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齋藤潤の経済バーズアイ (第46回)

賃上げの遅れと協調の失敗

 

2016/01/20

【遅れる賃金上昇】

 賃金がなかなか上昇してきません。毎月勤労統計調査で現金給与総額(一人当たり賃金)を見ても、2014年において0.4%の増加を示した後、2015年(1~11月)は逆に0.9%の減少となっています。もっとも、これには所定外給与(残業手当)や特別給与(ボーナス)の影響を含みます。そこで、所定内給与(基本給)だけを取り出してみると、2014年に0.4%の減少をした後、2015年に入ってプラス基調に転じたものの、その伸びはやはり小幅なものにとどまっています。同調査は2015年1月からサンプル替えが行われており、その影響でトレンドが読みにくくなっていますが、賃金がほとんど上昇していないことがうかがわれます。

 このような賃金上昇の遅れは、企業収益が好調であることや、労働市場がタイト化していることから見ると、極め不思議な現象です。本来であれば、このような状況では、人手不足を回避するために、もっと賃金を引上げていてもおかしくありません。しかし、実際にはそうなっていないのです。

 一体なぜこのようなことは起こっているのでしょうか。そして、このような状況から脱し、賃金上昇を契機に「経済の好循環」を形成していくためには、どうすればいいのでしょうか。

【賃金が上昇しない理由:協調の失敗】

 賃金が上昇していない理由としては、いくつかの要因が考えられます。その主なものについては別稿で検討しましたので、詳しくはそちらを見て頂ければと思います。ここでは、そのうちの1つである「協調の失敗」という要因に注目して、少し考えてみたいと思います。

 「協調の失敗」とは、個別の経済主体の行動に任せていては、協調的な行動がとられず、社会的に最適な均衡を実現することができないような状態のことを言います。その典型例は、ゲームの理論で言う「囚人のジレンマ」に見られます。二人の囚人AとBが囚われて、自白を求められます。両方とも黙秘をすれば軽い罪にしか問われませんが、両方とも自白をすれば重い罪に問われることになります。ただし、取り調べる側も工夫をして、一方が黙秘をしている状況で、他方だけが自白をしたら、黙秘を続けた方の罪はさらに重くなるのに対して、自白した方の罪は問われないことにするという司法取引を持ちかけたとします。このような選択を迫られたときに、囚人は最悪の選択をしてしまうというのが、「囚人のジレンマ」の帰結です。

 「囚人のジレンマ」を客観的に見ると、両方にとって最善な戦略はともに黙秘をすること(パレート最適)です。しかし、個別に考えると、常に相手が自白する可能性が残るので、相手の出方を前提に考えたときには、いずれにとっても自白するというのが最適な戦略(ナッシュ均衡)になってしまうのです。この結果、協調は決して起こらず、双方ともに自白することによって、ともに重い罪に問われてしまうことになるのです。

 現在の企業の置かれた状況は、まさにこのような「囚人のジレンマ」的な状況ではないでしょうか。各企業は、現在、賃金を上げるか否かの選択を迫られています。各企業がみんな賃金を上げたら、「経済の好循環」が起こり、個人消費が刺激され、企業の売上も伸びます。したがって、それが社会的に見たら最適なはずなのですが、各企業は自分が賃金を上げた時に、他の企業が賃金を上げなかったらどうなるかを考えてしまいます。そのようなことになったら、賃金を上げた企業のコストだけが上昇し、競争上、不利な立場に置かれてしまいます。逆に他の企業が賃上げをした時に、自分が賃上げをしなければ、シェアを奪うという漁夫の利を得ることができることになります(フリーライダー)。その結果、賃金を上げようと考えていた企業も賃上げを見送り、結局はだれも賃上げをしないという状況に陥ってしまうわけです。

 なお、ここでは企業が国内だけで競争しているような状況を暗黙の前提にしています。しかし、現実には、海外の企業と競争しており、その中には低賃金を背景にした競争力を有しているところが多くあります。そのため、国際競争上、そもそも賃金が上げにくいという状況にあります(要素価格均等化法則)。その意味では、本来は、このようなゲーム論で考える状況ではないのかもしれません。しかし、最近は円安傾向にあり、そのため、外国企業との価格競争はある程度緩和されていると考えられます。それを前提に考えると、とりあえず国内企業間の競争を想定することは、第一次接近としては許されるのではないでしょうか。

