50年前に始まる現代日本経済
2014/02/17
【東京オリンピックが開催された1964年】
今から50年前の1964年10月10日から2週間にわたって東京オリンピックが開催されたことは、2020年の東京オリンピック開催が決定した際に、改めて思い起こされたところです。また、そのオリンピック開催に先立つ1964年10月1日に東海道新幹線が開通したことをご存知の方も多いかと思います。首都高速道路は一足早く1962年に一部が開通していますが、これも東京オリンピックに照準を合わせた一大プロジェクトとして取り組まれました。このように、1964年という年は、東京が世界的な大都市に変貌を遂げた年でありました。
しかし、実は、東京に限らず、日本全体にとっても、1964年という年は、先進国の仲間入りをした年として重要な意味を持っています。
【先進国の仲間入りをした1964年】
まず1964年4月1日に日本は、国際通貨基金(IMF)協定の第8条を受け入れることになります(IMF8条国)。これは経常的な支払いに対する為替制限の撤廃等を義務付けるもので、先進国であるための必要条件です。事実、これに伴って、それまであった「外貨予算制度」が廃止されることになりました。外貨集中制の下で政府に集中された外貨の使途を、外貨予算に基づいて規制することがなくなったわけです。これを機に、海外渡航も自由化されました。こうした我が国の取り組みを評価して、1964年9月7日にはIMF世銀の年次総会も東京で開催されます。
また1964年4月28日には、先進国クラブと言われる経済協力開発機構(OECD)に加盟をします。これ以降、加盟国中第2位の拠出で貢献をしながら積極的にその活動に参加し、先進国に相応しい政策や制度の検討や実現に努力をしていくことになります。
【今日の構造と課題を形作った40年不況】
このように戦後20年足らずで日本は先進国入りを果たしました。しかし、その直後から経済的な試練に直面することになります。東京オリンピック直後の1964年(昭和40年)10月に始まる「40年不況」です。
「40年不況」の期間は1965年10月までの1年間で、特に長いわけではありません(これまでの景気後退局面の平均的な長さは約16カ月です)。その期間中の実質GDP成長率も5.5%を上回っており、決して低くもありません。にもかかわらず、「40年不況」は、山陽特殊鋼や山一證券といった大企業の経営破綻を伴い、「構造不況」とも呼ばれたように、これまでになく深刻なものと受け止められました。その背景には、以下に見るように、40年不況の前後で日本経済が大きな構造変化を遂げたことがあったように思われます。
(国際収支・外貨準備面)
第1に、「40年不況」の前後で、国際収支と外貨準備の状況が大きく変わりました。
高度成長期前半(1955年~1964年)には、輸出力がまだ弱く、外貨準備も低水準に止まっていたため、景気が拡大すると経常収支が赤字になり、金融引き締めを強いられるということがしばしば見られました。いわゆる「国際収支の天井」が大きな制約となっていたのです。しかし、後半(1965年~1970年)になると、輸出の伸びが高まり、経常収支が黒字基調を示すようになり、外貨準備も増加傾向に転じたため、景気拡大に対する国際収支上の制約が取り払われることになります。
今日に至るまで続いている経常収支の黒字構造が形作られたのがこの時期だったのです。
(経済成長面)
第2に、「40年不況」の前後で、高度成長の原動力の転換が見られました。
高度成長期前半(1955年~1964年)の原動力が設備投資であったのに対して、後半(1965年~1970年)のそれは、既に見たように輸出に依存するところが大きくなっていたのです。その意味では、前半のような設備投資の増加基調は続かないとの認識を示した「転型期論」は、的を射ていたように思います。
もっとも、需要項目別寄与度でみると、後半であっても、設備投資の寄与度には高いものがありました。しかし、それは前半とは性格が異なっていたように思います。前半が、「投資が投資を呼ぶ」といった内生的なものであったのに対して、後半は、いわば「輸出が投資を呼ぶ」といった、輸出を起点とした外生的なものになっていたのではないかと思われるのです。
このように、今日に至る外需主導型の経済の姿もこの時期に始まったのでした。
(財政面)
第3に、それまで守られてきた均衡財政主義(国債不発行主義)が放棄され、国債発行が開始されたことです。
その背景には、社会保障関係や教育関係費が増加傾向を示して「財政が硬直化」したのに加え、公共事業関係費も拡大を志向する中で、不況による税収減が生じたことがありました。このため、1965年度(昭和40年度)の補正予算で、財政法が成立した昭和22年以後では初めての国債が発行されることになります。1965年度に発行された国債は、財政法特例法の成立に基づく「特例国債」でしたが、1966年度以降は、財政法に認められた「建設国債」が発行されるようになります。そしてこの建設国債の発行は、この後、常態化することになります(ちなみに特例国債が次に発行されるようになるのは第1次石油危機の直後の1980年度で、その後は、特例国債の発行も常態化することになります)。
財政構造の面でも、「40年不況」に、今日直面する問題の端緒が見られるのです。
(金融面)
なお、金融面では、1980年代以降の構造変化が大きく、これまで見てきた分野と事情は多少異なります。しかし、金融面でも、「40年不況」において、それまでに見られなかったような政策対応を迫られたという点では記憶しておくべきことのように思います。
日銀は、1962年11月から、日銀貸出に依存したオーバー・ローン体質を改めるために「新金融調節方式」を採用し、貸出限度額の設定による金融調節と債券売買を通じた成長通貨の供給を行うこととしました。しかし、「40年不況」は、そのような金融政策による対応では収まりませんでした。「40年不況」は証券不況の性格も併せ持っており、この時期、山一證券と大井証券が経営破綻をするのです。
このため、日銀は両証券に昭和恐慌期以来の特別融資(日銀特融)を実施します。また、市場の需給を安定化させることを狙って金融機関は、共同して日本共同証券株式会社、続いて日本証券保有組合を設立し、市場からの株式購入を行わせます。これに対して間接的ながらも資金を供給したのが日銀だったのです。
金融面でも、「40年不況」において、金融システムの安定化のために、伝統的政策とは異なる対応を迫られたのです。
【1964年~65年の意義】
以上のように、日本は、戦後の復興を経て、今から50年前にようやく先進国の仲間入りすることになりました。それだけでも1964年は重要なエポックだったと思います。しかし、日本経済は、その直後に直面する「40年不況」から、今日につながるような経済・財政構造を育むようにもなったのです。そういう意味では、今日との連続性を強く考えさせられる時期でもあるのです。
経済成長率という量的な側面からだけみると、1955年~70年の時期を一括して「高度成長期」と捉えることになります。しかし、経済・財政構造という質的な側面に着目すると、1964年~65年が大きな画期であったことが浮かび上がってくるように思うのです。
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