デジタル通貨は現金通貨を置き換えることになるか
2017/07/21
【現金通貨とデジタル通貨】
今月のコラムで取り扱う「通貨」とは、強制通用力をもった「法貨」のことです。現在の日本で言えば、日本銀行の発行する日本銀行券と、政府の鋳造する硬貨がこれに当たります。これらはいずれもある物理的な形状をともなっているので「物質的通貨」(physical currency)ということもできますが、通常は「現金」(cash)と呼ばれているので、このコラムでも「現金通貨」と呼ぶことにします。
これに対して、「デジタル通貨」(digital currency)とは、物理的な形状を伴っておらず、電子的なものとしてのみ存在する通貨のことを指します。ビットコインのような仮想通貨も電子的なものとしてのみ存在しますが、ビットコインは「法貨」ではないので、ここで言うデジタル通貨には含まれません。中央銀行が電子的なものとしてのみ存在する貨幣を発行したとすれば、それは法貨となるので、ここで言うデジタル通貨に該当することになります。
そういう意味では、デジタル通貨は、日本を含め、世界のどの国においても、まだ存在していません。しかし、デジタル通貨の発行に向けた動きは、最近、顕著なものになってきています。そこで今月のコラムでは、このデジタル通貨の可能性について考えてみたいと思います。
【現金通貨の増加傾向】
実は、現金通貨の流通は、多くの国で増加傾向にあります。そして、その最大の要因は、高額紙幣の増加にあります。例えば、日本の場合も、1980年代後半以降、現金通貨は増加を続けていますが、その要因は1万円札の増加となっています(第1図)。
第1図 日本:現金通貨の流通高
(データ出所)日本銀行、内閣府
しかし、このように増加している現金通貨の使途には不明なところが非常に多くあります。通常の経済活動では説明できないような規模で現金通貨が増加をしているのです。そこで浮かび上がってくるのが、高額紙幣を中心とする現金通貨が、脱税や犯罪、賄賂などの違法取引に利用されている可能性です。
【高額紙幣廃止への動き】
そうしたことを背景に、最近、高額紙幣の廃止を訴える論調が強まっています。
著名な経済学者であるケネス・ロゴフ教授もそうした論者の一人です。彼は、高額紙幣を廃止することがもたらすメリットとして、脱税や犯罪、汚職などの違法行為を削減できることを挙げています。もちろん、そのことによって政府の通貨発行益(シニョリッジ)は縮小することになります。しかし、その減少分は、地下経済が表に出てくることによる税収の増加によってカバーできるとしています。加えて彼は、高額紙幣を廃止すると、マイナス金利政策の影響を回避しようと現金通貨に乗り換える動きをかなりの程度封じることができるので、金融政策の余地も拡大することになるというメリットも指摘しています(Kenneth S. Rogoff, The Curse of Cash, 2016。邦訳『現金の呪い』日経BP社、2017年)。
同じく著名な経済学者であるローレンス・サマーズも、「100ドル札をなくすときが来た」と同様の主張を展開しています(Lawrence H. Summers, It’s time to kill the $100 bill, The Washington Post, February 16, 2016)。
実は、高額紙幣の廃止は、抽象的な議論の段階にとどまってはいません。現実に、その方向に沿った政策が実行に移されています。例えば、スウェーデンは、2013年に1000クローナ紙幣を廃止しています。また、現金決済に上限を設ける動きも存在します。デンマークでは、2012年に、現金決済の上限を10,000クローネとしました。こうした結果、スウェーデンやデンマークでは以前から現金通貨の流通量は少なかったのですが、その減少傾向にはさらに拍車がかかっています(第2図)。
第2図 スウェーデン:現金通貨の流通高
(データ出所)スウェーデン中央銀行
北欧以外でも、例えばインドで、2016年11月に(いささか強引に)高額紙幣の廃止が行われ、混乱をきたしたとの報道があったことは記憶に新しいところかと思います。
【デジタル通貨への動き】
