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齋藤潤の経済バーズアイ (第98回)

緊急事態宣言解除後の「新しい生活様式」

 

2020/06/01

【求められている「新しい生活様式」】

 5月25日、5都道県に対する緊急事態宣言が解除されました。これで、4月7日に7都道府県を対象に発出され、4月16日には全国に拡大された緊急事態宣言は、5月14日に39県、5月21日に3府県について解除されたのに続き、全国について解除されたことになります。

 この決定は、新型コロナ感染症の新規感染者数は減少してくるなど、感染拡大に一定の歯止めがかかったという判断に基づいています。しかし、私たちはまだ、新型コロナウイルス感染症に対するワクチンや治療薬を手に入れているわけではありません。したがって、このまま感染症拡大を封じ込めることに成功するのか、あるいは感染拡大の第2波に見舞われることになるのかは、ひとえに私たちが自身の行動を変容させ、実効再生産数を1未満に維持できるか否かにかかっています。

 この行動変容の具体的なあり方として求められているのが、「新しい生活様式」です。海外では「New Normal(新常態)」と呼ばれているものです。厚生労働省が5月4日に発表したガイドラインによると、それは、身体的距離の確保、マスクの着用、手洗いの励行などが主な柱になっています。

【「新しい生活様式」に含まれる新しい経済システムの萌芽】

 緊急事態宣言解除後においては、一部で新型コロナウイルス感染症が拡大する以前(Before-Corona)の生活に単純に戻ろうとする動きも見られます。このような動きは、再び感染拡大をもたらすリスク要因になりかねず、警戒を要します。しかし、幸いにも、多くの人は、感染拡大のリスクを考慮して、それぞれの立場で「新しい生活様式」を採用しようとしています。

 ここで注目したいのは、この「新しい生活様式」のうち、どの部分が、コロナを克服するまでの一時的な生活様式で、どの部分が、コロナを克服した後も定着する生活様式となるかです。言い換えれば、With-Corona の間だけの生活様式か、After-Coronaにもつながる生活様式なのか、ということです。

 確かに「新しい生活様式」は、これまでの生活様式とは大きく異なり、戸惑うことが多いものです。したがって、いったんコロナを克服できれば、取り止めたいと思うものが多いのも事実です。しかし、コロナ後も残るかどうかは、それが合理的か、効率的か、ということで決まります。安定的な経済システムは、経済主体が相互に最適な行動を採りあっているような状態(ナッシュ均衡)にあります。個人や企業にとって合理的・効率的なものは、After-Coronaの時代にも残るし、そうでないものは、With-Coronaが終われば消えていくと考えられます。

 そういう意味で言うと、新型コロナウイルス感染症が社会や経済に大きな影響を及ぼしていく過程で、日本の経済システムの不合理・非効率な面がいろいろと浮かび上がってきたように思います。そして、現在の「新しい生活様式」の中には、そうした日本の経済システムの不合理性・非効率性を克服する新しい経済システムの萌芽のような動きが含まれているように思えます。こうした動きがAfter-Coronaにも残るものになるのではないでしょうか。以下では、4つの点に絞って、新しい経済システムの萌芽になるような動きについて論じたいと思います。

【時間・空間節約型勤務体系へのシフト】

 第1は、在宅勤務やテレワークなど、時間・空間節約型勤務体系へのシフトです。新型コロナ感染症の拡大がはっきりしてから、多くの企業が在宅勤務やテレワークに切り替えています。4月中旬に実施された経団連の調査によると、加盟企業のうち、在宅勤務やテレワークを既に導入しているのは、企業数でいうと全体の97.8%、従業員数でいうと全体の66%に上っているとのことです。

 これまでも在宅勤務やテレワークを拡大する動きはありましたが、労働時間管理等の問題でなかなか進みませんでしたが、今回の事態で、それが一挙に進んだ感があります。そして、在宅勤務やテレワークを経験する中で、企業も、従業員も、その合理性・効率性に気がついたのではないかと思います。