【協調の失敗を克服する方法】

 それでは、どうすればこのような状況から脱することができるのでしょうか。

 もし仮に政府が賃金を上昇させ「経済の好循環」を形成することが重要だと言うことを繰り返し説明し、企業が納得して賃上げをするというのであれば、それが一番簡単でしょう。しかし、常に誰かがフリーライダーになる誘因を有しているときには、それほど簡単ではありません。しかし、そのような時にあっても、いくつかの可能性が考えられます。

 第1に、ゲームの性格を変えてしまうことです。これには二通りが考えられます。

 1つは、デフレ的な状況から脱却することです。現在のような、デフレ状況であれば、確かにある企業が賃上げをすると目立ってしまいます。しかし、インフレ的な状況であれば、賃金や物価は常に上昇しているので、実質的な賃上げを見分けにくくなります。そのためには、インフレ的な状況を生み出すことが重要なのです。日本銀行のインフレーション・ターゲティングやそれを実現するための量的質的金融緩和は、このための一つの方策という位置づけができるように思います。

 もう1つは、企業の関心を、短期的な得失から長期的な得失に転換させることです。もし他の企業が裏切ることに伴う短期的なマイナス影響を小さくすることができれば、長期的な得失に目が向くことになります。その意味では、短期的な裏切りの影響を緩和するために、例えば賃上げをした企業に対して補助金を与えるなどの財政政策が重要な役割を果たす可能性があります。

 ただし、こうしたゲームは、「囚人のジレンマ」の例で言えば、司法取引が持ちかけられることのない場合に相当します。これは、ゲーム論で言う「鹿狩りゲーム」になります。「鹿狩りゲーム」では、パレート最適解もナッシュ均衡になります。もっとも、もう一つ別の、パレート劣位のナッシュ均衡もあるので、必ずパレート最適解が実現されるわけではありません(したがって、これも「協調の失敗」の例です)。しかし、このゲームであれば、パレート最適解を実現することが可能になります。複数均衡のうち、パレート最適の方を選択させるような状況を作り出すことができれば良いわけです。このことは、次の点に関係してきます。

 第2に、外的な力で協調を作り出すことです。

 政府が協調を直接的に強制することは、市場経済システムを基本としている以上、できることではありません。しかし、例えば、経済団体と労働組合団体が「経済の好循環」を形成することの重要性を認識して、賃上げに向けて連携をとっていけるとしたら、それは非常に大きな意味を持つことになります。各団体が合意をすることで、少なくともそれぞれのメンバーの間ではコミットメントになると考えられるからです。

 しかも、ここで注目したいのは、日本の「春闘」という仕組みです。春闘とは、労働組合が共同歩調をとって企業に賃金引上げを求める慣行のことです。これが実現すると、お互いに賃上げを牽制しあってしまうような現状を打破する可能性を持っています。春闘によってどの企業も賃上げをおこなうことを迫られれば、相対的な賃金は変わらないことになるからである。

 実際、2015年春闘の結果を見ると、ベースアップについては、要求段階で横並びの傾向が強いばかりでなく、回答段階でも横並びの傾向が強いように見えます。このことは、実際に相対的な賃金を変えないような賃上げになっていることを示しているのではないでしょうか。

 政府にとっても、政労使の場をつくることを通して、経済の現状に関する客観的な分析を提供し、賃金上昇の重要性を説明するとともに、労使が賃上げに向かって努力する環境を整えることは、その重要な役割になると考えられます。

【今年の春闘は「ビッグ・プッシュ」となるか】

 開発経済学では、発展途上国には二つの均衡があることが指摘されています。一つは、伝統的な産業を主体にした均衡であり、もう一つは近代的な産業を主体にした均衡です。現実には、このうちパレート劣位にある伝統的な産業を主体とした均衡に陥ってしまうことが多いようです。こうした均衡から脱し、パレート優位にあるもう一つの均衡を実現するためには、政府による大規模なインフラ投資が大きな役割を果たすとされています。これは、パレート最適である均衡実現への「ビッグ・プッシュ」と呼ばれています。

 この用語を援用するとすれば、現在問題とされているのは、お互いに牽制しあうことによって賃上げがされないような均衡から、賃金上昇を起点に「経済の好循」が成立するような均衡へと移行するためには、どのような「ビッグ・プッシュ」が必要かということになります。

 その答えになり得るのは、政府、経済団体、労働組合団体の合意形成を背景にした春闘ではないかと思います。今年の春闘が、そのような「ビッグ・プッシュ」になるのかどうか、注目したいと思います。