脱成長論が提起していること
2022/01/06
【求められる気候変動対策】
国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)が幕を閉じました。昨年の10月から11月にかけて英国グラスゴーで開催されたこの会議では、とりまとめの段階でハプニングもありつつ、画期的な合意を取りまとめることができました。「グラスゴー気候合意」と呼ばれる合意文書では、気候変動対策の目標を一歩進め、「気候変動の影響は、摂氏1.5度の気温上昇の方が摂氏2度の気温上昇に比ベてはるかに小さいことを認め、気温上昇を摂氏1.5度に制限するための努力を継続することを決意する」(環境省暫定訳)と表明したのです。
しかし、摂氏1.5度の気温上昇に抑えることはもちろんのこと、摂氏2度の気温上昇に抑えることも、現時点においては、その達成を見通すことはできません。国連環境計画(UNEP)が11月に発表した「排出ギャップ報告書」の補遺によると、パリ条約の全締約国がこれまでに提出した国別削減目標だけでは、今世紀中の気温上昇が2.7度にまで高まってしまう可能性があると試算されます。
日本も、温暖化ガスを「2050年に排出量実質ゼロ」とするとの目標を宣言し、それに向けて、2030年度までに温暖化ガスの排出量を2013年度比で46%削減することを表明しています。しかし、それに向けた道筋も必ずしも見えているわけではありません。
気候変動という切迫した事態に向けた取組みがこのように依然として不透明な状況において、その実現に関して明確で先鋭な議論を展開している人たちがいます。いわゆる「脱成長論」(英語でdegrowth, 仏語でdécroissance)を唱える論者たちです。代表的な論者としては、フランスのセルジュ・ラトゥーシュ(Serge Latouche)やスペインのヨルゴス・カリス(Giorgos Kallis)などがいます。
(参考文献)
・セルジュ・ラトゥーシュ『脱成長』、文庫クセジュ、白水社、2020年(以下ではLと表記)。
・ヨルゴス・カリス、スーザン・ポールソン、ジャコモ・ダリサ、フェデリコ・デマリア『なぜ、脱成長なのか』、NHK出版、2021年(以下では、KPDDと表記)。
彼らの議論は文明論までをも含む広範な分野にわたっており、その全体を俯瞰することは容易ではありません。しかし、以下では、あえて脱成長論の議論の要約を試み、それが提起していることは何なのかを考えてみたいと思います。
【脱成長論の主張】
ラトゥーシュによると、脱成長論者は、先進資本主義国が直面している環境破壊をはじめとする多くの問題が、GDPを自己目的化する成長至上主義的な考え方によって奨励されてきた「際限のない消費」の結果であると考えています。これによって再生産不可能で不可逆な自然資源の「際限のない収奪」やごみと環境汚染の「際限のない生産」がもたらされているとみています(L:44ページ)。
さらにその背景を探っていくと、「近代が先天的にもっている節度の感覚の喪失という根本的な問題」があり、その結果である経済の過剰な成長が「生物の有限性」に直面することになり、「地球の再生産能力」がそれに追い付けなくなっていると考えています(L:46~47ページ)。また、経済成長社会は不平等や不正義の拡大をもたらすとも考えています。「トリクル・ダウン効果」が期待できるのは、特殊な一般化不可能な状況に限られると言います(L:54ページ)。
それでは、脱成長論者はどのような社会を実現しようとしているのでしょうか。ラトゥーシュは、「簡素な生活が『好循環』」する社会」、「自己制御、分かち合い、贈与の精神、自立共生を基礎とする『節度ある豊かな社会』」を構想しています(L:71~72ページ)。彼によると、そうした社会は18世紀までの西欧社会には存在していたが、16世紀英国で始まった「囲い込み運動」によってコモンズが破壊された結果、希少性という概念が作り出され、世界が経済化されていったため、消滅したと考えられています(L:63~64ページ)。
ただし、ラトゥーシュは、それ以上に、あるべき具体的な姿について踏込んで示すことはしていません。なぜなら、脱成長は、「オルタナティブそのものではなく、グローバル化した資本主義にとって代わる様々なオルタナティブの母体」だと考えられているからです(L:60ページ)。
これに対して、カリス他は、より明確な将来社会のあり方とそこへの道筋を描いています。彼らは、「コモンズ」(「人間が共同で管理し共有する資源や生活システム」のこと)や「コモニング」(「互いに支え合い、衝突があれば話し合いながら、そうした共有の資源をつくり、維持し、享受していくプロセス」のこと)による個人主義の克服を重視し(KPDD:38~39ページ)、そうした観点から、「望ましい未来を描くために組み合わせていきたい5つの改革」を提案しています。具体的には、「成長なきグリーン・ニューディール政策」、「所得とサービスの保障」、「コモンズの復権」、「労働時間の削減」、「環境と平等のための公的支出」です(KPDD:101~120ページ)。彼らは、スペインのバルセロナでの実践や、今回のコロナ下での政策対応などに、こうした取組みの萌芽を見出しています。
