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齋藤潤の経済バーズアイ (第53回)

「3本の矢」の補強策をどう評価するか

 

2016/08/15

【アベノミクスの「3本の矢」の補強策】

 このひと月余りの間に、アベノミクスの「3本の矢」を補強するような内容の政策決定がいくつかなされました。今月のコラムでは、その評価について考えてみたいと思います。

 第1の矢(大胆な金融政策)の補強策にあたるのが、日本銀行が7月29日に決定した「金融緩和の補強」です。

 第2の矢(機動的な財政政策)の補強策に対応するのが、政府によって8月2日に発表された「未来への投資を実現する経済対策」です。

 そして第3の矢(民間投資を喚起する成長戦略)の補強策は、8月3日の内閣改造で新設された「働き方改革担当大臣」のポストによって行われました。

【金融緩和の補強】

 金融緩和の補強は、経済の先行きに対する不確実性の高まりに対する金融面の対応として行われました。その内容は、国債買入れ額の増額でも、マイナス金利の引き下げでもなく、ETF(上場投資信託)の買入れ額の増額(3.3兆円から6兆円への約倍増)というものでした。

 最近の物価動向を見ると、金融緩和を補強することが必要であったことは言うまでもありません。むしろその観点からは、今回の決定は小さすぎるかもしれません。直近のデータである本年6月の消費者物価総合の前年比上昇率(2015年基準)を見ると、ヘッドラインではマイナス0.4%となっています。仮に最近日銀が注目している生鮮食品とエネルギーを除く消費者物価総合の前年比上昇率を見てもプラス0.7%に止まっています。日銀としては、2017年度中には目標の2%に到達するとみていますが、最近のブレキシット(英国のEU離脱)の影響がもたらす下押し圧力の不確実性などを考えると、そのような見方が楽観的に過ぎるという可能性も十分にあり得ます。一層の補強が求められていると考えられます。

 問題は、金融緩和をさらに補強するにあたって、どのような政策手段を対象にするかです。既に国債買入れ額の増額やマイナス金利の引き下げについては様々な限界が指摘されています。国債購入についてはいずれ買入れ可能な国債が払底してしまうこと、またマイナス金利の引き下げについては銀行の収益を圧迫してしまうこと、などが懸念されています。

 しかし、それ以上に問題なのは、こうした手段がいずれにしても銀行を起点にして流動性を経済全体に行き渡らせようとしていることです。しかし、銀行は、日銀の国債買入れを通じて流動性の供給を受けても、貸出や投資を大きく増加させないことは、これまでの実績が示している通りです。この結果として銀行によって積み上げられた日銀の当座預金を活用させようとして導入されたのがマイナス金利であったわけです。しかし、これが銀行貸出に大きな影響をもたらしたようにも見えません。これらが示していることは、銀行に流動性を供給しても、それが経済全体に行き渡ることには大きな限界があるということです。

 このような観点から言うと、ETFの買入れ額の増額は、流動性を銀行経由ではなく、直接市場に供給するという特徴を持っており、現在直面している壁を乗り越える可能性を秘めています。このような経路は、英国のイングランド銀行がかねてより重視しているところでもあります。9月には日銀が「経済・物価動向や政策効果」の「総括的な検証」を行うとしていますが、そこでは、こうした観点からの評価と政策の補強が望まれます。

【新しい経済対策の策定】

 事業規模で総額28兆円程度に及ぶ新しい経済対策は、同じように経済の下振れリスクに財政面から対応しようとするものです。それはインフラ整備に向けた投資の増加に加え、子育てや介護の受け皿拡大やこれらに携わる労働者の処遇改善、学生のための奨学金制度の拡充、低所得者への支援を含む内容となっており、短期的な需要対策と中長期的な課題解決の両立を図ろうとした内容になっています。

