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齋藤潤の経済バーズアイ (第52回)

英国のEU離脱とその影響

 

2016/07/20

【ブレキシット・ショック】

 6月23日に行われた英国の国民投票は、EU離脱((Brexit; ブレキシット)という思いがけない結末となりました。虚をつかれたマーケットは大きく混乱し、日経平均株価は6月24日の1日で1,286円下落し、同日の終値は14,952円となりました。円レートも急騰し、直前まで106円台であった対ドルレートが、一時、99円台をつけるところまで円高が進展しました。

 その後、マーケットは落ち着きを取り戻していますが、ブレキシットの影響は長期にわたって世界経済に対する重しになると思われます。

【今後のシナリオ】

 加盟国の脱退手続きを定めたEU条約の第50条によりますと、英国のEU離脱の手続きは、英国がEUに正式に離脱通告をした時点から開始されることになっています。予想よりも早く7月13日にメイ新首相が就任したので、その通告の時期が注目されます。英国としては、通告後からEUとの脱退協定締結・発効までの期間が限られている(後述)ので、通告前になるべく時間をとって、脱退協定の事前交渉を進めておきたいところです。しかし、そうなると、不確実性の高い期間がそれだけ長く続くことになります。この点を懸念して、EUは速やかな通告を要求しています。

 EU条約第50条によると、通告後、英国はEUとの脱退協定の締結・発効までの間に2年間の猶予しか与えられていません。2年が経過すると、脱退協定が締結・発効していようとしていまいと、EUからは脱退することになります。

 脱退時点で問題になるのは、英国とEUとの間の関係についての新協定です。この新協定の交渉は、もちろん脱退協定がまとまらないことには始まりません。しかも、これには、脱退協定以上に厳しい手続きが必要になっています。その手続きを定めたEU条約第218条によりますと、欧州理事会の承認だけでなく、全EU加盟国の承認が必要となっています。

 英国とEUとの新しい関係については、例えば英国財務省は、3つの代替案を想定しています(HM Government, HM Treasury analysis: the long-term economic impact of EU membership and the alternatives, April 2016)。それは、(A)EEA(欧州経済領域)に参加すること、(B)独自の協定を締結すること、(C)WTO協定を通じてのみ関係を有すること、の3つです。

 このうち、(A)については、ノルウェーのような関係を築くことができれば、単一市場へのアクセスがかなり保証されることになるので、その点では、英国にとって最も望ましい案です。しかし、その代わり、人の移動の自由を含むEUの取り決めや財政負担を受け入れなければならなくなる可能性が高いものと考えられます。ノルウェーの場合がそうです。このため、(A)は、英国の受け入れるところではないように思われます。

 こうなると、(B)を追求することになる可能性が高いのですが、そのための交渉には長期間を要します。例えば、EU・スイス間の協定では10年かかっていますし、EU・カナダ間は5年を費やしてようやく2014年に合意に至りましたが、依然として発効はしていません。したがって、一番可能性が高いのは、英国とEUとの関係が固まる前に通告後2年という期間が経過し、特別な関係が築かれないまま、(C)のWTO協定を介しての関係しかない状態に陥ることではないかと思われます。(ついでに言うと、英国政府は長年にわたって貿易交渉をEUに任せてきたので、政府内には貿易交渉を担える人材が極めて限られていると言われています。このことも、実務的には大きな障害になると考えられます。)

 なお、以上は、英国とEUとの間の脱退交渉とその後の新協定についてですが、英国とEU以外の国々との間の新協定についても、新しく交渉し、締結しなければなりません。これらの国々とは、これまで英国はEUの一員として、EUが締結してきたFTA等の恩恵を受けてきたわけですが、英国がEUから離脱することで、英国とこれらの国々との間には何の協定もない状態になってしまうからです。このための交渉は、英国とEUとの関係が明確になってきてからはじめて本格化すると考えられますので、この協定についての合意に至るまでには、さらに相当の期間がかかるものと考えられます。

【ブレキシットの英国経済などへの影響】

 これまでともに単一市場を形成し、その中での自由な資源移動によって、効率的なサプライチェーンや銀行網を築いてきた英国とそれ以外のEUが分裂することは、英国とEUの双方にとって大きなマイナスになることが予想されます。