【脱成長論の検討】
以上のような脱成長論の議論を、どのように捉えるべきでしょうか。様々な観点から捉えることができると思いますが、ここではとりあえず次の点を指摘しておきたいと思います。
第1に、脱成長論の意義として、現在の経済成長のあり方に対する鋭い批判によって、現在の経済システムや経済成長のあり方を振り返り、その課題について認識するきっかけを与えてくれるという点を指摘できます。
気候変動にしても、格差の問題にしても、現在の経済が直面する深刻な問題ですが、脱成長論は、成長の放棄を主張することによって、こうした問題がこれまでの延長線上にあるような漸進的な政策対応では手に負えない類の問題であることを宣言していると考えられます。
他方、第2に、脱成長論に対する疑問として、復古的な考え方が強いことが指摘できます。特に、近代社会以前に存在していた、コモンズのあり方を理想にしていると思われるところが多々あります。例えば、カリスらは、「それまで数千年間、ほとんどの人間は、自分の家族と自分のコミュニティーを持続させるために社会を形作っていた」が、それが「囲い込み運動」によって奪われてしまった、と主張しています(KPDD:43~44ページ)。
しかし、「囲い込み運動」以前に存在していた封建時代の農奴制社会において、個人にどれだけの自由があり、コミュニティーの自立があったのか。この点については、大いに議論の余地があるように思います。
しかも、第3に、脱成長論が市場経済の浸透力の強さを軽視していることを指摘することができます。仮に百歩譲って理想とする社会が封建社会にあったとしても、歴史は「不可逆的」であり、元に戻ることはできません。これは、一般的な時間の不可逆性の意味で言っているのではなく、市場経済が持っている強い浸透力を踏まえてのことです。
市場経済は、それが最もよく機能するためには、それにふさわしい制度を必要とします。しかし同時に、市場経済は、それを妨げようとする制度や政策・規制を乗り越える力を有しています。取引が行われる可能性がある限り、人為的な規制がそれを食い止めることはできず、社会はやがて市場経済に浸食されていくことになります。封建社会が終焉を迎え、計画経済が結局は崩壊せざるを得なかったことがそれを端的に表しています。つまり、市場経済がいったん発展してくると、それを押し戻すことは不可能となり、それと共存せざるを得ないことになると考えられます。
そうであるとすれば、市場経済を否定するのではなく、それと共生するような形で、どのような経済社会を形成していくのかを考えていく必要があります。気候変動との関係で言うと、脱成長論者は強く否定しますが(ラトゥーシュ、38~44ページ)、いわゆる「持続可能な発展」(sustainable development)、「持続可能な経済成長」(sustainable economic growth)を追求するしかないように思います。問題は、それをどのように実現するかです。
【脱成長論をどう受け止めるべきか】
このように考えてくると、脱成長論は、気候変動に取組むには大胆な飛躍をしなければならないということを気付かせてくれるという面はありながら、気候変動対策への最終的な回答を与えているとは思えません。
しかし、だからと言って、世界や日本における現在の取組が十分であると考えることもできません。冒頭でも触れたように、これまでに表明されてきた気候変動対策では十分でないことが明らかになっているからです。
温暖化ガス排出量は、「人口」×「GDP/人口」×「温暖化ガス排出量/GDP」によって決まると言えます。世界の総人口は、国連の人口推計によっても2100年までは増加を続けると見込まれるので、第1項は増加することを前提にせざるを得ないでしょう。そうだとすると、その影響を相殺して余りあるだけ、第2項を低下させるのか、第3項を低下させるのか、あるいは両方を低下させるのか、いずれかを実現することが必要になってきます。
脱成長論の議論は、もっぱら第2項(人口一人当たりGDP)を低下させることを主張していると解釈できます。これに対して、もし経済成長を続ける必要があるとするならば、どのようにすれば第3項(GDP一単位当たりの温暖化ガス排出量)を十分な程度に低下させることができるかが問われることになります。
市場経済を前提にしながら、気候変動という外部不経済の問題を考えるとすれば、当然にピグー税やピグー補助金の考え方を活用することが検討されてしかるべきだと思いますが、それさえ十分にできていないのが現状です。将来世代に大きな犠牲を強いることをしないためにも、現役世代は早急に大胆な対応策を打ち出す必要があります。
バックナンバー
- 2023/09/01
-
2023年4~6月期QEが示していること
第137回
- 2023/08/04
-
CPIに見られる基調変化の兆しと春闘賃上げ
第136回
- 2023/07/04
-
日本でも「事前的」所得再分配はあり得るか?
第135回
- 2023/06/02
-
新しい将来人口の推計値:以前のものとどこが違うのか
第134回
- 2023/05/01
-
労働市場からの退出:なぜ英国では増加しているのか
第133回