 経済対策の規模については、少なすぎるとの批判もあります。財政支出の増加は7.5兆円程度(GDP比で約1.5%程度)に止まっているからです。もちろん、マクロ経済に対する需要喚起効果という観点からは、大きいほど良いと言うことになるのかもしれません。しかし、経済対策のための財政支出は、「財政の余裕(Fiscal Space)」との関係で論じられる必要があります。

 その点を、内閣府が7月26日に発表した「中長期の経済財政に関する試算」で見ると、2016年には依然としてプライマリーバランス(基礎的財政収支)がGDP比でマイナス3.1%の赤字があると試算されていることが分かります。また、同じ試算は、いま以上に政策努力がないとすると、2020年度においても、政府自身の財政再建目標である黒字を達成することはできず、プライマリーバランスはGDP比で1.0~1.7%の赤字(赤字幅はケースによって異なってきます)を残すことになることも示しています。今回の新しい経済対策によって、試算の発射台となる2016年度のプライマリーバランスは、それに相当する分だけ悪化することになります。したがって、将来に関する試算結果も、全体として下方シフトすることになるものと考えられます。このような現状と展望を考慮すると、そもそも我が国に大きな経済対策を許容するような「財政の余裕」はなかったと考えるべきだと思います。

【ヘリコプター・マネー政策の採用】

 ところで、これまで見てきたような金融政策と財政政策のあり方に関連して最近よく議論されるのは、「ヘリコプター・マネー(Helicopter Money)」政策を採用する可能性です。この眼目は、ヘリコプターからマネーをばら撒くように(このアイディアはミルトン・フリードマンに由来します)、マネーを幅広く経済に行き渡らすことができれば、経済を刺激し、物価も上昇するはずだというものです。

 ある意味で、日本は、すでにヘリコプター・マネー政策を実施しているように思えます。一方で、政府が直接給付の支払いを含む財政支出を増加させ、他方で、日銀が国債を購入してその財源をマネーで供給しているからです。

 もちろん、厳密に言うと、ヘリコプター・マネーの場合、政府の債務は償還を要しないものであることが必要です(考え方としては、英国のコンスル債<永久国債>のようなもの)。これによって初めて、合理的な家計が将来の償還とそのための増税を予想して足元からその準備のための貯蓄の増加・消費の削減を行うことを回避することができるからです。中立命題(あるいはリカードの等価定理)が成立するような世界では、そうしたことが必要になります。

 しかし、日本がこのような中立命題が成り立つようなリカード的世界であるということは実証されていません。少しずつこのような世界に近づいているということは言えるかもしれませんが、そう考えたとしても、将来の国債償還を予想してとられている需要抑制効果はまだ限定的であるように思われるのです。

【働き方改革担当大臣の新設】

 以上、第1の矢と第2の矢の補強策についてみてきました。しかし、このコラムで強調してきているように、3本の矢はそれが3本合わさることによって初めてその効果が発揮されます。逆に効果が発揮されていないとすると、それは3本の矢が合わさっていないからだとも言えます。第1の矢、第2の矢だけでなく、第3の矢についても補強されることが重要なのです。そしてその成長戦略の分野で注目されるのが、労働市場改革です。

 現在の日本の経済システムは、高齢化・人口減少やグローバル化の進展などの新しい環境条件に対する対応ができておらず、そのために、限られた労働や資本といった資源を効率的に利用することができないでいます。また、イノベーションを最大限引き出すこともできないでいます。特に労働市場の改革の遅れは、格差の拡大や長時間労働の弊害をもたらしており、社会的な問題の原因ともなっています。その意味で、同一労働同一賃金や長時間労働対策は極めて重要です。しかし、それは経済システムの問題ともかかわっているので、極めて困難な問題でもあります(同一労働同一賃金の問題については、本年5月の本コラム「同一労働同一賃金の先にあるもの」を参照して下さい)。

 その意味では、8月3日の内閣改造で「働き方改革担当大臣」のポストが新設されたことの意味は大きいと思います。これが契機となって労働市場改革が大きく前進することになるかどうか、大いに注目したいと思います。