財政再建と時間的非整合性
2016/06/20
【消費税率の引き上げ延期】
先般、2017年4月からに予定されていた消費税率の10%への引き上げを延期し、2019年10月からとすることが決定されました。これで、10%への引き上げは、2度延期されたことになります。前回引き上げが延期されたときには、「リーマンショックや東日本大震災のようなことがない限り、必ず実施する」と言われていました。それだけに、現在のような状況(決して良いと言える状況ではありませんが、危機に陥っているわけでもない状況)で延期されたことは、サプライズでした。
【経済政策の時間的非整合性】
今回の事態は、経済政策を巡る時間的非整合性の問題の典型例だと考えることができます。
裁量的な経済政策においては、各時点ごとに、その時々の最適な政策を選択し、実行します。相互に独立しているために、相互の整合性を問われることもありません。したがって、それこそが望ましい経済政策のあり方だと考えられるかもしれません。しかし、実は、裁量的な経済政策は、事後的に見ると非効率的な結果をもたらす可能性があるのです。
将来の経済政策に関するルールについて事前に約束する(コミットする)場合を考えてみましょう。これは裁量的な政策運営より、望ましい結果をもたらすかもしれないのです。何故かと言うと、もし政府のそうしたルールへのコミットメントが十分に信頼するに値するものであれば(クレディブルであれば)、家計や企業はそうした政策の効果を予め織り込んで行動することになるからです。その結果、その経済政策は、それを実際に実施に移す以前から、その効果が発現することになります。
そのような例としては、ユーロ圏の一部の国の政府債務危機への対応が挙げられます。そこでは、事態を改善するための財政再建計画が発表になりましたが、それが十分実施可能であると評価されると、デフォルト・リスクを織り込んで高騰していた長期金利が低下していくという事態が観察されたのです。
しかし、政府によるルールへの事前の約束には問題があります。それが「時間的非整合性」の問題です。政府には、ルールから逸脱しようとする誘因があるのです。既に家計や企業が(政府がルールに従って行動すると言う前提で)意思決定をしてしまった後では、ルールとは違う(時間的には非整合的な)別の政策をとることによって、その時点としては、より望ましい結果を実現することが可能になってくるからです。
これは政府にとっては魅力的だし、その限りでは「良い」政策のように思えるかもしれません。しかし、このことによって、政府の信頼性(クレディビリティー)は大いに傷つくことになります。将来、再びルールにコミットする必要が生じた時に、今度は、家計や企業がそれを信用しないかもしれません。あるいは、もし家計や企業が、政府にはルールから逸脱する誘因があることを見越したとすると、そもそも最初のルールさえ、誰も信頼しないかもしれません。
こうしたことから、政府がルールを採用するときには、クレディビリティーを高めるための様々な工夫が施されてきました。簡単に政府の意思で逸脱できないように、法制化するというのもその一例です。この他、ルールからの逸脱には、罰則を設けることも行われてきました。例えば、先の欧州政府債務危機の例で言えば、ECB、EU、IMFのトロイカから受ける金融支援においては、もし事前の約束通り被支援国が財政再建を進めなければ、その後の金融支援を差し止めることができるようになっていたのです。
【長期金利の非感応性】
それでは、今回の消費税率引き上げの延期は、経済政策の時間的非整合性という観点から見た場合、どのように考えることができるのでしょうか。延期をすることに伴う問題はないのでしょうか。
第1に、日本では、そもそも財政再建に取り組むことの短期的なメリットが見えにくいという事情があります。
前述のように、財政再建に取り組むことのメリットの一つは、政府が財政状態をコントロールする意思と能力があることを示すことで、金融市場を鎮静化させ、財政破綻を織り込みつつある長期金利を引き下げることにあります。
しかし、日本では、財政状態が悪化し、政府債務残高が上昇を続けているにもかかわらず、長期金利は低水準で推移してきました。このため、そもそも財政再建に取り組むことによって長期金利を抑制するという効果が認めにくいものになっていました。ルールへのコミットメント自身の重みが認識されにくいことになっていたのです。
第2に、同じ理由から、ルールからの逸脱のコストも見えにくいという事情があります。
財政再建のルールから逸脱した時には、長期金利が再び上昇を始めても不思議ではありません。財政破綻の可能性が再び高まることになるからです。
しかし、日本では、消費税率の引き上げの延期が発表になった後も、長期金利はそれに反応した様子はありません。引き続き低水準で推移しています。むしろ、長期金利のマイナス幅が拡大しているのが実状です。また、格付会社の反応も限定的なものに止まっています。
もちろん、このような長期金利の動向の背景には、日本国債の9割を国内投資家が保有していること、国内投資家の中にあっても、日本銀行(3割超を保有)をはじめ銀行、生命保険会社、公的年金などの長期保有主体がほとんどであることがあります。引き続き日本銀行が量的質的金融緩和の下で購入を続けることが予想されることも考慮すると、このような構図はすぐに崩れそうにはありません。
もしこれに変化が訪れるとすれば、将来、日本の経常収支が赤字基調に転化し、海外貯蓄により大きく依存するようになり、日本銀行も、大量の国債購入に依存した非伝統的な金融政策を正常化するようになったときであると考えられます。
【家計の長期的反応】
以上は金融市場における反応に着目した場合でした。往々にして、金融市場の反応は迅速で見えやすいので、注目を集めてしまいます。しかし、家計の反応にも注意を配る必要があります。
消費税率の引き上げ延期は、財政先行きに対する不安を拡大させる可能性があります。また、予定されていた社会保障の充実策の一部が先送りされることも含め、社会保障の先行きに対する不安を拡大させる可能性もあります。この結果、家計が消費を抑制し、貯蓄を増加させても不思議ではありません。そうなれば、景気の落ち込みを回避するために決断された消費税率引き上げの延期の効果が、減殺されてしまうことになってしまいます。
【ルールからの逸脱のコスト】
さらに、今後を見通したときに考えられる最悪のシナリオは、次に政府がルールにコミットをしようとした時に、それが全く信頼されず、本来であれば期待できるはずの家計や企業のプラスの反応が現われないことです。もちろん、その時の政府は「今回は違う、必ずやる」と言うはずです。しかし、今回の経験からして、そうした訴えが信頼される保証はありません。
そうしたことまで視野に入れるならば、ルールから逸脱することのコストは極めて大きいと考えるべきではないでしょうか。
バックナンバー
- 2023/11/08
-
「水準」でみた金融政策、「方向性」で見た金融政策
第139回
- 2023/10/06
-
春闘の歴史とその経済的評価
第138回
- 2023/09/01
-
2023年4~6月期QEが示していること
第137回
- 2023/08/04
-
CPIに見られる基調変化の兆しと春闘賃上げ
第136回
- 2023/07/04
-
日本でも「事前的」所得再分配はあり得るか?
第135回