新政権の政策課題:包摂的な成長経済の実現
2020/09/01
8月28日に安倍総理から突然の辞意表明がありました。安倍政権は、明確な政策目標を掲げ、久方ぶりの長期政権としてそれらに取組み、多くの成果を挙げてきました。しかし、同時に、達成されずに残され、新政権に託されることになった重要な政策課題もあります。今回は、新政権の発足に先立って、新政権が取組むべき経済政策上の課題について、整理をしておきたいと思います。
それは、大きく五つにまとめることができます。
【新型コロナ感染症対策の強化】
第1は、新型コロナ感染症(以下、「コロナ」と呼ぶ)を克服することができるまで、その感染拡大を極力抑えることです。
コロナの克服はワクチンないし治療薬が開発できて初めて可能になります。しかし、それまでにどれだけの時間がかかるかはまだ不透明です。そのため、当面は、感染拡大を抑制するために、数理疫学でいう実効再生産数を1未満に引き下げるような方策が必要となってきます。そのために、4月から5月にかけては緊急事態宣言が発出され、個人や家計に自粛を強く求めることになり、それが解除された後も、「新しい日常」への行動変容を求めることになったと考えられます。
こうした行動変容の中には、リモートワークのように、これまでの不効率性に気づかされ、それを行うことによって、むしろ生産性の上昇がもたらされるようなものもあります。そのような場合には、それに取組むインセンティブが存在するので、「恒久性のある」行動変容として、そのまま定着する可能性があります。
しかし、他方では、旅行、スポーツ、会合などの自粛のように、本来の欲求に反するような、「恒久性のない」行動変容もあります。その場合には、自粛疲れを生み、自粛の反動をもたらすことがあります。それが、7月にかけて見られた感染拡大の第二波の背景にあると考えられます(第1図参照)。この経験は、コロナが克服されるまでは、ある程度厳しい人的移動制限を継続せざるを得ないことを示していると考えられます。
もちろん、そのことによって経済活動は停滞することになるので、企業の収益は悪化し、雇用者や自営業者の所得は減少します。それによって営業や生活が継続できなくなるような事態も出てきます。こうしたことから、政府は二度にわたって2020年度補正予算を編成し、特定定額給付金や持続化給付金などの新しい給付措置、あるいは雇用調整助成金の特例措置など、様々な経済的支援策を発動することになったわけです。
これらは必ずしも十分なものではありません。しかし、にもかかわらず、すでに大幅に悪化していた日本の財政事情を、さらに悪化させることになりました。しかも、残念ながら、コロナの克服にはまだ時間がかかり、補正予算で導入された措置は多くが時限的な措置であるために、新しい措置を導入する場合にはもちろんのこと、これまでの措置を継続するためだけにも、さらなる補正予算の編成が必至になるものと見込まれます。財政状況が、一層悪化することを覚悟しなければなりません。この点については、後にまた戻ってきたいと思います。
【デフレ再現への早期対応】
第2は、デフレ再現への早期対応です。
コロナへの対応としてとられる人的移動制限措置は、経済活動に強い制約を課します。財政による財政的支援策は、家計や企業の対応力をある程度補完することはできても、経済活動そのものの停滞を防ぐことはできません。実際、2020年4~6月期の実質GDP成長率は季節調整済み前期比で7.8%減(年率で27.8%減)となり、需給ギャップを示すGDPギャップも潜在GDP比で10%を超える水準にまで拡大しました(第2図参照)。GDPギャップのマイナスは時間差をもってGDPデフレーターのマイナスをもたらすと考えられるので(例えばリーマンショック直後のことを思い出して下さい)、今後、デフレが再現する可能性が高いと考えられます。
GDPギャップを縮小させていくためには、潜在GDPの増加を上回る総需要の拡大が必要となります。しかし、個人消費は、コロナが克服できても、しばらくは慎重なものにとどまるものと考えられます。また、設備投資も、高齢化・人口減少を背景に国内市場が縮小することが見込まれる中では、非製造業を中心に、抑制気味に展開することになると思われます。
こうした中では、通常であれば、財政金融政策への期待が大きくなります。しかし、財政政策には大きな制約が存在します。すでに財政事情が大幅に悪化していることから、特にコロナを克服した後は、このように積極的なスタンスを取り続ける余裕はありません。むしろ、後述するような事情から、この時期から徐々に財政政策を進める必要があると考えられます。
