数値目標先送りの経済学
2018/05/21
【数値目標の先送りが相次ぐ】
このところ、数値目標が設定されたにもかかわらず、その目標年度を先送りするような事態が相次いでいます。
まずは、金融政策における数値目標の目標達成年度先送りです。2013年4月に導入された量的・質的金融緩和政策(QQE)では、当初、消費者物価の前年比上昇率を2%にする目標を2年以内に実現するとされていました。しかしその達成が困難になってくるのに伴って、何度かにわたって目標達成年度が先送りされ、本年4月にはついに目標達成年度それ自体の表明が取りやめられました。
財政再建の数値目標の目標達成年度も先送りされています。2013年に策定された「中期財政計画」では、2020年度までには基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字化し、その後、公債等残高の対GDP比を安定的に引下げていくとしていました。しかし、その達成が困難な見通しとなったので、現在、財政再建計画の見直しが進められています。その内容は本年6月の「骨太の方針」の公表まで待たなくてはなりませんが、報道によると、目標達成年度は2025年度ないし2027年度に先送りされるようです。
このような事態をどう考えたらよいのでしょうか。達成できなくなったら目標を見直すのは当然かもしれませんが、そもそも達成するために立てた目標です。これを達成できなかったとして改訂をしても良いものでしょうか。その影響はないのでしょうか。今月の本コラムでは、こうした点について考えてみたいと思います。
【数値目標の意義】
まず、数値目標を立てることにはそもそもどのような意味があるのかを確認しておきましょう。
目標は、それを達成することが重要であるからこそ立てられるのですが、本当は厳密な数値目標を立てることにはリスクがあります。それを達成できなかった時には、言い逃れができないからです。言葉だけの抽象的な目標であれば、言い回しで弁明をすることができるかもしれません。しかし、数値目標であれば、達成できたかできなかったかは一目瞭然です。そのようなリスクがあるにもかかわらず数値目標を設定することは、それだけ政府としては自分を縛ることになります。
実は、数値目標は、まさにその点にこそ設定することの意味があります。言い逃れのできない数値目標を設定することによって、それだけ政府は不退転の決意を持って取り組むつもりでいる、ということを示すわけです。それは、当然、民間の経済主体である家計や企業にも影響を及ぼします。政府がそのように考えているのであれば、必死に実現するであろう。そうであるならば自らの行動もそれを前提にして決めよう、ということになります。
このような民間部門の反応は、数値目標の達成にとっては強力なサポート要因になります。中央銀行が物価上昇率について目標が設定され、その結果実際に物価が上がると皆が思えば、今からモノを買っておこうという行動に結び付き、その結果、実際にも需要が盛り上がり、物価が上昇していくことになります。財政再建においても、政府が確実に財政再建策を実行するのであれば、金融市場の混乱や金利の高騰は起こさないはずなので、マクロ経済環境が安定して推移することを前提に、設備投資などの決定が行われることになります。
このような数値目標の信頼性を高めるために、さらに中間目標を設定する場合があります。政府は10%への消費税率の引上げを2015年10月から2017年4月に延期することを表明した後の2015年に、2020年度の手前の2018年度に中間目標を新たに設け、この時点で基礎的財政収支赤字のGDP比を1%にまで圧縮するとしました。これは一種のPDCAサイクルの導入であり、2018年の時点で赤字を1%にまで圧縮できていなければ、その時点で財政収支改善策を見直し、2020年度における黒字化を確実なものにすることを約束したものです。
【数値目標先送りへの誘因】
目標設定時点ではその達成が重要であると思われた数値目標も、時間が経つにつれて重荷になってきます。金融緩和で物価が上がると思っていたが、なかなか思うようにならず、本来ならば金融緩和を拡大すべきだが、それについてはいろいろと弊害が考えられ、なかなか思い切れない。あるいは、財政収支を改善させようと思ったが、思うように改善しないので、本来ならば財政再建策の追加をしなければならないが、それには経済に対して下押し圧力をもたらす懸念があるので躊躇してしまう、という事態です。こうした場合には数値目標を先送りしたいという誘因(インセンティヴ)が強まることになります。経済学で言う「経済政策の時間的非整合性」が顕在化してしまうわけです。
通常はこうした矛盾を予め見越して、自分の手を縛るような工夫をします。法制化をしたり、国際公約にしたりして、政策の逆転をしにくくするわけです。
市場からの圧力も、目標先送りをチェックするのに一役買います。例えば、財政再建が必要とされているときに、数値目標を含む強力な財政再建策が打ち出されれば、市場はそれを評価して金利の低下という報酬を与え(reward)、もしそれから逸脱すれば、金利高騰という罰(penalty)を与えるわけです。こうした市場の反応は、数値目標をとることを後押しするとともに、それからの逸脱を躊躇させることになるはずです。
【先送りを許容しやすい日本の環境】
このように考えてくると、日本には、数値目標を採用しにくくし、また採用されてもそれからの逸脱を容易にしてしまうような環境があることが見えてきます。
第1に、日本の国債の約8割を日本銀行及びその他の金融機関が保有しているということです(これに対して外国人投資家の保有は1割程度)。銀行にとって国債はリスクウェートゼロで、それについて自己資本を積み増す必要はありません。保険会社等にとっても、長期債務に見合う長期債権として国債保有は必要です。このような状態にあるときには、国債が短期的な動機から売買され、償還に対する懸念を材料に金利が高騰する可能性は限られてきます。つまり金融市場からのペナルティーが効かない環境にあるわけです。
第2に、超金融緩和状態が続いているということです。特に現在は長短金利操作(イールドカーブ・コントロール)が行われ、長期金利がゼロに抑えられています。そうでなければペナルティーで金利が上がるという状況であっても、超金融緩和状態にあるために金利の上昇余地が極めて限られているのです。この点からも、金融市場のペナルティーが効きにくくなっています。第3に、高齢化が進んでいることです。若い人が多ければ、将来のことであっても将来の自分に降りかかってくる可能性があるので、現在のデフレや財政状態悪化の問題について関心があるはずです。しかし高齢者が多くなると、将来のことは、自分のことというよりも将来世代のことになる可能性が高くなります。このような場合には、直ちに大きな問題に発展する可能性がない限り、先送りすることに懸念を抱くということにはならなくなります。
【掘り崩されていく政策当局の信頼基盤】
このように、日本では数値目標の先送りが許容されやすい環境にあります。したがって、このような環境が続く限り、同様なことは繰り返される可能性が高いように思います。
しかし、問題は、このような環境がいつまでも続くとは限らないことです。数値目標の力を借りて政策を強力に推進しなければならない時期がやがて来ると考えられます。その時に起こり得る最も恐ろしいことは、数値目標の力を借りたいと思っても、これまでの経験から、だれも数値目標が約束通り守られるとは思わなくなってしまっているということです。このような事態は、経済政策の効果の発現にとって大きな制約になります。
数値目標を先送りすることの最も大きな代償は、政策当局の信認が失われることにあるように思います。
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