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齋藤潤の経済バーズアイ (第100回)

緊急事態宣言の経済学

 

2020/08/03

【生命・健康と経済との間のトレードオフ】

 新型コロナ感染症の感染者数が再び増加を示しています。一日当たりの全国の感染者数が最も少なかったのは、緊急事態宣言が解除された5月25日の20人でした。それに比べて、7月31日の感染者数は1,574人と過去最多になり、前回のピークである4月10日の708人の倍以上となっています(注)。今回の特徴は、まだ重症者数や死亡者数が低いことにあると言われていますが、水準はまだ低いかもしれませんが、重症者数も徐々に増加し始めており、死亡者数にも増加の兆しが見られます。

(注)これはある意味では予想されたことです。実効再生産数が1以下に低下するような大きな変化(例えば、治療薬やワクチンの開発、あるいは根本的な行動変容のような大きな変化)がない限り、感染拡大が再び拡大することは必至です。この点については、シミュレーションを用いながら、本年5月の本コラムで議論しましたので、参照して頂ければ幸いです(https://www.jcer.or.jp/j-column/column-saito/2020051.html)。

 これを受けて、政府や自治体の対応はこのままで良いのか、再び自粛要請や緊急事態宣言を発出する必要はないのか、少なくとも「Go To Travelキャンペーン」は撤回すべきではないのか、といった議論が盛んに行われています。

 ここで私たちに突きつけられている問題は、生命や健康への影響と、経済活動への影響との間のバランスをどうとったらいいのか、ということです。そこで、今月のコラムでは、その考え方について、経済学的な枠組みを使って整理してみたいと思います。

【人的移動制限措置を分析する枠組み】

 以下では、人の移動を制限するような措置を「人的移動制限措置」と呼ぶことにします。そうした措置には、ソフトなものからハードなものまで、程度の差がある様々な措置が含まれます。例えば、ソフトな措置の代表例は「自粛要請」であり、ハードな措置の代表例が罰則付きの「ロックダウン」ということになります。

 こうした人的移動制限措置がなぜ採用されるかというと、それは生命や健康への悪影響を小さくできるからです。生命や健康への悪影響を「人的損失」と呼ぶとすれば、人的移動制限措置には「人的損失の削減効果」があるということになります。この関係を図に表すと、第1図のようになります。

 ここでは、人的移動制限措置の人的損失削減効果は常に存在する(常に正となる)が、その効果はソフトからハードに向かっていくにつれて、次第に小さくなっていくと仮定されています。

 他方、人的移動制限措置を採用すると、企業の経営悪化や個人の所得減少など、経済面への影響が出てきます。これを人的移動制限措置の「経済的損失の増加効果」と呼ぶとすれば、両者の関係は、第2図のように表せます。

 ここでは、人的移動制限措置の経済的損失増加効果は常に存在する(常に正となる)が、その効果はソフトからハードに向かっていくにつれて、次第に大きくなっていくと仮定されています。

【人的損失と経済的損出を比べることができるのか】

 これで、道具は揃ったので、両者を組み合わせることを考えてみます。これによって、社会的に最適な人的移動制限措置の水準を求められると考えられるからです。

 しかし、実は、問題はそう簡単ではありません。横軸は同じ人的移動制限措置なので問題はないのですが、縦軸の「人的損失の削減効果」と「経済的損失の増加効果」は同じ次元にはないからです。人の生命や健康を経済的に評価する、あるいは「換算」することが求められますが、そんなことはできるのでしょうか。実は、この両者のトレードオフを議論するということは、この「換算」をしているということになります。これがこの議論の最も大きな問題点です。もし、このような「換算」はできない、生命や健康は何物にも代えがたいという判断をするのであれば、「人的損失の削減効果」が存在する限りは(つまりこれがゼロになるまでは)、人的移動制限措置を強化しなければならないことになります。

 しかし、現実には、政策決定にあたって、この両者の間のトレードオフの下で、選択が行われています。それを表したのが、第3図です。

 ここでは何らかの方法で「換算」が行われ、縦軸には「人的損失」と「経済的損失」を同一次元で表した「損失」の増減が表されていることになります。もし人的な損失に対して経済的な損失を相対的に低く評価するのであれば、人的移動制限措置の限界費用曲線の傾きは緩やかになります。これに対して、もし人的な損失に対して経済的な損失を相対的に高く評価するのであれば、人的移動制限措置の限界費用曲線の傾きは急になることになります。

 このように人的移動制限措置の限界便益曲線と限界費用曲線を組み合わせることができるとすれば、両曲線の交点こそが、人的移動制限措置の最適な水準ということになります。なぜなら、これより左に止まっていれば、限界便益の方が限界費用より大きいので、人的移動制限措置を強化することが望ましいということになります。また、交点よりも右にあれば、限界費用の方が限界便益を上回っているので、人的移動制限措置を緩和することが望ましいということになるからです。

【緊急事態宣言発出の分析】

 この枠組みを使って、私たちが経験した緊急事態宣言の発出とその解除について考えてみましょう。

 まず、4月における緊急事態宣言の発出です。この時は、感染の急拡大が見られ、医療崩壊を回避するという目的もあり、まずは人的損失の削減が最優先にされたと考えることができます。このことは、第4図(1)で言うと、横軸のA点のような措置が採用されたと理解することができます。

 しかし、これだけでは、この政策選択は最適な措置にはなっていません。限界費用が限界便益を上回っているからです。緊急事態宣言後に経済的な損失への配慮を強く求める声が強まったのも、このよう背景があったからだと考えられます。

 政府のこれに対する対応が、二度にわたる補正予算措置だったと考えられます。特別給付などを含むこれらの補正予算措置は、経済的な損失に対する社会の受容力を高めるために打ち出されたものだと理解することができるからです。第4図(2)では、それが限界費用曲線の下方シフトとして表されています。このことによって、緊急事態宣言は、最適措置に近づくことになったと考えることができます。

