一的世帯モデル
どうして、そんな意外な結論になるのだろうか。実は、それこそが、家族の中でお金の配分がどのように決まるのかについて、ある程度もっともらしい仮定の論理的な帰結なのである。
家族が稼いだお金を家族の構成員にどのように配分するかは、どの家族にとっても大きな問題だろう。伝統的な経済学の考え方では、家計の世帯主が独裁的に意思決定する統一的世帯(unitary household)モデルを想定している。この想定では、世帯主は独裁的に家族間に資源を配分する(小遣いを配分する)と考えているが、世帯主の好みだけがその配分に反映されている、そう考えているわけではない。世帯主は家族のことを考えて利他的に行動しているという考え方がその背景にある。
たとえば、家族の誰かがお金を失くしてしまったとか、急にお金が必要になったということが生じれば、世帯主は他の家族に振り向けていた資金を少し減らして、困っている家族への援助に使うことになる。世帯主はなんでも自分勝手にするわけではなく、家族全体の満足度が下がらないような行動をとるのだ。
たとえば、夜ベッドで明かりをつけて読書をしたいという場合、妻が寝不足になってしまう不快感と自分の読書の効用とを比較して、もし妻の不快感の方が自分の読書の効用よりも大きければ読書をしない。逆に、読書をすることの価値が妻の寝不足という不快感を上回るのであれば、読書をして、妻にその分の金銭的な補償をすることで、妻も満足度が高くなるというわけだ。こういうタイプの世帯主を考えると、家族の誰がどれだけ稼いでいるのかということと、誰がどれだけ消費しているかはまったく無関係になる。
これこそが家族全体のことを考えている世帯主の行動基準である。こういう行動を世帯主がとっていることを家族の構成員全員が認識しているなら、「放蕩息子の定理」が成立するとBecker(1974)は主張した。
放蕩息子は自分勝手で、自分のことしか考えていないので、自分の家族からの支援を含めた取り分さえ最大になればいいと思っているとしよう。さらに、放蕩息子は自分が身勝手な行動をすると、親の所得が減ってしまい、自分に対する支援も減ってしまうことを知っていたとしよう。一方、親はこの放蕩息子のことを十分に愛しているので、家族の所得が増えれば、その分手厚く放蕩息子を支援しようとするだろう。
その場合、放蕩息子は家族全体の所得が最大になるように振る舞った方が、自分への所得も最大になる。そのため、放蕩息子はもともと利己的であるにも関わらず、家族全体のことを考えて行動するようになる。つまり、親の愛が十分にあれば、そのことを知っている放蕩息子は親に対する愛がなくても、愛があるように振る舞うのである。本当に利他的な親の利他的行動と、本当は利己的な放蕩息子の利他的行動によって、見かけは家族全員が利他的な行動しているように見えるというのである。
放蕩息子の定理は、夫婦の関係でも応用できる。日本では妻が財布を握っている家計が多い。妻は世帯全体の所得が増えれば、夫を愛しているので、夫への小遣いを増やしてくれる。そのことを知っている夫は、仮に家族のことを何も考えていない自分勝手な人であっても、家族の所得が最大になるように仕事を一生懸命する。つまり家族思いの夫と同じ行動をとる。
逆のケースも考えられる。夫が家族へのお金の配分を決めているとする。夫は家族思いだけれど、妻は自分のことしか考えていないとしよう。夫は妻のことを愛しているので、家族の所得が増えれば、妻への小遣いを増やすことを考えている。その場合、妻は家族の所得が最大になるように、夫の仕事を手伝ったり、夫の仕事の成功につながるように服を選んだり、食事に気を配ったりして、結果的には、夫思いの妻と同じ行動をとることになる。
3.放蕩息子の定理が成り立たない場合
もっとも放蕩息子の定理も完全ではない。Bergstrom(1989)が指摘するように家族の構成員の損得を、金銭的に移転することで補償できないと難しい。たとえば、子どもの行動が家族全体の所得に影響を与えるのではなく、親の効用(満足度)に直接影響を与えるような場合である。その場合は、親は子どもの行動を条件にして、子どもへの所得移転を行うようになる。具体的には、子どもが親の介護をしてくれたら遺産を子どもに渡すというような戦略的な行動がそれに該当する。この場合、所得移転を遅くすることで、放蕩息子によい行動をさせることができる。Bernheim, Shleifer, and Summers(1986)は、こうしたモデルを提唱し、親の資産が多い子どもほど、親を訪ねたり電話をかけたりしていること、それは一人っ子には観察されないということを実証的に示した。