 実際、英国の経済に対する長期的な影響に関する英国財務省の分析によりますと、最悪の場合、15年後のGDPは、ベースライン(EU離脱なき場合)に比べて、9.5%のマイナスになると試算されています(英財務省、前掲報告書)。OECDも、2030年のGDPは、同じくベースラインに比べて、最大7.7%のマイナスになると試算しています(OECD, The Economic Consequences of Brexit: A Taxing Decision, April 2016)。

 加えて、短期的にも、前述のように不確実性が高い状況がつづくことによって、英国及びEUの双方には、大きな下押し圧力が作用するものと考えられます。こうした影響も織り込んで、短期的な世界経済の動向を見通したIMFのレポートでは、世界経済の実質GDP成長率を、4月時点の予測から2016年、2017年ともに0.1%ポイントの下方修正(ブレキシットがなければ2017年については0.1%の上方修正であったはずなので、実質的には0.2%ポイントの下方修正)としています。また、この予測は、今後の英国とEUとの関係について比較的楽観的な前提を置いており、もしこれが実現できない場合には、最悪の場合、2016年についてさらに0.3%ポイント、2017年についてもさらに0.6%ポイントの下方修正があり得るとしています(IMF、World Economic Outlook Update, July 2016)。

【日本経済への影響経路】

 こうしたことは、不可避的に、海外景気に対する依存度が高い日本経済に対しても、大きな影響を及ぼしてくるものと思われます。以下では、その影響が伝播するチャネルについて整理しておきたいと思います。

①海外貿易チャネル

 第1に、海外貿易への影響を通じたチャネルです。英国とEUのGDP低下は、当然のことながら、日本からの輸出を減少させることになるものと見込まれます。

 もっとも、日本から英国や、英国以外のEUへの輸出はそれほど大きくありません。我が国の地域別国際収支を見ると、2015年の貿易・サービス輸出に占める英国の比率は3.5%、英国以外のEUも11.0%にとどまっています。他方、貿易・サービス輸出のGDP比は2015年17.9%であったので、英国への輸出のGDP比は0.6%、英国以外のEUも2.0%ということになります。仮に、英国とそれ以外のEUへの輸出全体が5%減少したとしても、GDPへの影響は0.1%程度にとどまると見込まれます。

 しかし、アジアを経由した間接的な影響は無視できません。アジア諸国の輸出のGDP比は、概して日本のそれよりも高い水準にあります。したがって、各国の輸出全体に占める英国やそれ以外のEUへの輸出が日本と同じ程度であったとしても、各国GDPへの影響は日本より大きいということになります。加えて、日本の輸出全体に占めるアジアの比率は47.0%もあります。したがって、アジア経由の影響はかなり大きくなる可能性があります。アジアへの輸出が0.5%減少するだけでも日本のGDPへの影響は0.2%程度となります。2012年に欧州の政府債務危機が再燃したとき、日本も景気後退に見舞われましたが、その背景には、このような間接的な影響もあったものと考えられます。

②海外投資チャネル

 第2に、海外投資への影響を通じたチャネルです。ブレキシットは、直接投資と証券投資の両面で影響を及ぼしてくるものと思われます。

 実際、海外投資全体に占める英国やそれ以外のEUへの投資の比率は、海外貿易よりかなり大きなものがあります。本邦対外資産負債残高の地域別内訳をみますと、2015年末時点における日本の対外直接投資全体に占める英国の比率は7.1%(そのうちの約3分の1は金融向けです)、英国以外のEUの比率は15.8%を占めています。同じように対外証券投資全体に占める英国の比率は4.9%、英国以外のEUの比率は23.1%に上っています。

 海外投資を通じた影響には、2つに側面が考えられます。

 その一つは、ブレキシットが投資の期待収益を低下させることの影響です。そのため、投資先の変更が行われることになると思われます。英国投資の収益面でのマイナスは、このような投資先の変更によって一部は補えるものと思われますが、世界経済全体に下押し圧力が働くとすれば、このような補填も一部にとどまると考えるのが穏当でしょう。