ところで、高額紙幣の廃止を主張するロゴフ教授も、小額紙幣や硬貨までを廃止せよと言っているわけではありません。最終的には硬貨に置き換えることを展望しながら、「小額紙幣の流通は恒久的に維持する」としています。そのことから、自分は「キャッシュレス社会」を主張しているわけではなく、「レスキャッシュ社会」を主張しているに過ぎないと説明しています。
また、政府の発行する通貨が「いずれ全面的に電子化される可能性は否定しない」としながらも、デジタル通貨の実現可能性について具体的に言及することはしていません。
しかし、現実には、デジタル通貨への歩みは想像以上に速まっているように思えます。スウェーデンやデンマークのほか、英国、カナダ、ユーロ圏、中国などの中央銀行は、デジタル通貨の発行可能性に関する研究を具体的に始めています(例えば、Ben S.C. Fung and Hanna Halaburda, Central Bank Digital Currencies: A Framework for Assessing Why and How, 2016)。また、中央銀行総裁がデジタル通貨発行の展望を語るようになってきています(”Blockchain Lures Central Banks as Danes Consider Minting E-Krone,” Bloomberg, 11December 2016 )。そうした動きを受けて、スウェーデンやデンマークは、2030年までにはキャッシュレス社会に移行するのではないかと見られています。
【デジタル通貨発行のメリット】
そもそも中央銀行がデジタル通貨を発行することのメリットは、どこにあるのでしょうか。
すでに中央銀行の提供する決済システムは、電子的手段によって行われています。したがって、電子的手段を用いること自体は、何も新しいことではありません。しかし、中央銀行と金融機関とからなる階層的な決済システムを介することによって個人が取引の決済をしようとする場合、かなりの取引費用を負担しなければならないのが現状です。銀行を通じた決済は、振り込み手数料がかかり、しかも時間的なラグも伴います。現金で取引をするのであれば、手数料はかからないし、決済も瞬時に完了しますが、その代わり、現金を下ろしに行ったり、現金を保管したりする費用や手間がいることになります。
これに対して、デジタル通貨であれば、そうした取引費用や時間を節約することが可能になります。もっとも、それはデジタルであるということだけで実現できるわけではありません。分散型取引台帳技術(distributed ledger technology)と組み合わされることではじめて実現できることになります。
分散型取引台帳技術の代表的な技術は、ビットコインの基盤技術となっているブロックチェーンです(これについては、このコラムで取り上げたことがあります。「フィンテックと金融政策・金融監督(2015年11月17日)」を参照してください)。決済システムは、同じ通貨が二重に使用されること(double-spending)を防ぐ必要がありますが、その点におけるブロックチェーンの特徴は、当該スキームに参加するネットワーク参加者(minerと呼ばれる)が、新しいビットコインの供給を手に入れることをインセンティブにして暗号を解くことによって、結果的に取引が承認されるというシステムになっていることにあります。そもそも「ブロックチェーン」という名前も、承認の結果が新しいブロックとして電子的な台帳に書き加えられ、長いチェーンのようにつながっていくことに由来しています。
現在の決済システムの下では、二人の間の取引は、(双方とも同一銀行と取引をしているのであれば)取引銀行を通じたり、(双方の取引銀行が異なるのであれば)中央銀行にある両銀行の口座を通じたりして清算が行われる中央集権型の取引台帳システムを通じて行われます。これに対して、ブロックチェーンを利用した決済システムは、中央集権的な存在を必要とせず、分散型の決済システムの中で決済が行われることになるのです。ただし、現在のブロックチェーンのままでは一度に扱える取引には限界があるので(scalabilityの問題)、新たな技術が求められています(その一例がRSCoinです)。
【デジタル通貨発行の影響】
デジタル貨幣が発行されると、このように決済システムの利便性が高まることになりますが、同時に、様々な分野に影響が及ぶことになります。そして、それに伴って、新たな問題も生じてきます。