もう一つの可能性は、放蕩息子は無駄遣いしてお金がなくなったら親が助けてくれると思って、貯金をしなくなるという問題が発生することだ。つまり、家族全体の資源を最大にするように行動はしてくれるけれど、自分への所得移転が多くなるようにわざと無駄遣いをして貯蓄をしなくなるというのである(Bruce and Waldman(1990))。
これを防ぐために、早めにお金を渡すと、無駄遣いはしなくなるかも知れないが、半面、家族全体のことを考えてくれなくなる。こうした現象は、新約聖書に恵まれない人を救う心優しい人々として出てくるサマリア人が直面することになるジレンマという意味で、「サマリア人のジレンマ」とよばれている。
サマリア人のジレンマは、たとえば、災害に対する補償でも問題とされる。危険な地域に住んでいた人たちが、災害にあった時、彼らの生活を完全に政府などが補償するとしたらどうか。結果として、危険な地域に住んでもいざとなったら資産も含めて守ってもらえるとなれば、土地の価格が安い危険な地域に住む人が増えてしまうかもしれない。
4.集団的世帯モデルと貧困対策
誰かが独裁的な家計の資源配分権をもっていたとしたら、放蕩息子の定理が成り立つ可能性があるが、こうした統一的世帯モデルが、そもそも成り立っていないのではないか、という議論も多い。夫婦や家族の間で好みが違っていて、それぞれが利己的だということが現実には多いだろう。こうした世帯は、集団的世帯モデルとよばれている。この場合、世帯員が世帯内で受け取る所得は、それぞれの世帯員の交渉力にも依存することになる。もし、離婚したりして家族から独立して生活したときの生活水準が高い人がいたとすれば、家族内でその人の交渉力は高くなるだろう。
途上国での多くの研究は、夫よりも妻に金銭的支援をした方が子どもの栄養状態や就学状態がよくなることを示している。これは、統一的世帯モデルよりも集団的世帯モデルの予測と整合的だ。日本でも、親子が同居していると、親と子のどちらの所得が多いかが、食事で肉と魚・野菜のどちらが多いかに影響することが知られている(Hayashi 1995)。親の所得の方が多いと、高齢者が好む魚や野菜への支出が多いのだ。
統一的世帯モデルが成り立っているのなら、貧困家庭に援助をすれば、その世帯でもっとも困っている人が自動的に助けられることになる。貧困家庭の中で最も援助が必要なのが子どもであれば、世帯主にお金を渡せば、子どもたちが支援を受けることになる。
しかし、集団的世帯モデルが成り立っているのであれば、誰に援助を渡すかで、その効果は全く異なってくる。貧困家庭の子どもを支援するつもりで父親に現金給付をしても、子どもの学費に使われるのではなく、親のギャンブル代や酒代に使われてしまうということが生じてしまう可能性があるのだ。子どもに使いたいと思っているのが母親であれば、母親にお金を渡さないと子どものためには使われない。集団的世帯モデルで、貧困世帯の子どもの教育支援をするには、お金ではなく、教育にしか使えないバウチャーや現物給付で支援することが有効だ。つまり、家族の意思決定が、統一的世帯モデルなのか集団的世帯モデルなのかという家族の意思決定のあり方が貧困対策のあり方を変えるのである。
参考文献
Becker, Gary S.. “A Theory of Social Interactions”. Journal of Political Economy 82.6 (1974): 1063-1093.
Bergstrom, Theodore C.. “A Fresh Look at the Rotten Kid Theorem–and Other Household Mysteries”. Journal of Political Economy 97.5 (1989): 1138-1159.
Bernheim, B. Douglas, Andrei Shleifer, and Lawrence H. Summers. “The Strategic Bequest Motive”. Journal of Political Economy 93.6 (1985): 1045-1076.
Bruce, Neil, and Michael Waldman. “The Rotten-kid Theorem Meets the Samaritan’s Dilemma”. The Quarterly Journal of Economics 105.1 (1990): 155-165.
Hayashi, Fumio. “Is the Japanese Extended Family Altruistically Linked? A Test Based on Engel Curves”. Journal of Political Economy 103.3 (1995): 661-674.
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