そのため、金融政策に一層の負荷がかかることになり、更なる金融緩和を求められることになります。これによって、消費や投資が拡大するための環境が整備されることが期待されます。また、円高圧力を抑制することによって、輸出増大による海外市場の取込みに貢献することにもなると考えられます。
【財政再建計画の策定と実行】
第3は、悪化した財政を立て直すために財政再建計画を策定し、それを確実に実行していくことです。
安倍政権の誕生直後に、2020年度を目標に基礎的財政収支の黒字化とそれ以降の政府債務残高の安定的な引き下げを推進するという中期的な財政再建計画が策定されました。しかし、その後、消費税率の引上げが二度にわたって延期されたこともあって、目標の達成が困難になり、目標年度の2025年度への先送りが行われてしまいました。
しかも、その後、前述のように、コロナ対策のために編成された二度の補正予算によって、財政は一層悪化することになりました。内閣府の試算によると、2020年度には、国と地方の基礎的財政収支はGDP比で、前年度の2.6%から12.8%にまで拡大し、政府債務残高のGDP比も、前年度の192.5%から216.4%にまで増加することになると見込まれています(第3図参照)。それを受けて、新たに策定された財政再建目標も棚上げにされています。
現在は、国債が国内の経済主体、特に金融機関を中心に長期保有の対象として保有されています。また、日銀の金融緩和政策により長期金利もゼロ近傍に止められています。したがって、財政再建を早急にしなくても問題はないという見方もあります。しかし、経常収支の基調が変化し、海外貯蓄により多く依存するようなことになると、日本の財政の持続可能性に大きな疑念が抱かれ、これまでより大きなリスク・プレミアムを要求されることになる可能性があります。したがって、そうなる前の財政再建の道筋をつけておくことが必要です。
ただし、財政再建の実施には、タイミングが極めて重要になってきます。財政再建は、財政支出の削減にしても、財政収入の増加(増税)にしても、マクロ経済には下押し圧力が加わることになります。したがって、本来は、財政再建の本格的な実行は、デフレ脱却を図っている時期には回避すべきです。しかし、今回は、金融政策との関係でそれができません。
なぜなら、デフレ脱却を果たすことができれば、金融政策は物価安定目標(消費者物価指数上昇率で2%)を達成しているはずなので、金融政策は正常化に向かう必要があります。そうしないと物価上昇率が物価安定目標を大幅に上回る可能性があるからです(オーバーシューティング・コミットメントの下では、ある程度のオーバーシュートは認められますが、それにも限度があります)。
他方、金融政策の正常化との関係を考えると、財政再建は金融の正常化(量的・質的金融緩和の解除)より前に行うことが必要です。金融の正常化に伴って、日銀による国債購入は縮小していき、利上げも行われていくことになりますが、これが財政再建に先行して行われると、国債の利子負担を増加させ、財政再建を困難にすると考えられます。
したがって、財政再建は、金融政策の正常化の前に、すなわちデフレ脱却が実現される前から開始をする必要があるのです。
このように考えてくると、財政再建と金融正常化のタイミングとそれぞれの進め方には細心の注意が必要であることが分かります。このため、財政再建と金融正常化に向けた政策をどのように順序付けていくのか(シークエンシング)についての、政府と日本銀行間の政策協調が極めて重要になってきます。通常の意見交換の場を超えた、何らかの協議体を必要とするのではないかと思われます。
【経済成長を高めるための構造政策】
第4は、経済成長を高めるための構造政策の強化です。
マクロ経済の基盤を財政再建や金融正常化に耐えられるものにするためには、潜在成長率を高めることが必要です。しかし、現在の潜在成長率を見ると1%を下回っており、極めて低い水準になります。しかも、その原因になっているのは、高齢化・人口減少の直接的な帰結である労働投入の寄与低下だけでなく、設備投資の低迷を反映する資本投入の寄与低下、あるいは経済システムの効率性やイノベーションの成果を表す全要素生産性の寄与低下にあります(第4図参照)。
したがって、潜在成長率の引上げには、多様な構造政策が求められます。なかでも特に重要になってくるのは、既に制度疲労を起こしている日本の経済システムを改革することと、高齢化・人口減少への対応をすることです。それぞれにおいて必要とされる具体的な政策については、別の機会に詳述しているので、詳細については、そちらに譲ることとしたいと思います。ここでは、今回のコロナを巡る状況の中で、それぞれが促進されやすいような状況も出てきたことを指摘しておきたいと思います。