 もちろん、狭い家の中で、子供が遊びまわっているところで仕事をすることは、決して楽なことではありません。他の家族もテレワークをしていれば、Wifiの能力も気になります。しかし、通勤にかける長い時間とそれに伴うストレスを考えると、在宅勤務やテレワークは、より有効に時間が利用でき、ワークライフバランスにも役に立ちます。加えて、会議時間の短縮や意思決定プロセスの合理化(電子署名の導入等)が並行して実施されれば、企業の生産性の上昇にもつながるはずです。つまり、従業員にも、企業にとっても、在宅勤務やテレワークは最適な選択になり得るのです。

【時間・空間節約型診療体制へのシフト】

 第2は、オンライン診療の拡大です。新型コロナウイルス感染症患者の受入れのために、病院が受け入れることのできる一般患者数が減少する一方、感染を恐れて病院への診療を躊躇する一般患者が増えました。そうしたことを背景に、オンライン診療が拡大しています。

 これには、特例として初診時から保険適用が可能になったことも後押しをしていると思いますが、これまでの通院に比べるとはるかに効率的であることも大きく貢献しているのではないかと思います。従来の通院であれば、簡単な問診と処方箋をもらうだけであったとしても、長時間にわたる待ち時間を耐えなければなりません。しかし、オンライン診療であれば、自宅で連絡を待っていれば良いのではるかに効率的です。病院側にとっても、空き時間などをオンライン診療に充てることができるので、業務の効率化につながります。これも、病院側と患者側の双方にとって最適な選択になると考えられます。

【時間・空間節約型行政サービス提供体制へのシフト】

 第3は、行政のオンライン化です。残念ながら、これには評価すべき事例はあまりありません。E-Taxは確かに便利になりました。しかし、それ以外の面では遅れており、今回の事態は、その遅れと必要性だけを浮かび上がらせることになったように思います。特別定額給付金のオンライン申請のチェックを人海戦術でやったり、手間がかかるので最終的にオンライン申請を取りやめたりするなど、これまでの電子政府化の取り組みの内容に疑問を抱かせるような事例ばかりが目立ちました。これを機会に行政のオンライン化を促進すれば、国民にとっても、行政にとっても、時間や費用の節約になり、効率化に資するものと考えられます。

【時間・空間節約型勉学方式へのシフト】

 第4は、大学などでのオンライン授業の普及です。ソーシャル・ディスタンシングのために、大学のキャンパスは閉鎖され、それに伴って教室での従来型の授業は不可能になりました。その代わりに登場したのがオンライン授業です。オンライン授業には、オンデマンド型(録画視聴型)とリアルタイム型(同期型)とがありますが、いずれも、物理的な移動を必要としない授業なので、キャンパスは閉鎖されていても問題ありません。

 オンライン授業の拡大も大学などで以前から議論されていました。しかし、なかなか実現に至らず、公開授業などの提供手段として一部で利用される程度に止まっていました。しかし、コロナは事態に急進展をもたらしました。文科省の調査によると、5月中旬時点で、遠隔授業を実施又は検討中の高等教育機関は、全体の96.6%に上っています。

 オンライン授業は、大学にとっても、学生にとっても、メリットがあります。物理的にキャンパスにまで移動する必要がないので、教員の採用にあたっては、もっと地理的に広範な地域の人材を対象にすることができます。世界に対象を広げることによって、大学が提供する教育水準を高めることが可能になります。学生も授業を自宅で受講することができるので、居住地を移すことなく、外国の大学に留学することが可能になります。留学にかかる費用を考えても、学生の選択肢はそれだけ広がったと言えるでしょう。

 オンライン授業にはそれ以外のメリットもあります。日本人の学生は、外国人の学生と違って、授業中に質問するのを躊躇する傾向があります。ところが、オンライン授業だとチャットで質問できるので、これまでよりも気軽に質問ができるようです。これは、授業の理解度を上げるのに大いに役立つと考えられます。

