IMFの所得政策提言をどう考えるか
2016/10/17
【IMFの対日提言】
国際通貨基金(IMF)の加盟国は、定期的にIMFスタッフによる審査(Article 4 Consultation)を受けることになっています。この審査結果は、スタッフによってレポート(Staff Report)としてまとめられ、理事会で審議、承認されたのち、公表されます。
日本の場合には、この審査は毎年行われます。2016年のスタッフレポートは8月初めに公表されました。本年のレポートも、毎年のレポートと同様に、日本経済の現状についての手堅い経済分析に裏打ちされた、包括的な政策提言が行われています。
しかし、本年のレポートが従来のものと一線を画しているのは、日本に対して「所得政策」の提言をしているという点です。通常は主流派の経済学に基づく政策提言を行い、しばしば「ワシントン・コンセンサス」と批判されてきたIMFとしては、極めて「非伝統的」な政策提言となっています。
今月の本コラムでは、先般、IMFのアジア太平洋事務所主催で行われた同レポートに関するセミナー(9月26日開催)において、筆者がディスカッサントとして行ったコメントをベースに、この提言について考えてみたいと思います。
【所得政策とは】
所得政策は、1960年代から1970年代にかけての時期を中心に、高進するインフレーションに対する処方箋として、欧米で採用された政策です。具体的には、マクロ経済政策(特に金融政策)による間接的なインフレ・コントロールと、賃金の凍結など直接的な手段によるインフレ管理との中間に位置するような、一連の政策から構成されています。
例えば、有名なオランダのワッセナー合意(1982年)では、労働組合が賃上げ要求を抑制する代わりに、産業界は、時間短縮と雇用確保を保証し、政府はそれらの合意を減税や負担軽減で支援するということを内容とする、重層的な取引が行われました。
日本でも、1960年代末から1970年代初頭にかけて、当時あった経済審議会の下に設けられた委員会で、熊谷尚夫大阪大学教授や隅田三喜男東京大学教授を委員長として検討が行われました。しかし、日本では実際に所得政策が行われることはありませんでした。
【IMFが提言する所得政策の内容】
今回のIMFの提言は、過去に実施された所得政策とは全く異なる(あるいは、インフレに対するデフレと言う意味で、まったく逆の)経済環境の下にある日本に対して行われています。その意味では、これまでに経験のない領域での政策提言となっています。その提言を要約すると、「インフレ目標である2%のCPIインフレ率と整合的な賃金上昇をもたらすような政策を導入すること」と言えます。
実は、ある意味で、日本は既にそうした政策領域に足を踏み入れているということができます。例えば、安倍政権は、政労使会議の場などで経済界に対して賃上げを要求してきましたし、賃上げを実施した企業に対する減税措置(所得拡大促進税制)も導入しました。さらに、最低賃金の引き上げにも取り組んでいます。
これに対して、IMFは、これらを上回る内容の政策を導入することを提言しています。それには、以下のようなものが含まれています。
①3%の賃上げガイドラインを設定すること(3%は、生産性の向上分1%プラス物価上昇2%に対応)。
②賃上げに対しては、「コンプライ・オア・エクスプレイン」(Comply or explain; ガイドラインに従うこと、従わない場合にはその理由の説明責任を負うこと)の原則を適用すること。
③これらを裏打ちするために、より強力な減税処置ないしは罰則を導入すること。
④政府に決定権のある賃金を引き上げること。
⑤春闘に次ぐ第二の賃上げ交渉(秋闘?)を行うこと。
さらに、このような所得政策を、以下のような雇用契約改革で補完することも提案されています。
⑥正規雇用と非正規雇用の中間に位置する雇用契約を拡充すること。
⑦同一労働同一賃金の導入を加速すること。
デフレからの脱却を確実なものにして、インフレ目標の2%を実現するためには、賃金の引き上げが鍵を握っているということについては、私もIMFと問題意識を共有します。賃金の引き上げに向けては、できる限りの政策対応をすべきであるということにも、異論はありません。しかし、IMFの提言には、いくつかの課題があります。以下では2点に絞って、コメントをしたいと思います。
【賃上げガイドラインについてのコメント】
第1に、具体的な賃上げのガイドラインを設定することには、副作用が伴うということです。
労働市場で自主的に決定される賃金には、相対価格を示すという重要な役割があります。賃金上昇率が高いということは、当該企業の労働需要が強いことを、他方、賃金上昇率が低いということは、当該企業の労働需要が低いことを、示しています。これに対して、もし一律の賃上げを求めるということになると、こうした賃金上昇率が持つ重要な役割を損なうことになりかねません。