第1に、デジタル通貨へのアクセスの問題です。もう少し具体的に言うと、例えば、現在銀行口座にアクセスがないような人をどうするかという問題です。
クレジットカードをはじめ、これまでの電子的決済手段の多くが銀行口座を介して決済されてきましたので、このような懸念が生じることは理解できます。しかし、新たな電子的決済手段の場合、必ずしも銀行口座を必要とするわけではありません。デンマークで広範に普及しているMobilePayやケニアのSaffaricomは、銀行口座がなくても機能します。
したがって、銀行口座へのアクセスがネックになるとは考えにくいのですが、仮に銀行口座を利用するのが最も簡便な方法であるとするならば、ロゴフ教授が言うように、政府が補助金を出して口座を持てる用意をしたり、政府がそれを直接提供したりすることが考えられます。
第2に、金融システムへの影響の問題です。銀行を重要な構成員とするこれまでの金融システムが維持できなくなるのではないかという問題です。
前述のように、デジタル通貨が最もそのメリットを発揮するのは、取引台帳が分散型で管理されるような仕組みができた場合です。その場合、個人は、必ずしも日常取引上の目的で銀行口座を持つ必要がなくなります。デジタル通貨の取引で決済が完了するということは、あたかも個人は中央銀行に直接口座を持っているような状況に近づいていくわけです。これは、これまでの金融システムに大きな変化をもたらすことになります。特に銀行のビジネスモデルは、大きな転換を迫られることになると考えられます。
第3に、金融政策への影響の問題です。これまでの金融政策は銀行を介してその効果が発現することが中心でした。インターバンク市場の短期金利に影響を及ぼしたり、マネタリーベース(特にその大宗をなす中央銀行に保有されている準備預金)の規模を調節したりする政策手段は、いずれも銀行の貸出行動に影響を及ぼすことを企図していました。しかし、銀行のビジネスモデルが変わってくると、金融政策の伝播経路(トランスミッション・メカニズム)にも変化をきたすことになります。これによって、金融政策の再構築が必要になってくるものと思われます。
【現金通貨とデジタル通貨の並存は可能か】
なお、スウェーデンは、仮にデジタル通貨を発行することになっても、現金を代替するものではなく、補完するものとして位置づけると説明しています(Cecilia Skingsley, Should the Riksbank issue e-krona? 16 November 2016)。つまり、デジタル通貨と現金通貨が並存することになると想定されているわけです。これは、取引の匿名性に対する希望などがある限り、完全に現金通貨を廃止することは困難であるとの判断があるものと考えられます。
しかし、両者の並存は、経済を不安定化させる可能性があるとの指摘もあります。金融危機時の時などには、両者の間で資金の大幅な移動が生じかねないからです(Gabriele Camera, A perspective in electronic alternatives to traditional currencies, 2017)。したがって、デジタル通貨を発行すると、それは不可避的に現金通貨を置き換えることにならざるを得ない可能性があります。仮にそうだとすると、デジタル通貨の発行は、まさに「キャッシュレス社会」への幕を開くことになります。
【通貨のイノベーション】
歴史を振り返ると、通貨は、いくつものイノベーションを経て、今日に至っていることが分かりました。商品貨幣から鋳造貨幣が生まれ、やがて紙幣が発行されるようになります。また、紙幣も、政府紙幣から銀行券への発展がありましたし、銀行券も、兌換銀行券から不換銀行券への変遷を遂げています。
デジタル通貨への動きも、このような貨幣のイノベーション史のなかに位置づけられるべき出来事のように思われます。そうであれば、デジタル通貨を発行すべきか否かという問題を立てるのではなく、デジタル通貨を押しとどめることのできないイノベーションの一つとして受け止め、経済社会がそれを円滑に取り込んでいくためにはどうすればいいのかという問題について考え始める必要があるのではないでしょうか。
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