 このように考えてくると、学生側から見ても大学側から見ても、オンライン授業というのは、After-Coronaにおいても、大学の重要な教育手法として残るものと考えられます。

【学年制の柔軟化と採用システム】

 ところで、教育に関しては、学年の開始を9月に変更するかどうかが議論されています。この提案は、そもそもは、学校が閉鎖されているために学習が遅れている生徒に、学習の後れを取り戻す時間を与えるためにはどうすれば良いかという問題意識が発端となっています。また、9月を学年の始まりにすれば、多くの欧米主要国と学年が揃うことになり、日本人学生の海外留学、あるいは外国人留学生の日本留学が容易になると考え、その面からの支持もあります。

 ただ、9月入学に変更したとして、新型コロナウイルス感染症の第2波が襲来し、学校が再び閉鎖に追い込まれたらどうするのでしょうか。また、4月に戻すのでしょうか。

 ここは、もっと弾力的に考えることはできないものかと思います。必要な単位さえ修得したら、どの学期の終了後であっても卒業できる制度にするのです(日本では、現在、2学期制、3学期制、4学期制の大学が併存しています)。そうすれば、今回のような事態が再び襲ってきたとしても、柔軟に対応できるのではないでしょうか。

 しかし、このような提案をすると、就職はどうするのだという疑問を持たれるかもしれません。日本の雇用システムの特徴は、定年までの「終身」雇用ですが、このため、毎春、新卒の一括採用を行ってきました。そして、それを前提に、学校教育と就職活動との間の折合いをつけるために、就活ルールが導入されてきました。もし、年度中のどの学期後でも卒業できるようにしたら、就職までにブランクの期間が生じてしまうではないか、という懸念はもっともだと思います。

 しかし、現在、企業の採用のあり方は変わりつつあります。多くの企業が、優秀な人材を採用するために通年採用に動きつつあります。もし、そうだとすると、卒業タイミングの柔軟化は、大きな問題にはならないはずです。むしろ、卒業のタイミングが柔軟化することによって、企業の採用の柔軟化が後押しされることになるものと考えられます。こうした変化は、日本経済における人的資本の蓄積と、生産性の上昇に寄与するものと期待できます。

 このように、新しい経済システムを構築する時には、これまでの硬直的なシステムを新しい「硬直的なシステム」で置換えるのではなくて、ショックに耐性のある「柔軟なシステム」で置換えることを考えるべきだと思います。

【今回の事態を「ビッグ・プッシュ」に】

 日本の経済システムは、高度成長期を中心に、うまく機能してきました。これは、当時の日本経済を取り巻く前提条件と整合的な形態であり、家計や個人にとっての最適な選択と合致していたからだと考えられます。しかし、その後に顕在化してきた高齢化・人口減少の進展、競争環境の激化、技術革新の急速化といった前提条件の変化にうまく対応できず、様々な問題を露呈することになりました。特に家計や企業の最適な選択とのズレが目立ってくるようになってきました。その結果、経済システムの効率性も低下し、日本経済の経済成長能力も大いに削がれることになりました。

 しかし、制度的補完性もあり、経済システムを新しく構築し直すことはそう簡単なことではありません。歴史を振り返っても、経済システムの改革は、黒船来航・明治維新や戦時体制・戦後改革の時など、数えるほどしか行われていません。ある均衡から新しい均衡に移行するには、大きな力、いわば「ビッグ・プッシュ」が必要なのです。今回の新型コロナウイルス感染症の拡大と社会・経済の大きな混乱は、過去の数少ない事例に見合うような「ビッグ・プッシュ」になる可能性があると思います。そうであれば、この機会を利用して、新しい経済システムを変革することを考えるべきではないでしょうか。それこそが、この悲劇を無駄にしない唯一最大の方法のように思えます。