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齋藤潤の経済バーズアイ (第91回)

日本経済に賃金主導型成長戦略は有効か

 

2019/10/21

【賃金主導型か利潤主導型か】

 多くの先進国で、労働分配率が低下し、格差が拡大する一方、生産性が低下し、成長率が鈍化するという傾向が見られています。このような長期停滞(secular stagnation)を統一的に説明しようとする試みがいくつかありますが、その一つとして、「賃金主導型レジームか、利潤主導型レジームか」という視点からの議論があります。これは、もともとはポスト・ケインジアンの考え方に端を発しています(Bhaduri and Marglin, 1990)。しかし、最近は、国際労働機関(ILO)などもこれに関心を持つようになっており、研究が進められています(Lavoie and Stockhammer, 2013)。また、各国の経済政策にも影響が見られるようになってきています(例えば、後述するように韓国)。

 「賃金主導型レジームか、利潤主導型レジームか」という視点は、賃金の二面性に着目したものです。

 賃金は、一方では、労働者にとって所得の源泉であり、賃金の増加は家計消費の増加を通して総需要の増加要因となります。もし、この総需要の増加が設備投資の増加をもたらせば、総需要の増加はさらに大きくなることになります。

 しかし、賃金は、他方で、企業にとっては費用の一部であり、賃金が増加すると利潤は減少し、収益率の低下を通して設備投資を抑制し、総需要の減少要因となります。さらに、賃金の増加による国際競争力の低下が、純輸出の減少をもたらすことになれば、総需要の減少は一層大きなものになります。

 基本的には、この正反対の効果のどちらが大きいかで、レジームが決まってきます。前者が後者を上回り、賃金の増加がネットで総需要の増加をもたらし、経済成長を促進するというのが「賃金主導型レジーム」です。逆に後者が前者を上回り、賃金の増加が総需要を減少させ、経済成長を抑制するのであれば、賃金を削減し利潤を増加させれば総需要が増加し、経済成長を促進させることができるはずです。これを「利潤主導型レジーム」と言います。

 いずれかのレジームにあるかによって経済政策のあり方も変わってきます。もしその国が「賃金主導型レジーム」にあるのでれば、賃金を増加させ、労働分配率の低下を食い止めるような政策が採られる必要があります。これを意識的に実践しようとしているのが、韓国の「所得主導型成長戦略(income-led growth strategy)」の下で進められている最低賃金の引上げです。韓国では、最低賃金が2018と2019年に、合わせて29%の引上げが行われています。

 逆に、もしその国が「利潤主導型レジーム」にあるとすれば、利潤を増加させることで経済成長を促進させ、その結果として賃金の増加を果たすという「trickle down」戦略が望ましいということになります。

【各国はどのレジームに属しているか】

 それでは、先進各国は、実際にはどのレジームに属しているのでしょうか。総需要を構成する主要項目ごとに行われた実証分析によれば、日本や米国を含むG7の国々の多くや韓国は「賃金主導型レジーム」に属している一方、G7のメンバーであるカナダや、オーストラリア、メキシコなどは「利潤主導型レジーム」に属しているという結果になっています(Onaran and Galanis, 2012)。「賃金主導型レジーム」にある日本や米国は、賃金の増加を図ることによって経済成長を高めることができるはずだというのがそのインプリケーションです。

 こうした部分均衡的な実証分析に対しては、いくつかの批判があります。

 第1に、賃金増加の影響は、どのようなタイムスパンを考えるかによって変わってくるのではないか、という批判です。例えば、Blecker (2016) は、賃金増加の影響は設備投資には短期間で出てくるが、消費への影響はより長期間にわたってでてくるので、実証分析の対象を短期に限ってしまうと「賃金主導型レジーム」の国々も「利潤主導型レジーム」として捉えられてしまう可能性を指摘しています。

 第2に、そもそも経済全体において賃金は内生変数であるはずで、賃金だけを切り出して外生変数扱いにして、その変化の効果を論じることに意味があるのか、という批判です。このような批判に対応するものとして、内生性を考慮したVARモデルを推計した分析もあります。それによると、米国は「賃金主導型レジーム」であるとの結果になっています(Carvalho and Rezai, 2016)。

 この内生性の問題は、政策対応として何が良いのかという問題にもかかわってきます。市場経済の下で賃金決定が行われるという原則を尊重する限り、政策手段は限られてきます。具体的に提案されているのは、既にふれた最低賃金の引上げの他、労働組合の賃金交渉力の強化などです。数年前に日本に対して国際通貨基金(IMF)が行った政策提言に含まれていた所得政策もこの中に含まれると考えられます。

 第3に、賃金の増加については、これまで労働分配率の低下に伴って起こっている現象である不平等度の拡大への効果も、併せて考慮しなければならないということです。不平等度の拡大は経済成長にマイナス効果を及ぼす可能性がありますが、そうだとすれば、不平等度を縮小させるような賃金の増加は経済成長にとってプラスの効果をもっているはずだということになります。