かつてハーバード大学のG.ハーバラ―が「ガイドラインで設定された目標を機械的・一律的に適用することは、・・・相対賃金(賃金構造)のパターンを凍結させ、極めて有害な結果をもたらすことになる」(AER、1972年;翻訳及び中間省略は筆者による)と警告したのは、このようなことを念頭に置いたものと考えられます。
仮に一律の賃上げ率を求めたとしましょう。企業によって労働生産性は大きく異なります。したがって、労働生産性の高い企業は賃上げを吸収できたとしても、労働生産性の低い企業の中には、賃上げ分を価格に転嫁した結果、売上が減って利益が減少する、あるいは価格転嫁できずに利益が圧縮されるという企業が出てくる可能性があります。場合によっては、市場からの退出を余儀なくされる企業も出てくるかもしれません。
もちろん、このような形で生産性の低い企業が退出することによって、経済全体としての生産性は上昇することになります。考え方によっては、長期的な経済成長のためには、これは望ましい構造変化であると言うことができるかもしれません。このように、賃金の引き上げを梃子に、産業構造を労働集約的なものから、技術・知識集約的なものへと転換させた例としては、シンガポールがあります。(興味のある方は、昨年9月の本コラム「無資源小国シンガポールの成長戦略」を参照して下さい)。
もしこのようなことをIMFが狙っているとすれば、それをより積極的に提示し、それを巡る議論を喚起させるべきでしょう。それを受けて、そのようなことが可能なのか、その効果はどの程度のものかを検討するとともに、それを採用するのであれば、それに伴う調整費用を最小化するための政策・制度の整備についても議論する必要があると思います。
なお、このような問題は、仮に全国一律ではなく、産業別にガイドラインを設定したとしても、回避することはできません。同一産業の中にも様々な企業が存在するからです。もし生産性の異なる企業別にガイドラインが設定できればそれが望ましいと考えられますが、それを事前に設定することは困難だと考えられます。ただし、生産性に見合った賃上げをしたかどうかは、事後的に企業別労働分配率を計算すれば分かるので、それを手がかりにすることは考えられるかもしれません。
【雇用契約改革についてのコメント】
IMFの提言に対するコメントの第2は、雇用契約改革に関するものです。IMFが期待するような、同一労働同一賃金の導入加速による賃金上昇は、現在の日本における雇用システム全体の改革、特に終身雇用制の改革がなければ、実現が難しいと考えられる点です。
同一労働同一賃金は、職務内容が明示されていないような現在の雇用契約の下では実現困難です。そして、このように職務内容が曖昧な雇用契約が、終身雇用制にとって不可欠のものであるとすれば、同一労働同一賃金は、終身雇用制の改革を伴わなければ、実現できないことになります。そのような状況の下では、賃金は、職務ではなく、年功的な要素で規定されざるを得なくなるからです。(この点についてご関心のある方は、本年5月の本コラム「同一労働同一賃金の先にあるもの」を参照して下さい)。
ところが、IMFは、正規雇用と非正規雇用との中間に位置する雇用形態に期待をかけているようです。ここで言う、中間的な雇用形態とは、いわゆる「限定正社員」を指していると思われます。このような雇用形態は、異動などについては制約があるため、賃金は正規労働者より低い水準に設定されているものの、終身雇用が保証されているような雇用形態のことです。
これは新たな雇用形態として期待される面はありますが、基本的には終身雇用の枠内のものであることから、中長期的な不確実性の高い現状にあって、長期的なコミットメントを回避する傾向の強い企業においては、このような雇用形態が大きく拡大するとは考えにくいように思います。
このように、IMFは一方では終身雇用に期待しながら、他方では終身雇用の下では限界のある政策提言を行っているように思います。IMFとして、日本の雇用システムについてどのように評価し、どのように展望しているかについて、もう少し明らかにされることが期待されます。
【政策論議に一石】
既に述べたように、賃金引き上げは、今後の経済成長の展望を切り開くにあたって、鍵を握っている重要な課題です。したがって、そのためにはどのようなことが可能なのかを、これまでの常識にとらわれずに検討することが極めて重要です。その点で、IMFによる今回のような「非伝統的」な政策提言は高く評価すべきだと考えます。それは政策論議に一石を投じる役割を担うことでしょう。
しかし、以上の検討でも明らかなように、IMFが提言した所得政策が最終的な解決策になり得るかというと、残念ながらそうにはなりそうもないというのが私の結論です。
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