 もう一つは、過去の投資がキャピタルロスをもたらすことです。このことは、特に、ロンドンを対象にした不動産投資(直接投資の一部)や不動産投資ファンドへの投資(証券投資の一部)において顕著なものになる可能性があります。投資家のバランスシートの悪化がもたらす影響に注意する必要があります。

③金融機関チャネル

 第3に、金融機関への影響を介した経路です。ブレキシットが英国やそれ以外のEUの金融機関の健全性や流動性に影響を及ぼすとすれば、その影響を軽んじるわけにはいきません。

 EUにおいては、不良債権は概して低水準にとどまっているものと考えられます。しかし、EU諸国のなかには、金融機関が保 有する不良債権が非常に高い国もあります。欧州銀行監督局(European Banking Authority)によると、2015年末時点の不良債権比率(総貸出額に占める比率)は、EU全体では5.8%であるのに対して、キプロスで48.9%、ギリシャで46.7%、ポルトガルで19.1%、アイルランドで18.5%、イタリアで16.8%となっています。EU諸国の景気が悪化するようなことがあれば、これらの国々の金融機関の健全性や流動性に大きな影響が及ぶ可能性がります。

 もっとも、EUでは、欧州政府債務危機以降、EUの金融安定化のための体制が整備されてきています。銀行同盟の一環として、単一監督メカニズム(Single Supervisory Mechanism)、単一破綻処理委員会(Single Resolution Board)、単一破綻処理基金(Single Resolution Fund) などが導入・設立されてきています。したがって、EUにおいて金融危機が起こることは考えにくくなっていますし、その可能性が顕在化してきたときの対応もできるようになっていると考えられます。しかし、引き続き、万が一の場合に備えておくことは必要だと考えられます。

④株価チャネル

 第4に、株価への影響を通じた経路です。その変動は、実現・非実現の損失を通じて投資家のポートフォリオに影響するとともに、国民一般の経済の先行きに対する期待を悪化させることになると考えられます。

 実際、英国の国民投票を受けて、ロンドン、ニューヨーク、東京を含め、世界の株式市場の株価下落をもたらしました。特に下落が著しかったのが、前述のリスクを抱えた銀行の株価でした。

 しかし、同時に、反発が早かったのも事実です、ロンドンやニューヨークでは、1週間足らずで下落を取り戻しています。唯一の例外は東京市場で、東京の場合、下落を取り戻すのに3週間かかっています。その背景には、海外の景気の影響を受けやすい日本経済の脆弱性があることは否定できませんが、加えて、大きな影響を及ぼしていると考えられるのが、並行して進んだ円高の影響です。

⑤為替レートチャネル

 第5に、為替レートへの影響を通じた経路です。現在のように、世界経済に不透明感が漂ってきたときには決まって、リスクオフの動きから、円が「安全通貨」として買われ、円高が現出します。

 なぜ円が安全通貨として買いの対象になるのかについては別の機会に論じました。(本年2月の本コラム「「安全通貨」としての円」ご参照)一言で言うと、円の場合は、為替取引が自由で、金融資産の取引規模も大きく、金融機関の経営の健全性も確保されているというだけではなく、経常収支黒字国の通貨として常に円高圧力が働いている(したがって、一時的な保有であったとしても、為替差益が得られる可能性がある)、ということが大きく影響しているように思われます。

 実際に英国の国民投票の結果が明らかになってくるにつれて、急激な円高が進展しました。そして6月23日の水準まで戻るのに、やはり3週間かかっています。しばらくは円安水準で推移することがあるとしても、長期にわたって英国及びそれ以外のEUを巡っては、不透明感が強い状態が続くことが予想されるので、今後とも、しばしば円高に振れることが予想されることには留意しておくべきだと思います。

【求められる日本経済の頑健性】

 ブレキシットは、既に不透明感の強い世界経済をさらに見通しにくくしました。その中にあって、日本経済も、長期にわたって、様々なショックに見舞われることを覚悟しておかなければなりません。こうした世界経済が突きつける挑戦を乗り越えるためには、日本経済の頑健性を強めることが何よりも重要です。その場合の障害は、何といっても、潜在成長力の低さです。日本の直面する構造政策上の課題を、着実に解決していくことが求められていると思います。