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齋藤潤の経済バーズアイ (第59回)

「物価水準の財政理論」は日本に適用できるか?

 

2017/02/20

【「物価水準の財政理論」とは】

 デフレからの脱却が遅れ、金融政策にも手詰まり感がある中で、「物価水準の財政理論(FTPL)」への関心が高まっています。先日も、この理論の先駆者であり、日本への適用を提言しているプリンストン大学のクリストファー・シムズ教授が日本を訪れました。彼の主張によれば、物価水準は財政政策によって決まり、デフレ脱却を目指す日本政府が現在なすべきことは、財政政策をインフレ目標にリンクさせることであるということになります。より具体的に言うと、消費税率の引き上げをインフレ目標が達成できるまで延期すべきだと提言しています。
(東京で開催されたセミナーにおけるシムズ教授の講演とその後のパネル討論の概要については、「国は「将来の増税なし」と宣言し、インフレ誘導を―物価水準の財政理論でシムズ氏らが講演」を参照して下さい。)

 このような議論は、世界的にも最悪の状態にある財政事情に対する考慮を欠いたものだと批判されがちな積極財政論に対して、強力な理論的裏付けを与えてくれることになります。もっとも、シムズ教授は財政再建が不必要だと言っているわけではありません。「インフレが実現されれば実質政府債務をある程度削減することはできる。しかし、その削減の程度は、ハイパーインフレを許容するのでもない限り限定的なものに止まる。したがって、一旦インフレ目標を達成したら、財政政策も財政再建にギアを切り替えるべきだ。」というのがその主張です。

 このような議論を日本に適用することはできるでしょうか?

 実は、日本経済の現状に見られるいくつかの特徴が、FTPLの日本への適用を難しくしているように思います。以下では、このうちの2点だけ指摘したいと思います。

【家計は政府債務を保有していない】

 第1は、FTPLが想定する政策効果の伝播経路(トランスミッション・メカニズム)に関連しています。FTPLが政府債務で賄われた拡張的な財政政策が効果を持つと考えるときの前提は、家計が必要以上の政府債務を保有することになると(資産の増加)、必ず支出を増加させることになり、それがもたらす財やサービスへの需要増が物価を押し上げる、というものです。

 このような考え方について言うと、そもそも家計が必要以上の政府債務を保有するに至るのはなぜかという問題があります。ヘリコプターからまき散らされた政府債務を拾ったのでもない限り(「ヘリコプター・ボンド」?)、家計はその政府債務を購入したはずです。しかしそうであれば、必要以上の政府債務を持っていると急に認識するという「サプライズ」に直面することはないように思います。しかも、もし政府債務が大量に発行されているのであれば、その価格は下落しているはずで、資産は増加ではなく、むしろ減少しているとさえ思われます。

 しかし、日本経済の現状を考えた時、実は、こうした経路の理論的な説得力以前に問題になることがあります。それは、そもそも日本の家計が政府債務を保有していないということです。図表で示した通り、2016年9月末時点(データーが入手可能な最新時点)における国債発行残高は1091兆円ですが、家計が保有しているのは、このうちの13兆円、全体に占めるシェアで言うと1.2%に過ぎません。逆に、家計が保有している金融資産の側から見ても、同じく2016年9月末時点における金融資産1752兆円のうちの0.7%にしか相当しません。

図表 国債等の保有者内訳 (2016年9月末時点)

(データ出所)日本銀行

 政府債務を家計が直接保有するのではなく、その政府債務の増加によって賄われた財政支出が何らかの理由で家計に影響を及ぼすことになるのであれば、家計は支出を増加させるかもしれません。例えば、2000年代末に我が国で実施された定額給付金のような家計への移転(「ヘリコプター・マネー」)が行われれば、それを受けて家計が支出を増加させることは十分に考えられます。

 このように、FTPLを日本に適用できることを示すためには、政府債務の結果どのような財政支出が増加するのか、といった議論も追加する必要があるように思われます。

【家計はますますリカーディアンではなくなっている】

 FTPLを日本に適用することの難しさの第2は、政府債務残高をどのように管理していくかという問題に関連しています。前述したように、FTPLの立場からは、日本の財政再建は、インフレ目標が達成されるまでは延期し、いったんインフレ目標が達成されたならば、その後は財政再建に努めるべきだと言うことになります。

 このような議論は、いわゆる「ヘリコプター・マネー」論者からすれば、妙に映るはずです。なぜなら、「ヘリコプター・マネー」論の出発点は、政府債務で賄われた財政支出を増加させても、将来における国債償還を予想した合理的な家計(「リカーディアン家計」)は支出を抑制し、貯蓄を増加させることになるため、その効果が減殺されてしまう懸念があるという点にあったからです。

 財政政策の効果を減殺するこのような支出抑制行動を家計にとらせないために、例えばベン・バーナンキ氏(前FRB議長)の場合には、中央銀行の保有する政府債務は永久に借り換えられるようにすべきだ(永久に償還しない)と主張することになります。また、アデア・ターナー氏(元FSA長官)の場合には、中央銀行が保有する政府債務は、利子の付かない永久債に置き換えられるべきだという主張につながることになります。(なお、以上に関連して、ヘリコプター・マネー論を国債償還との関連で議論した本年1月のコラム、「国債を償還せずに済むか:ヘリマネ論との関連において」も参照して下さい。)

 このような立場からすると、財政再建は「インフレ目標を達成するまでは凍結する」といった主張では、その後のことまでをも見通すリカーディアン家計の支出抑制行動を止めるには有効ではないということになります。

 もっとも、日本においては、リカーディアン家計の存在を前提にした「中立命題」が成立していないことが統計的に確認されています。そうだとすれば、リカーディアン家計のことをあまり心配する必要はないのかもしれません。シムズ氏の主張するような段階的な財政再建の取り組みも正当化できます。

 しかし、他方では、日本の家計はますますリカーディアンではなくなっているとの分析結果もあります。高齢化の進行を背景に、流動性制約の下にある家計が増え、将来のことよりは現在のことを重視するようになっているとの指摘があります。そうであれば、財政再建を延期し、将来の時点で改めて財政再建に取り組むことは、財政再建を直ちに進めることと比較すると、より悪い結果を招く可能性があります。財政再建が遠い将来に行われることになればなるほど、財政緊縮策(財政支出の削減や増税)はより大きなマイナスの乗数効果を持つことになるからです。(なお、以上に関する参考文献については、本年2月の英文コラム”Applying FTPL to Japan“を参照して下さい。)

【日本が直面する難題への解答を求めて】

FTPLを日本に適用することには、以上のようにいくつかの難点があります。しかし、それであっても、FTPLが重要な問題提起をしていることは否定できません。FTPLは、物価水準の決定において金融政策と財政政策とがそれぞれどのような役割を持っているかということについて、より深く、詳しく理解する必要があることを示しているからです。その過程では、相互補完的な性格を有していると考えられるヘリコプター・マネー論との統合が見られる可能性もあります。

FTPLのような新しい理論を巡る議論を通して、デフレの脱却と財政危機の回避という、日本が直面する2つの大きな課題に対する処方箋が明らかになることを期待しています。