例えば、経済システム改革で鍵を握っているのは、雇用システム改革です。これまでは、終身雇用制の下で無限定な働き方を求められてきました。しかし、コロナの下で、リモートワークが拡大するなかで、職務を明確にした雇用のあり方への移行が見られるようになってきています。また、給与体系や手当の見直しが行われ、年功賃金体系にも変化が見られます。これらを弾みに、日本の雇用システムの改革が促進され、人材を有効活用することが可能になれば、日本経済の効率性が高まることになると期待されます。
また、リモートワークの拡大は、女性や高齢者の労働参加率の引上げを後押しすることになります。これは、高齢化・人口減少に伴って必要になっている働き手の確保に資することになります。
他方で、ブレキシットやトランプ大統領の誕生、米中貿易戦争に加えて、コロナ対策もあり、近年、モノやヒトの移動に対する内向きの政策が強まってきました。しかし、グローバル化による競争圧力によって資源の有効利用が促進されるとともに、イノベーションへの取組も刺激されることになります。したがって、グローバル化を促進することは、今後、高齢化・人口減少によってさらに低下する懸念のある日本の潜在成長率を引上げることに大きく貢献するものと考えられます。グローバル化の動きを取り戻すことも構造政策の重要な柱になります。
【不平等度拡大を抑制するための政策体系の構築】
第5は、不平等度の拡大を抑制するための政策体系の構築が必要です。
この点は、安倍政権ではあまり強調されなかったことです。しかし、現時点でも、すでに日本の不平等度は拡大しており、OECDの中でも比較的高いグループに属しています(第5図参照)。今後、前述したように、構造政策の一環としてグローバル化やイノベーションの促進を強力に進めることになると、不平等度がさらに拡大していく可能性があります。
不平等度の拡大を抑え、社会の公平感を維持することは、個人の幸福度の上昇や社会の安定にとって、極めて重要です。しかし、だからと言ってグローバル化やイノベーションを拒否すべきではありません。むしろ、それがもたらす恩恵を最大限受けながら、そのデメリットを最小化するための政策対応を考えることが必要です。
その意味では、働き手に必要なスキルを身に付け、また常にグレードアップできるように、教育や訓練の機会を充実させ、雇用の安定化を図ることが重要です。これによって、事前的な不平等の拡大を防止することが可能になります。他方で、結果的に生じてしまった不平等度の拡大には、税制と給付制度を組み合わせた再分配政策を抜本的に強化することで、事後的な修正を図ることが必要です。
【包摂的な成長経済の実現】
不平等度の拡大を抑制することによって、グローバル化やイノベーションの果実を国民全体が享受できるようになります。これを、OECDの言い方を借りて包摂的な(インクルーシブな)成長経済と呼ぶならば、そのような包摂的な成長経済を実現することは日本にとって極めて重要な政策課題となると思われます。
もちろん、包摂的な成長経済を実現するためには、これまでの財政や社会保障政策のあり方を大きく変革することが必要になります。それにはかなりの時間と労力が必要となることは否定できません。しかし、前述のように、この時期はちょうど財政再建に取組む時期でもあり、財政支出と財政収入のあり方を見直すことが予定されています。そうであれば、この時期は、こうした取組みを進める上では好機であるとも言えます。
新政権が取組むべき政策課題の中には、これまでの政権が取組んできたにもかかわらずできなかったことをやり遂げるという側面があります。しかし、新政権であれば、これまでの政権が取り上げてこなかった重要政策課題を積極的に取り上げることもできます。今回の新政権の場合には、それがこの「包摂的な成長経済の実現」なのではないかと思います。
バックナンバー
- 2023/11/08
-
「水準」でみた金融政策、「方向性」で見た金融政策
第139回
- 2023/10/06
-
春闘の歴史とその経済的評価
第138回
- 2023/09/01
-
2023年4~6月期QEが示していること
第137回
- 2023/08/04
-
CPIに見られる基調変化の兆しと春闘賃上げ
第136回
- 2023/07/04
-
日本でも「事前的」所得再分配はあり得るか?
第135回