 「賃金主導型レジームか利潤主導型レジームか」という議論にはまだ多くの論点が残っています。また、各国はいずれのレジームに属するのかという実証分析上の課題も残っています。しかし、経済政策のあり方を考える上では、興味深い視点だと思います。

【日本はどのレジームか】

 ところで、日本は「賃金主導型レジーム」にあると言えるでしょうか。実は、日本の場合には、いくつかの要因が重なることによって、賃金主導型レジームにはなりにくくなっているように考えられます。

 第1に、日本の雇用システムが終身雇用制と年功型賃金制を特徴としていることから、景気が後退すると賃金が高止まりし、労働分配率が上昇する傾向があるということです。その点を確認しようとしたのが、労働分配率の変化と実質GDP成長率の関係を見た第1図です。これを見ると、確かに負の相関が観察されます。

 このような傾向は、一方では、家計所得の減少を緩和することから、長期的な景気下支え要因になると考えられます。しかし、他方で、賃金コストの高止まりのために企業の調整を遅らせ、実質GDPの回復を遅らせる要因になります。

 第2に、日本の場合には、高齢化・人口減少が進展している上に、公的債務残高が増加しているため、家計が賃金の増加を消費の増加に回すことをためらう可能性が高いということです。本来ならば限界消費性向が高いはずであっても、こうした構造的な要因の下にあるために、貯蓄に回す傾向が強くなると、賃金増加のプラス効果は低下してしまうことになります。

 第3に、企業も、投資を抑制する傾向にあるということです。これまでの円高傾向の結果、製造業は海外に生産拠点を移しており、設備投資も海外で行われる比率が上昇しています。また、高齢化・人口減少の下で、国内市場が縮小していくことが予想される中、サービス産業においても、能力増強投資を行うインセンティブは弱まっていると考えられます。このような状況の下では、賃金の増加で総需要が増加したとしても、設備投資が増加するということは考えにくくなります。

【最低賃金引上げ政策について】

 最後に、最低賃金の引上げ政策について触れておきましょう。多くの国々が最近になって、最低賃金を導入したり、引上げたりしています。先述の韓国の他、日本や英国などが引上げを行っています。

 最低賃金の引上げは、経済学的には、通常は雇用にマイナスの影響を及ぼすものと考えられます。人為的に市場均衡賃金より高い賃金を設定することによって労働需要は減少し、労働供給は増加する結果、雇用は減少し、失業が増加するからです。日本に関する実証分析においてもそうしたことが確認されています(川口・森、2009、明坂・伊藤・大竹、2017)。韓国では、前述のように最低賃金を大幅に引上げましたが、同時に雇用の減少が見られ、そこでもそうした影響が見られたのではないかと言われています(Jones, 2019)。

 ただし、Card and Krueger (1994) 以来、最低賃金は雇用に負の影響を及ぼしていないという実証分析も報告されています。経済学においても、例えば、雇用主としての企業が一つしかないような需要独占の状態にあるような場合には、雇用に負の影響はないということが言えます。また、最低賃金の引上げが生産性の上昇につながれば、雇用へのマイナスの影響が相殺される可能性も出てきます(例えば、David Atkinson氏の主張)。筆者もかつて構造政策としての最低賃金引き上げについて論じたことがあります(「構造政策としての最低賃金引き上げ」2015年12月17日)。

 最低賃金の引上げは雇用に影響を及ぼしていないという結果が、こうしたことで説明できるのか。説明できないとすれば、雇用への影響はないという実証分析の結果をどう理解すれば良いのか。このことは、引き続き検討されるべき重要な課題だと思います。


(参考文献)
Bhaduri, Amit, and Stephen Marglin, “Unemployment and the real wage: the economic basis for contesting political ideologies,” Cambridge Journal of Economics, 1990.
Blecker, Robert A.,”Wage-led versus profit-led demand regimes: the long and the short of it,” Review of Keynesian Economics, Vol.4 No.4, Winter 2016.
Card, David, and Alan B. Krueger, “Minimum wage and employment: a case study of the fast-food industry in New Jersey and Pennsylvania,” American Economic Review, 1994.
Carvalho, Laura, and Armon Rezai, “Personal income inequality and aggregate demand,” Cambridge Journal of Economics, 2015.
Jones, Randall S., “Korea’s economic growth prospects under the income-led strategy,” Korea’s Economy, Korea Economic Institute of America, 2019.
Lavoie, Marc, and Engelbert Stockhammer, “Wage-led growth: concept, theories and policies,” in Lavoie and Stockhammer (eds.) Wage-led Growth: An Equitable Strategy for Economic Recovery, International Labour Organization, 2013.
Onaran, Ozlem, and Giorgos Galanis, “Is aggregate demand wage-led or profit-led? national and global effects,” Conditions of Work and Employment Series No.40, International Labour Organization, 2012.
明坂弥香・伊藤由樹子・大竹文雄「最低賃金の変化が」就業と貧困に与える影響」Discussion Paper No.999, 2017。
川口大司・森悠子「最低賃金労働者の属性と最低賃金引き上げの雇用への影響」『日本労働研究雑誌』No.593, 2009。