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大竹文雄の経済脳を鍛える

謝罪を経済学で考える

 

2017/01/17

 不良品出荷や違法行為が発覚して、企業のトップがテレビで頭を下げて謝罪している映像を見かけることが多くなった。芸能人が不倫をしていたということで、謝罪だけでなく、CMやテレビ出演をキャンセルされるということも多い。

 謝罪するというのは、それまでに築かれていたお互いの信頼関係を、故意または過失による行為によって壊してしまった場合に、信頼関係を回復するために行うものだ。謝罪の中には様々なものがある。金銭的な補償をともなうものもあれば、そうでないものもある。芸能人がテレビで視聴者に向かって謝罪したとしても、視聴者は金銭的な補償をうけるわけではない。言葉だけの謝罪を受けただけで、視聴者は芸能人を許し、再び信頼することになるのだろうか。「ごめんで済むなら警察はいらない」と言われるように、謝罪だけでは許されないとも言われる。

 私たちは、言葉だけの謝罪を受けただけで、信頼を壊してしまった人を許し、信頼関係を取り戻すのだろうか。経済学的には、金銭的・非金銭的な負担をともなわない謝罪はチープトークと言われ、もともと関係者の利害が一致する部分があるような場合を除いては、相手に信頼されないと考えられている。言葉だけの謝罪そのものが有効ではないはずなのに、有効な場合があるのはどうしてだろうか。

シグナルとしての謝罪

 口頭や書面による謝罪は単なる言葉だけのものでは、チープトークであるので信頼を取り戻すことができない。謝罪が信頼を取り戻すために有効なのは、それが金銭的・非金銭的コストを伴うものでないとだめだ.このことを理論的に明らかにした経済学の研究がある(Ho(2012)、(2014))。金銭的・非金銭的なコストを伴って謝罪して初めて、人々は本人が本気で謝罪し、行動を改めるということを信頼する。つまり、謝罪が単なるチープトークではだめで、本気の気持ちを示すためのシグナルとしてとらえられて初めて、人々はその人を許し、再び信頼してもらえるのだ。

芸能人がなんらかの問題をおこして謝罪したあと、テレビ出演をキャンセルしたり、活動を自粛したりするのは、謝罪が本気である証拠として、自分の収入を減らすというコストを払っていると考えられる。人々は、あれだけの減収というコストを払っているのだから、本気で謝罪して行動を改めるのだろうと信頼するのだ。もし、謝罪しただけであれば、それは本当に反省していないと受け取られてしまう。芸能人が謝罪して活動を自粛したところで、テレビの視聴者は恩恵を受けるわけではない。売り上げや所得が減少するのはスポンサー、事務所関係者と本人である。スポンサーは、そのような不祥事の場合は、損害補償を受ける契約になっているはずなので、出演自粛によって芸能人が一番大きなコストを払う。もし、出演自粛しない場合は、メディアやネットで大きなバッシングを受けて、人気そのものが大きく低下するだろう。ところが、バッシングする人たちは、その行動によってなんらかの利益を得ているわけではない。

 こうした出演自粛にともなう所得の低下やメディアによるバッシングという費用を払うことで、謝罪は本人が本当に反省して行動を改めるというシグナルになるのだ。もし、十分な費用をかけて謝罪していない場合、そんなに費用をかけないはずだ、と人々が予想するので、本気の謝罪であることを示すには、誰も得をしないのにも関わらずその代わりのコストを支払う必要がある。

 コストを払った謝罪の例として、2004年に起きた大手テレビ通販会社の顧客情報漏えい問題がある。その会社は問題発覚後すぐに自主的に営業活動を全面停止した。その期間は49日間。この49日間に、約150億円を機会費用として支払ったといわれている。もし営業していたら約150億円の売り上げがあったはずだからだ。しかし、その会社は翌年に当時で過去最大の売り上げを記録した。49日間営業停止するという時間的コストを支払ったことで信頼を回復したとも言える。もちろん、経営者の誠実な対応というのも信頼を取り戻す大きな要因である。

 アメリカの元大統領のビル・クリントンは大統領時代に、女性との「不適切な関係」が発覚した。まさに世紀の大スキャンダルだ。世間から大バッシングを受けた。そこで、ビル・クリントンは、その関係を認めて国民に向けて謝罪した。するとビル・クリントンの好感度は上がった。ただし、クリントン氏は、政治家としてのコストも十分に支払ったといわれている。Tiedens (2001)の研究によれば、クリントン氏が関係を認めて謝罪した映像を見た人々は、政治家としての能力も低くみなしたのだ。つまり、クリントン氏は、謝罪することで、政治家としての有能さという評価を下げるという大きなコストを払ったので、人々に許されたというのである。

