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齋藤潤の経済バーズアイ (第41回)

人民元の切り下げと「二重の移行過程」

 

2015/08/14

【人民元の切り下げ】

 中国人民銀行は、為替相場の変動幅の中心となる基準値の計算方法を変更したとの理由で、8月11日に人民元の対米ドルを1.8%切り下げました。その後も切り下げが行われ、切り下げ幅は8月13日までの累計で4.5%程度となっています。

 この切り下げの経済的な意味を評価するにあたっては、この切り下げが、実勢に反しての切り下げなのか、実勢を追認する意味での切り下げなのかを考えることが必要です。もし前者であれば、外為市場で人民元売り・ドル買い介入をすることになるので、外貨準備が増加する一方、国内金融市場には緩和効果が生まれてくるはずです。他方、もし後者であれば、外為市場への介入は基本的には必要がないので、国内金融市場への効果も中立的になります。

 図でも分かるように、実は2014年半ば以降、それまで徐々に切り上がっていた人民元がほぼ横ばいで推移するようになっていました。他方、それまで増加基調にあった中国の外貨準備高は、その間、緩やかに減少しています。外貨準備高は減少した要因としては金価格の動向など運用面での影響も考えられます。しかし、それ以上に大きな要因として考えられるのは、中国からの資本流出傾向が強まり、人民元の減価圧力が高まるなかで、人民元の対ドルレートを維持するために、通貨当局がドル売り、人民元買い介入を行った可能性があることです。

 これが事実だとすると、今回の切り下げは、人民元安の実勢を追認したものであると考えられます。そうなると問題は、この時点でなぜ実勢の追認を行ったかということに移ります。

 人民元の切り下げは、いうまでもなく中国の貿易財の価格競争力を高めます。したがって、中国経済が減速する中で、人民元の切り下げがもたらす景気刺激効果に期待したことは想像に難くありません。しかし、同時に、それまでの人民元の買い支えがもたらしていた金融引き締め効果を、現状では回避したいという意向もあったように推測されます。特に最近の上海株式市場の株価暴落の後を受けて、流動性を潤沢に維持しておきたいと考えたとしても不思議はありません。

 このように、今回の人民元の切り下げは、現在、中国が直面している厳しい経済状況への対応策の一環として打ち出されたものと評価できます。しかし、中国経済が直面する問題は、そうしたことで打開するのには難しい問題を抱えているように思います。なぜなら、中国経済は、現在、「二重の移行過程」にあるからです。

【「バブル経済」から「バブル崩壊後の経済」への移行過程】

 第1に、中国経済は、「バブル経済」から「バブル崩壊後の経済」への移行過程にあると考えられます。中国経済は、リーマン・ショックへの国際的な対応の一環として、「4兆元の内需拡大策」をはじめとして、大胆な経済対策を打ち出しました。その結果、2010年、2011年には18%前後の高い経済成長を記録することに成功します。

 しかし、この時期は、過剰流動性が形成された時期でもありました。大幅な金融緩和が行われてきたことが大きな要因ですが、加えて、人民元が切り上がるのを抑制するため、ドル買い・人民元売り介入を行ったことも寄与したと考えられます。実際、前掲図に見られるように、この時期、外貨準備が増加基調にあったのです。

 この結果、資産市場にバブルを発生させることになりました。まずは不動産市場です。例えば、北京の新築住宅価格は、それまで前年比5%程度の上昇で推移してきたところ、2010年に入って同22%の上昇を記録するに至ります。その後、伸びは急速に縮小しますが、再び2013年に入って同16%を上回る上昇を見せます。その後も、わずかな下落を示すことはありましたが、バブルで高騰した住宅価格の水準調整が行われること(すなわち住宅価格が大幅に下落すること)はないまま、今日に至っています。

 不動産市場に代わって過剰流動性が向かったのは上海株式市場です。上海株式市場は、2014年春を底に急速に上昇し、2015年6月中旬には底値の2.5倍を上回る水準にまで高騰します。しかし、その後、下落に転じ、世界経済に大きなショックを与えたことは、いまだ記憶に新しいところです。これで上海株式市場のバブルも基本的には崩壊したものと考えられます。

 もっとも現時点では、金利の追加的引き下げ、信用売りの制限、大口売却の禁止、株式購入の奨励などで大幅な続落は回避されています。しかし、上昇期待だけに裏付けられた株価上昇は維持可能でないことが判明すると、それをふたたび上昇基調に戻すのは至難の技です。売却停止や購入奨励は、潜在的な不良債権を拡大するだけの結果になりかねないことを危惧します。

【「高成長経済」から「中成長経済」への移行過程】

 他方、再び高成長が始まれば、ファンダメンタルズが盛り上がり、問題を解決してくれるのではないかと期待する向きもあります。いわゆるソフトランディングを期待する考え方です。日本のバブル崩壊後にも、「成長によって不良債権を解消させる」ことに期待を寄せる考え方がありました。しかし、中国経済の現状を見ると、それは難しいように思います。なぜなら、中国経済は、現在、「高成長経済」から「中成長経済」への移行過程にあるとも考えられるからです。これが「二重の移行過程」と言うときの、第2の移行過程です。

 中国経済の減速がどの程度のものになるかについては、いろいろな見方があります。短期的には6%程度にまで減速するという見方(IMF)から、中期的には「中心国の罠」にはまり、4%程度まで減速することもあり得るという見方(日経センター)まであります。

 しかし、いずれも減速が必至とみる背景には、①これまでの投資主導経済の限界が顕在化し、消費主導経済への転換が求められていること、②生産年齢人口が減少に転じ、過剰労働力が解消されつつあること、③先進工業国との間の技術的なギャップも縮小してきたこと、といったことがあると考えられています。つまり、これまでの高成長を支えてきた前提条件が消滅しつつあるというわけです。

 なお、こうした状況にあって、中国のような外国為替相場制度、すなわち事実上の対米ドルペッグ(IMFはcrawl-like arrangementに分類しています)を維持することは、経済政策(特に金融政策)の自由度を制約することにつながることは注意を要します。日本の場合、1970年代初頭に高度成長期から安定成長期(私は経済環境激動期と呼んでいますが)への移行を経験しましたが、その時期は、期せずして為替相場制度が固定相場制度(IMF体制)から変動相場制度に移行した時期と重なっていました。

【中長期的な課題を見据えて】

 以上のように、今回の人民元の切り下げは、バブル崩壊の影響が顕在化することを抑えながら、減速する中国経済を浮揚させるための対応策として打ち出されたように考えられます。しかし、中国経済が、バブル経済からバブル崩壊後の経済への移行過程、そして高成長経済から中成長経済へという「二重の移行過程」にあることを考えると、それが所期の成果を挙げるのはかなり難しいのではないでしょうか。

 中国経済が直面する中長期的な課題を前提にすると、中国が「中進国の罠」に陥らないための構造政策を進めながら、資産市場におけるバブル崩壊を受け止め、その影響に対してはマクロ経済政策と金融システム対策を総動員することは極めて重要です。また、そのためにも、為替相場制度の柔軟性を高めることは、必要不可欠であるように思われます。