 ただし、ここで注意しなければならないのは、補正予案による特別給付などの措置は、いずれも時限的な措置であって、財源が尽きれば、また限界費用曲線は元に戻ってしまう(シフトバックする)ことになってしまうということです。そうしないためには、必要である限り、補正予算を何回でも編成しなければならいことになります。果たしてこのようなことができるのかが問題です。この論点については、また後に触れたいと思います。

【緊急事態宣言解除の分析】

 4月に発出された緊急事態宣言は、5月に入って解除されました。これはどのように理解すれば良いのでしょうか。

 第5図(1)がそれを表しています。政府は、感染拡大をある程度抑えることに成功したのを見届けた上で、経済的な影響の拡大を懸念して、緊急事態宣言を解除しましたが、これは、人的移動制限措置をB点にまで緩めることだと考えることができます。

 人的移動制限措置の解除は、これだけであれば最適措置とはなっていない可能性がありました。限界便益が限界費用を上回っており、人的移動制限をもっと強めることを要求しているからです。

 そこで打ち出されたのが、限界便益曲線を低下させる措置だと考えられます。治療薬やワクチンができていればそれにこしたことはありませんが、これらがまだ開発されていない段階でできることは、人々に大きな行動変容を求めることです。「新たな日常」への順応が求められた背景には、このような事情があったと考えられます。第5図(2)では、それが限界便益曲線の下方シフトとして表されています。

 これによって、緊急事態宣言を解除したとしても、最適措置となることが可能になります。ただ、これは簡単なことではありません。これまで慣れ親しんできた生活様式を捨てて、感染拡大を防止するような(つまり実効再生産数を1未満に引き下げるような)新たな生活様式を取り入れることは容易なことではないからです。しかも、それが一時的であっては意味がありません。それでは、上記の限界費用曲線はまた元に戻ってしまいます。「新たな日常」は、(少なくとも治療薬やワクチンができるまでは)持続するものでなければなりません。

【中長期的な政策対応へのインプリケーション】

 以上、緊急事態宣言の発出やその解除といった政策対応について、どのように考えればいいのかを、経済学的な枠組みを使って考えてみました。

 最後に、こうした短期的な政策対応が、中長期的な政策対応に対してどのようなインプリケーションがあるのかについて整理しておきたいと思います。それは二つにまとめられます。

 第1は、補正予算への依存が続くことのインプリケ―ションです。

前述したように、編成済みの補正予算に含まれている措置は、いずれも時限的なものです。したがって、既に打ち出されて措置を続けるためだけであっても、更なる補正予算の編成が必要になってきます。

 このことは、政府が掲げる現在の財政再建目標の達成を一層難しくします。これまでの二度にわたる補正予算だけであっても、現在の財政再建目標が達成できないことは、7月31日に内閣府が公表した「中長期の経済財政の試算」にも示されています。この上さらに補正予算を編成して、基礎的財政収支を一層悪化させ、政府債務をさらに積み上げることが、我が国のソブリン・リスクを高めることにはならないのか。早急に新たな財政再建目標を策定する必要があるように思います。

 もちろん当面は、長短金利操作付き量的質的金融緩和政策(YCC-QQE)によって国債が買い支えられ、長期金利は低く抑えられることになるものと見込まれます。しかし、日銀による大量の国債買入れは、将来、物価目標が達成され、金融政策が正常化に向かう際に、大きな損失を抱えることになる可能性が高まることを意味しています。

 財政再建と金融政策の正常化をどのように進めるのか。順序(シークエンシング)を考える必要がないのか。考える必要があるとすればどのようなものにすべきなのか。こういった議論を始めておく必要があると思います。

 第2は、行動変容が持続することのインプリケーションです。

 既に見たように、経済活動を再開させながら、感染拡大を抑制するためには、行動変容が不可欠です。しかし、それは簡単なことではありません。それは、最近の感染拡大の背景にある「自粛疲れ」を見ても分かります。

 現在求められている行動変容の中には、いったん治療薬やワクチンが開発され、新型コロナ感染症が克服されることになれば元に戻ってしまうであろうものも含まれています。例えば、人的な移動や接触それ自身が目的であるような経済行動(例えば旅行や会食、接待)は、また復活する公算が大きいと考えられます。

 他方で、人的な移動や接触が本来の目的ではなく、例えば工業製品の製造やバックオフィスの事務などのように、別の目的を達成するための付随的な行動(必要悪?)である場合には、今回のオンライン化の経験などを踏まえて見直され、今後大きく形を変えていくものが多いと思われます。

 そうした変化は、多くの場合、経済活動の効率を高めるものになると考えられます。そのため、政策的にそうした動きを後押していくことにも意味があることになります。今回導入した様々な給付や助成など、現状の固定化につながりかねないような特別措置は、必要がなくなったら速やかに解除することが必要です。その上で、変化を可能にするような開業の支援や規制の緩和なども重要になってくると思われます。また、そうした動きについていけずに、縮小や退出を余儀なくされるような事業者に対しては、事業転換の支援などを行い、その過程を円滑化するような措置の導入が必要になってきます。

 現在は、どうしても直面する困難な状況への政策対応に追われてしまいがちです。しかし、短期的な政策対応は、それぞれが中長期的なインプリケーションを有しています。したがって、中長期的な課題にも目配りをし、それへの準備を怠らないことが重要だと思います。


 なお、末筆になりますが、このコラムも今回で100回目を迎えることになりました。これまでお読み頂いた皆様に感謝を申し上げるとともに、今後ともお読み頂くのにふさわしいものにすべく精進を重ねて参りますので、引き続き宜しくお願いを致します。