不十分な金額なら出さない方がまし

 では、費用を伴う謝罪をすれば、許されるかというとそうではない。本気度を示すシグナルとなるためには、相応の費用が必要だ。ネットショップには、店の評価を示す星印が顧客から表示される。この評価の高さは店の売り上げに大きく影響する。店側としては、サービスが不満で低評価をつけた顧客にその評価を取り下げてもらいたい。どのような謝罪をすれば、顧客は評価を取り下げるだろうか。Abeler, Calaki, Andree, & Basek (2010)は、eBayで謝罪の仕方についてつぎのような実験を行った。サービスが悪いことに不満を述べて、低評価をつけた顧客に対し、3つのタイプのメールを送った。

① 「配送が遅れ申し訳ございませんでした。私どもの会社への入荷が遅れたのが原因ではございますが、謝罪致しますので、あなたの低評価を取り下げていただけないでしょうか」という、誠実な謝罪文のみ。

② 「250円振り込みますので、あなたの低評価を取り下げていただけないでしょうか」という連絡

③ 「500円振り込みますので、あなたの低評価を取り下げていただけないでしょうか」という連絡

もし、経済合理的な人であれば、500円の振り込み提案の場合が低評価を取り下げる比率が最大になり、次に250円、そして、謝罪文だけの場合がもっとも少ないはずだ。しかし、実験の結果は、①の謝罪文のみの場合が最も取り下げ比率が高く44.8%だった。そのつぎは、③の500円(実際の論文では5ユーロ)支払いで、22.9%、そして最も低い取り下げ比率だったのが②の250円(2.5ユーロ)のケースだった。丁寧な謝罪文の方が、少額でまともな謝罪がない提案よりも人々は許してくれるのだ。

謝罪法

 日本では当たり前の「謝罪の文化」が海外にも広まっている。それが訴訟大国といわれるアメリカの各州で施行されている「Sorry Law」別名「アイムソーリー法」という法律だ。1986年にマサチューセッツ州で初めて施行されてから、2000年頃からアメリカ各州に広まって、現在36の州で施行されているアメリカでは画期的な新しい法律だ。アメリカでは「権利」を主張して、訴訟では何があっても謝ってはならない、謝ったら最後、責任があることを認めた証拠になるという風潮があった。しかし、「アイムソーリー法」では、医療事故が起きた場合、「ごめんなさい(アイムソーリー)」と謝ってもそれが訴訟における証拠とはならない、後で訴訟となっても謝ったことから不利にはならない、という法律だ。

 この法律ができた背景には、「医者は訴訟を恐れて謝罪をさける傾向がある」ということや、「患者は怒りのために訴訟することが多いが、その怒りの理由が、医者が決して謝罪しないこと」というのがあるそうだ。そこで、医療過誤があった時、医者が患者に謝罪して関係を良くしようという意図があったのだ。

Ho and Liu (2011)は、この法律が通る前と後を比較して、謝罪法が通った州では、医療過誤の訴訟は、19〜20%早く和解して、訴訟数自体も16〜18%も減少したということを明らかにしている。したがって、謝罪するということは、社会的なコストを下げることに繋がっているので、経済学的にみても合理的だといえそうだ。

 できれば、謝罪するような状況には陥りたくないものだが、そうなった場合には、うまく謝罪するために経済学の知見を利用していただきたい。


文献

Abeler, J., Calaki, J., Andree, K., & Basek, C. (2010). “The power of apology.”Economics Letters, 107, 233–235.
Ho, B. (2014) “The science of apologies with experimental evidence,” (http://voxeu.org/article/economics-apologies)
Ho, B. (2012), “Apologies as Signals: With Evidence from a Trust Game”, Management Science 58(1): 141-158.
Ho, B. and E. Liu (2011), “Does sorry work? The impact of apology laws on medical malpractice”, Journal of Risk and Uncertainty 43: 141-167.
Tiedens, L. (2001), “Anger and advancement versus sadness and subjugation: The effect of negative emotion expressions on social status conferral”, Journal of Personality and Social Psychology 80(1): 86-94.